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柔らかな春の日差しを浴びつつ、私はお祖父ちゃんの家を出て道路を前に左右確認する。
見渡す限り車は走っていない。
畑に横付けされた軽トラが遠くに二台あるだけだ。
最近お祖父ちゃんの家と五百メートル離れたお隣の亜由美ちゃんの家の間に新築の家が一軒建った。
建てたのは澄彦さん。
住んでいるのは三月から鈴白村に引っ越してきた高田くん一家だ。
真由里さんの話によれば、社宅扱いで家賃は格安、そして正武家に十年勤めれば勤続十年の慰労品として頂けるという。そんな福利厚生がある正武家って絶対に変だと思う。
そんなことを考えつつ、私が左右確認したのは安全のためではない。
正武家へ帰るか、誰かの家にお邪魔するか。
最終手段で名もなき神社へ行くっていう手もあるけれど。
そこまで考えてがっくりと肩を落とす。
これじゃあまるで玉彦から逃げているみたいだ。
とにかく腹が立ってしょうがないけれど、彼と話し合わなくては事が進まない。
昨日の今頃は明日は玉彦と鈴白村を出て、温泉宿に向かっているだろうとほくそ笑んでいたのに。
重い足を左に向けて踏み出す。
話し合いになったら喧嘩腰になってしまう自分が容易に想像できた。
昼餉を終えた玉彦は案の定探しに出てきたらしく、石段の途中で私は捕まった。
やっぱり悪びれた様子の無い玉彦は塞ぎこむ私とは逆に上機嫌で手を取り、お屋敷へ戻るのかこのまま散歩へ繰り出すか聞いてくる。
この人は今日、どれだけのことを仕出かしたのか分かっていないのだろうか。
とりあえずお屋敷に戻ることを告げて石段を上り始め、玉彦の様子を伺う。
相変わらず綺麗な顔をした私の旦那様は、機嫌が良いことも相まって輝いて見えた。
それが無性に腹が立つ。
「長年の約束を果たせるというのは、喜ばしいことだ」
「あっそう……。私との旅行を無駄にしてまで喜ばしいことなわけね……」
「旅行はまた次の機会に行けば良かろう?」
「……次っていつよ。二年目の結婚記念日は今日だけ、一回だけだよ!」
「一理あるが……」
「一理も二理もあるわよ!」
声を荒げた私に玉彦が少しだけ身を引く。
空いた手で自分の額に手をやり、目を見開いた。
何をそんなに驚くことがあるのか理解不能だ。
私にすれば驚くことに驚くわ。
「次の機会があるではないか」
「でも今日という日は今日だけだよ」
「そうだが……」
「じゃあ私も言うけど! 玉彦のその約束とやらは次の機会じゃダメだったわけ!?」
「駄目だ」
言い切った玉彦に今度は私が目を見開いた。
「先方は明日から仕事がある。本日も仕事だが午後は空けたと知らせがあった」
「その人の仕事の都合は優先させて、私との旅行を後回しにするっておかしいでしょ!?」
「しかし……」
「もういい! わかった! 玉彦は午後からその人と会えばいいじゃない! 私は自分の好きにさせてもらうから!」
「それは困る。先方は比和子と会えることをとても楽しみにしている」
どこまでも私の神経を逆撫でする発言に、頭から湯気が出そうになる。
「一体どこのどいつと馬鹿な約束をしたのよ!」
そうなのだ。
私との約束を反故にしてまで玉彦が優先させる人物に全く心当たりがない。
二段上から玉彦を見下ろして睨み付けると、彼は顎に手をやり考え込む。
「言ってはならぬと言われている」
「はぁ!?」
「因みに一応今日比和子との旅行があると告げたのだが、キャンセルしろと言われた」
「はぁぁぁっ!?」
「比和子は怒るだろうが気にするなとも」
「なによそれ!?」
そいつは私と玉彦との旅行をキャンセルさせて喧嘩をさせようとしているのだろうか。
確信犯的なそいつに腸が煮えくり返る。
そして大人しく従った玉彦にもだ。
こんな状態で訪問されたところで楽しく歓談とはいかないだろう。
私は繋いでいた手を振り解いて、プンスカして石段を上る。
後ろから玉彦が追いかけて来て手を掬い上げたけど、それも振り払う。
「比和子……」
悲し気な声に振り向くと、目を伏せて唇を噛み締める姿が目に入る。
そんな顔したって、駄目だもん。
唇を噛み締めたいのは私の方だ。
「旅行よりもその者と会った方が比和子の喜ぶ顔が見られると思ったのだ……すまない」
謝罪を絞り出す様に口にした玉彦に、私は大きく息を吐いた。
私だって結婚記念日に喧嘩をして言い合いをしたかった訳じゃない。
石段を降りて玉彦の手を取っても彼は顔を伏せたまま。
「七月十五日、覚えてる?」
私が聞けば、玉彦は深く顎を引く。
「比和子が石段を上り、屋敷を訪れた日だ」
友達よりも一足先に夏休みに突入し、鈴白村に来て二日目。
私は石段を上り、正武家の表門を通り抜けた。
そこで玉彦と出逢った。
何でもないただの平日だったけど、玉彦が覚えていて嬉しく思う。
「旅行はその日にする。結婚記念日も大事だけど、その日も特別だから」
繋がれた手に力が籠り、強く握り返してくる。
「比和子がいれば毎日が特別なのだぞ」
「それじゃあ毎日が記念日になるじゃないの」
「差し詰め本日は、比和子の再会記念日となる」
「え?」
玉彦の言葉に繋がれた手から彼の顔に視線を戻すと、ふわりと笑っている。
「再会?」
「おーい! 比和ー!」
電話越しではない懐かしい声に辺りを見渡し、石段の先。表門の向こう側。
そこには両手をぶんぶんと振る北海道にいるはずの小町と守くんが満面の笑顔で私の帰りを待っていたのだった。