第7話 勇者編:異変
今回はアベル編です。
ぱちぱちと窓を叩く、強めの雨音が耳に届く。読書に耽っていた僕は、窓の外を見て、干したままの洗濯物を思い出す。栞を挟むのも忘れて、慌てて外に出た。おかしいな。さっきまで、雨が降りそうな天気じゃなかった気がしたんだが。そんなに時間が経ってしまったのだろうか。
手早く取り込みながら空を見上げるが、雨雲はない。天気雨か。強い風が吹いているから、この雨は遠くから風に連れられてきたんだろう。
風上は、お爺様たちが魔物狩りに出た森の方。そちらへ顔を向けて、不意に、酷い匂いが鼻をかすめた。これは、魔物の匂いだろうか? 嗅いだことのない匂いだ。血と排泄物に、しばらく放置した生ごみを混ぜたような匂い。だが、視界に魔物の姿はない。ということは、お爺様たちが戦っている魔物の匂い?
洗濯物も雨も忘れて、佇んでしまう。胸騒ぎがした。
自分のくしゃみで我に返り、洗濯カゴを抱えて家に入る。体を拭いて服を着替え、温かいスープを飲むが、指先は冷えていくばかり。窓に張りついて外を窺おうとしても、流れる雨が景色をぼかす。それでも、目を凝らし続けた。
すると微かに、人らしき小さな輪郭が、揺れるように近づいてくるのが見えた。弾かれたようにドアを開けると、願った通り、遠くから歩いてくるお爺様たちが見えた。ほっと愁眉を開く。だが、それも束の間。さっき嗅いだ酷い匂いは、お爺様たちが歩いてくるたび強くなる。
「アベル、戻った」
「お帰りなさいませ、お爺様。ご無事でなによりです。ところで、この匂いは……」
「ああ……」
気まずそうに眼を逸らすお爺様。さっと全身を見るが、お爺様に怪我はないようだ。
「すまないな、臭いだろう」
「いえ、その、嗅いだことのない匂いでしたので。気になって」
「オウルベアが出た」
背筋が凍り付く。オウルベアとは、頭がフクロウで体が熊の魔物。体長5メートルを超えることも多く、凶暴なうえに頭がいい、厄介な魔物。この辺りでは見たことがない。生息域はもっと北のはずだ。
「やはり、偶然ではなさそうだ」
「そう、ですね……」
近頃、魔物たちの動きが妙だ。狩りに行くたび、予想外の出来事が起こるらしい。今までは、よく見る弱い魔物の狂暴化や、個体数の増加程度だった。だが今回は、強力な魔物の出現。お爺様たちが向かっていなければ、死人が出ていたかもしれないレベルだ。
これまで村の中では、そんなこともあるだろう、と楽観的な意見のほうが目立っていたが、これで少しは、警戒心をもってくれるだろうか。
お爺様が風呂に入ったので、服の替えを用意し、汚れた服を洗濯場に持っていく。洗濯場は外だ。庇はあるが、今は風が強くて、横から雨を入れてしまう。レインコートを着て洗濯を始めた。魔物の体液の匂いにくらくらしながら、洗濯板でごしごしと汚れを落としていく。
ごほ、と咳が出る。しまった、少し雨に当たりすぎてしまった。さらに、未だ無遠慮に吹く風が、濡れた手から体温をさらう。きっと今夜あたりに熱が出るな。自嘲じみた笑いが漏れた。でも、汚れと匂いは時間との勝負だ。後回しにはしない。僕にできるのは、このくらいなのだから、せめて。
胸が苦しくなる。僕は、体が弱い。お爺様や村の人たちと、狩りに行くことができない。ここで、みんなの無事を祈りながら、待つことしかできない。
このところずっと、淡く嫌な予感がしている。お爺様も同じのようだが、村の人たちは話半分にしか聞いてくれない。本当に信じていないのか、信じたくないのか。いずれにせよ、僕にできることはない。
僕はどこまでも、無力だ。
*
「おーいアベル、生きてるか。飯持ってきてやったぞ」
ノックもなく、部屋に入ってきた友人の男――ダン。起き上がると、彼の片手には、湯気ののぼるお皿が乗せられたトレイが。もう片方の手で、部屋の隅にあった椅子をベッドの横に運んできて、サイドテーブルに食事を置くと、どかりと座る。気心の知れた仲とはいえ、雑な振る舞いに苦笑する。
「ありがとう、ダン。だいぶ良くなった」
「嘘つけ、ベッドから起きれないんだろ。ちっとでも良くなったんなら、料理くらいしてんだろ、お前なら」
見透かされている。そのことに擽ったさと情けなさを感じながら、誤魔化すように笑った。だが、ダンはじっと僕の顔を睨みつけている。首を傾げると、「目の下」とダンが一言。はっとして顔を背けると、溜め息が聞こえた。
「どうせ、オウルベアのことでも気にしてんだろ。ほんとビビりだよなあ、お前さ」
「……そうだな」
返す言葉もない。ダンの言う通り、僕は怖がりだ。大事な人たちを失うことが、怖くて、怖くて、仕方がない。熱に呻きながら本を読み漁り、オウルベアに関する情報をかき集めて朝を迎えるほど。
「ったく、まずてめえの心配しろよなー。みんなお前より頑丈だっての。弱え癖に無理ばっかしやがってさー」
「面倒をかけるな……いつもすまない。助かっている」
「そんな話してねーよ、このクソ真面目」
ダンは不機嫌そうに鼻を鳴らす。これは、照れを誤魔化しているときの癖。昔は分からなくて悩まされた癖だ。
「治ったら、礼はいつもの持って来いよ」
「ああ、必ず」
いつもの、とは、僕が作ったミートパイのこと。ダンの好物だ。僕の返事に、ダンは満足そうににやりと笑う。
しばらく話しているうちに、すこし気持ちが軽くなった。心配させている。早く元気にならなければな。魔物たちのことは気になるが、それで面倒をかけていては本末転倒だ。
心の底に根付いた不安は、ひとまず見ないふりをした。
アベル編はしばらく笑いが皆無なので、合間合間に挟んでいこうと思っています。あくまで「ギャグ冒険譚」なので!