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「ね……ぇ……、うぐっ……! いてぇ!」
片手を出して踏み出した瞬間、私のランドセルは力強く背後から引っ張られて、首が締まった。
ぱたん、と玄関ドアの閉まる音と共に尻餅をつき、振り向くとスーツ姿の男がしゃがみ込んで私と目線を合わせる。
なんだ、この男は。
私のお父さんと同じくらいの若さだ。
ちょっと釣目のいかにもバリバリ仕事してますって感じの細身の男。
男は尻餅をついたままの私を足先から頭まで何度も睨み付けて、眉間に皺を深く刻む。
「なんだ、てめぇ。人間か? 化け物か? うちの娘に近付くんじゃねぇよ」
「えっ……」
口の中が急速に干乾びて粘つく。
私は人間だ。
そう言わなきゃいけないのに、喉からは声が出ない。
「どこから来た? 鈴白か。道彦様の葬式から帰って来ればこれかよ。何かの封が解けたのか?」
男はブツブツ言って立ち上がると、胸元から折り畳みの携帯電話を取り出し耳に当てる。
けれど鋭い視線は私に固定されたままで、逃げるチャンスがない。
私は少しずつお尻を後ずさりさせたけれど距離は全然離れない。
「あ、澄彦か。おれだ。何か変なのが家の前に居るんだけど、お前んとこのか? ……いや、黒くてちっさい女の子供。あと藁着た婆ちゃん」
男の言葉に、えっ?となって振り向けば、私の後ろに呼び出してもいないのに老婆がぷかりぷかりと浮いていた。
いつもの様にニヤニヤした笑みを浮かべずに、険しい顔をしている。
「戻して戻して戻して、十分前!」
私が叫ぶと老婆は時を戻さずに、座り込む私の襟首を掴み、後方に向かって有り得ない速さで滑るように移動した。
引き摺られた私のお尻に焼ける痛みが走るけれど、それよりもあの男の前から逃げたい感情が大きかった。
「あ、逃げんな!」
携帯電話を片手に二、三歩踏み出した男はなぜか追い掛けて来ず、立ち尽くして遠ざかる私たちを見つめ続けていた。
角を曲がった先でいつもの異世界に入り込み、引き摺られ痛む尻を摩って立ち上がり、ランドセルを背負い直す。
小学生の頃はあんまり思わなかったけど、ランドセルって重い。
よくもこんなに重いものを背負っていたもんだと感心する。
背後にいた老婆を振り返れば、良く知るニヤニヤ顔に戻っていてさっきの険しい顔は何だったんだと思う。
私は浮かぶ老婆に詰め寄り、十分前に戻す様に言ったけど、彼女は二度ゆっくりと首を横に振った。
「何でよ!」
さっきの男は比和子の父親なのだろう。
どういう訳かこの老婆と私を普通ではないと見抜いていた。でも私も一緒くたにして化け物と言われたことに腹が立つ。
私は、人間だ。少しだけ人生経験が豊富な小学六年生だ。
このまま父親に警戒されていると比和子とは仲良くなれない。
父親の記憶から私を消さなけりゃいけないのに、この老婆ときたら何度お願いしても戻してくれなかった。
「どうして!」
「最後、最後だって言った言った」
「そろそろ、って付けてた! 上手くいったらって!」
「……でもでも今は無理無理。アイツに見つからない様に上手くやれやれ」
老婆は一方的にそう言うと、私の目の前から藁の身体をくねらせてつむじ風の中に消えていく。
残された私は普通の景色に戻った住宅街でぽつんと立ち尽くした。
時間を戻せなかったけれど、比和子の父親さえ避けていれば問題は無い。
些細なミスはカバーできると気を取り直した私は、それから小学校での接触を試みることにした。
高学年が低学年の面倒をみて、お昼休みとかに遊んであげることはなんら不思議ではない。
そうして私は彼女の中に『私』と言う存在を刻み、卒業して接点がなくなっても通学路で数日おきに遭遇するようにして挨拶をし、彼女が鈴白村へと転校するその日まで根気強く繰り返した。




