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「いやぁ、ここはとんでもなくおっそろしいところですなぁ」
おっとりとした声に振り向くと、涛川一派の頭である恒夫が例の乳白色の膜をぶよんぶよんさせながら腕組みをして石段脇から姿を現した。
白装束ではなく、普通の鼠色の着物に羽織を肩に掛けて、自分は一切関わり合いになりませんよ、というような風体だった。
恒夫の登場に流石に南天さんも顔を顰めて、けれど直ぐににこやかな表情に戻る。
私の肩を抱き、警戒心を覗かせると、恒夫は腹を揺すらせて笑った。
「そんな身構えなくても。にしても、奥さん、生きてたんですなぁ。ずっとお姿が見えなかったもんでもうぽっくり死んだもんだと思ってましたわ」
笑う恒夫の目だけ黒い虚のようで、ぞくりと背中に悪寒が走った。
私の姿が数日見えなかっただけで、普通死んだとか思う?
ううん、絶対に思わない。
離れに居なくても母屋に居るんだろうくらいにしか思わないはずだ。
しかも死んだって。
当主の間で普通の健康状態でいた私を知っていたはずの恒夫が、私がぽっくり死ぬとどうして思えたのか。
もしかしてあの枯れ木女は。
華子の何かではなく、恒夫が仕掛けたものだった?
でも枯れ木女の口ぶりは、明らかに華子に肩入れするものだった。
それに跡継ぎを兄妹どちらかにする為に神落ちを追っていたはずで、恒夫が華子に肩入れするっていうことは、そもそも跡継ぎは華子ってことで神落ち討伐を警察から引き受ける必要はなかった。
一連の流れのどこかに矛盾点があるはずなのに、私には見えない。
恒夫が描いた絵図の本意はどこにあるのか。
一体何を企んで、神落ち討伐を、そして五村へと繰り出してきたのか。
神落ちの件に関しては警察からの依頼、けれど五村への流れは本当に偶然にすぎないはず。
今回の一連の出来事はどこからどこまでが恒夫の掌の上だったのだろう。
考え込む私の目の前では、神落ちと涛川の跡継ぎたちに対応する玉彦たちが駆け回る。
恒継はともかく、神落ちと華子とお供二人が厄介なようで、華子たちから放たれる黒い札を躱したり叩き落している豹馬くんが汗を拭う姿が目に入る。
一度でも黒い札に触れたなら、終わり。
私は玉彦の御札のお陰で枯れ木女の力と相殺されたけれど、その力が籠められた黒い札はどれだけの効力があるのだろう。
迂闊に触れてしまえば危険なものには違いない。
だから豹馬くんたちは躱して落とし続ける。華子の懐に札が無くなるその時まで。
玉彦に至っては触れてもへっちゃらなんだけれど、いかにも汚いものとして避けている様子が傍目にも解かってちょっとだけ笑ってしまった。
こんな時なのに笑える私って、頭がおかしい。
そう思ってまた笑ってしまう。
そんな私の様子に気が付いた南天さんがつられて口元を弛め、恒夫は笑い声を止めた。
「お二人さん、なん……」
「うはははははっ! 人間どもを蹴散らすぞ! それ、右だ! 左だ! 棍棒を振れ! 遠くへ飛ばした者には褒美を出すぞ! ふははははははっ!」
私たちの方へ一歩踏み出した恒夫は夜行から聞こえた澄彦さんの高笑いとその内容に、呆気に取られて夜空を見上げる。
「あっ! 馬鹿! そいつじゃないよ! それはうちの者だ! 間違えるな! そこのこけしと糸目、あと白い奴らだよ! 見れば分るだろう、空気を読め!」
澄彦さんに操られている巨大な夜行は漏斗状の足元を玉彦たちの主戦場に乗り込ませ、段々と逆三角形から瓢箪型へと形を変えて、夜行の回転に合わせて猩猩の棍棒やら天狗の錫杖、狐の尻尾などが飛び出して来て、最初のうちは修験者の白装束を身に纏っていた豹馬くんと須藤くんも襲われていたものの、澄彦さんの檄により狙いは神落ちを無視して涛川一派に絞られた。
「あのお人はいったい……」
呆然とした恒夫が思わず言葉を口から零し、私と南天さんはまぁ澄彦さんだから、と心の中で思った。
「あの、くそ父上め!」
尊敬しているのか何なのか良く解らない呼び方で、夜行を操る澄彦さんに悪態をついた玉彦は太刀を振るい、再び私の目前に迫った神落ちを背後から呆気ないほどあっさりと一太刀に沈めた。
それでも両断とまでとはいかなくて、這いずってでも私に手を伸ばした醜悪な姿がいつかの白猿、猿彦のものと重なったけれど、私は手を差し伸べたい感情が浮かばなかった。
返り血を浴びた玉彦は気にする風でもなく血に塗れた太刀を南天さんに無造作に放り投げると、受け取った南天さんは鞘へと納める。
お役目に関して玉彦はいつも懇切丁寧に行うのだけれど、今回の事案に限っては散々色々な人たちに進行を妨げられ、集大成のこの場において当主である澄彦さんが先頭になって場を荒らしたことに、より一層の不快感と苛立ち、怒りが沸いたようで動作が若干乱雑になっていた。
両腕を広げ、神格を鎮める素振りを見せた玉彦は、私の僅か後方に居た恒夫を一睨みして瞼を閉じる。
もうこれ以上邪魔はするなよ、という玉彦の無言の牽制に恒夫は身じろぎもせず、むしろ動きたくても下手に動いたら何をされるかわからないと言った状況のようで、微動だにしない。
「比和子さん」
「はい?」
小声の南天さんはまっすぐ前の玉彦から視線を外さず、背後の恒夫に聞こえないように囁く。
「後ろに動きがあった場合、躊躇なく『止めて』ください」
「えっ……」
思わず振り返りそうになって南天さんが私の二の腕を掴む。
恒夫は動く素振りを見せないし、そもそもあの乳白色の膜を纏った彼に眼が通用するのか疑問が残る。
でも神様じゃないし人間だし、何らかの効果は見込めるだろうけども。




