序章
正武家比和子。
私の名前だ。
旧姓は上守という。
以上です。
……私に纏わる自己紹介はこれくらい。
嫁ぎ先の正武家の日常が私の日常になり、二年。
本日結婚二周年。
二年目を藁婚式と呼ぶのだと、夫の玉彦が教えてくれた。
十五年目まではそれぞれ名前が付いていて、それ以降は五年ごとになるそうだ。
最後の六十年目はダイヤモンド式。
それまで一緒に元気で過ごそうね、と互いに微笑み合ったのはつい先日の話。
四月一日。
朝餉が終わり、当主の澄彦さんの座敷で三人揃って食後のお茶をいただいていたときに問題は起こった。
朝餉の席では本日の予定を互いに確認し合うことが行われる。
当主の澄彦さんと次代の玉彦はそれぞれの間でお役目に当たる。
別々の間でお役目を行うということは来客数が多いときなのだけど、今日は違う理由だった。
通常通りに当主の間で二人揃ってだとお役目は夕方前に終わる予定になる。
けれど今日は午後から私と玉彦が五村から近場の温泉宿で一泊することになっていたので、別々にお役目をこなして時間を前倒しする様に組まれていた。
結婚記念日にどこか旅行へ、と二人で年明けから計画を立てて結局は近場の温泉宿に落ち着いた。
遠くへ行こうかとも話をしていたのだけど、いざどこへとなれば二人とも思いつかなくて、そう言えば小さい頃玉彦のお母さんである月子さんに連れられて温泉へ行ったことがあるという玉彦の話から、そこに決定した。
そこは五村に隣接する小さな村の温泉宿だそうで、竹林に囲まれて寂れた雰囲気だけど、食事は美味しいし、個室には露天風呂があってゆっくりできるのだそうだ。
お陰で中々盛況らしく、年明けすぐに予約の電話をすると四月一日はあと一組しか受けられないと言われ、すぐに予約を入れた。
ぎりぎりセーフで間に合って、私も玉彦もホッと胸を撫で下ろし、この日が来るのを心待ちにしていた。
何といっても初めての二人だけの旅行である。
新婚旅行もしたけれど私の希望で五村巡りだったし、確かに二人きりだったけど見知った顔がそこここにあったので新鮮味が無かった。
でも今回は違う。
近いけど五村を離れて、前回は玉彦が勝手に計画を立てて結局は頓挫したけど、今回は二人で楽しく計画を練ってこの日を迎えたのだ。
朝から機嫌が良かった私は、熱いお茶を湯呑みの中でゆるりと回しつつ笑みが零れていた。
なので、澄彦さんの本日の予定の次に玉彦が告げた予定に凍り付いた顔は満面の笑顔のままだった。
「本日は午後から人と会う予定があります。なので夜は屋敷にてその者たちと過ごす予定です」
衝撃的な言葉に私の理解が及ばず、澄彦さんに至っては二度見三度見していた。
だって、人と会う予定って。
今日は結婚記念日で、温泉宿に一泊の予定で。
何ヵ月も前から二人で楽しみにしていたはずなのに。
久しぶりに炸裂した玉彦の身勝手に私の湯呑みの持つ手が怒りで震える。
「た、玉彦。今日って何の日か忘れたの?」
「そうだぞ。今日はその為に役目を互いに振り分けたんじゃないか」
私と澄彦さんの言葉を聞き流す様に立った玉彦は、何も言わずにくるりと背中を向ける。
私は逃がすものかと着物の裾を掴む。
すると振り返った玉彦は何故かニコリと笑う。
悪びれもしないその笑顔に私は裾を掴んでいた手が離れた。
悪びれる以前に玉彦はきっと、悪いこと、常識外れなことを言ったつもりが無いのだと悟った。
「この者たちとの約束は旅行を決める以前に交わされたものだ。なので優先順位はこの者たちとの約束だ」
私は玉彦が言い終わると同時に立ち上がり、胸元を掴んで引き寄せると頭突きをかました。
久しぶりにかました頭突きはガツンと良い音を立てて、額を押さえた玉彦に片膝をつかせる。
「なっ、なにゆえ……」
「知るか! 馬鹿玉!」
私はそう言い残してプンスカして朝餉の座敷を後にしたのだった。