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『All The Things You Are ~ジャズ研 恋物語~ 』

作者: 酔翠夢紫

「優斗は、あたしのものだからな。余所見するなってこと」by藤川桜子

 桜子さんが内定をもらったのは、日本に本社のある某有名楽器メーカーだった。俺はあとでそのことを聞いてびっくりした。あの人、本当に俺のアドバイスを真に受けたらしい。桜子さんの大事な人生の岐路に、俺がいた事は何だか少し誇らしい。

 さてMJGといえば、毎年恒例の夏合宿に突入していた。仕切りはD年に任せているので副部長としてやることはあまりない。呑み過ぎで度を越したバカをやらないかどうか見張るくらいのものだ。

 山中湖の天気は晴れ。穏やかな昼下がりだ。

 「篠崎さん、練習しないんですか?」

 建物外の喫煙所でぼんやり空を眺めながらタバコを吸っていると、ふいに声を掛けられた。アルトサックスを首から下げたC年の佐々木さんだ。一緒に御茶ノ水に買いに行った楽器は良き相棒になってくれているようだった。

 「ああ、スタジオみんなが使ってるからな。夏合宿のE年なんて、大してやることないのよ」と小さく笑って答える。

 「D年の皆さんも熱心ですからねー」と笑いながら佐々木さん。肩のあたりで切りそろえた髪が小さく揺れる。「それじゃあ、あたしも練習に戻りますね!」「おけー、がんばれ」と俺。彼女の後姿を目で追いながら、ぼんやりと去年のことを思い出していた。


 …そういえば、この場所で桜子さんと俺は始まったんだっけ、と。

 その時を思い出すと、どうもこっばずかしいという記憶と共に、今はここに桜子さんはいないのだと改めて思った。基本、F年は合宿への参加義務はない。元気にしているだろうか。


 ある日のスタジオで土曜に鉢合わせして、その時の諍いが思い出された。

 熱心にC年の斎藤くんを教えていた姿に、俺はとある人物を連想していたのだ。そう、既にOBの竹内先輩という人だ。C年時代の桜子さんが必死に食らいついたそのF年との関係。彼女の立場が変わっただけで、その構図に似てやしないかな…と。ふとそんな事を思うのだ。 

そこからすると、斎藤くんと俺は恋敵という関係になる。どうなんだろう。桜子さんに聞くべきではないとすぐに結論は出たのだが。


 そんな事を思っていると、駐車場に見慣れないミニクーパーが入ってきた。関係者以外は使用しないはずだが、誰だろう。吸いかけのタバコを灰皿に落として、俺は様子を見に行くことにした。

 車から降り立ったのは、遠山先輩と…桜子さんだった。しかも運転は桜子さんだったようだ。「おう篠崎、お疲れちゃん」と遠山先輩が俺に気づいて手を挙げる。遠山先輩が助手席でニコニコしている様子を想像すると、これはこれで面白い。

 2人はそれぞれビニール袋を提げている。

 「おう優斗! 陣中見舞いの酒じゃ!」というと、ハッハッハと笑いながら近づいてきた。

 相変わらずというか何と言うか、だが、彼女の来訪を思わず喜んでいる俺がいる。

 「おふたりとも、ようこそ!」と俺は二人に手を振る。


 俺は永い一服を終え、F年のふたりを連れてスタジオに戻ると、下級生中心に芋洗い場のようにそこかしこで思い思いの練習をしている。

 「すげぇな、この構図」と遠山先輩がメガネの奥で驚いているが、無理もない。こんなに熱心に練習に打ち込むことなど、今までこの部活にはなかったのだ。だいたい昼頃起きてきて、そこから各々が呑み始めて、適当に練習をはじめるというのが風習となっていた。

 俺はすうっ、と息を吸ってパンパンと手を叩く。

 「はいはい皆さん、ちょいと手を止めて。F年のおふたりが陣中見舞いに来てくださいました! しかも酒も大量です!」

 おーっ、とスタジオ内がどよめく。こういう司会も本当は部長の菊田がやるべきなのだが、奴をはじめとした菊田組の連中は今、二日酔いで死んでいる。これも副部長の務めだ。

 「お疲れ、みんな。酒でも呑みながら、楽しく練習しましょう!」桜子さんが大量の缶が入ったビニール袋ふたつをスタジオの床に置いた。楽器の手を止めたスタジオのみんなが、群がり始めた。


 そして日は落ち、皆の夕飯後は、相変わらずスタジオで車座になってみんな呑み始めた。ジャズや楽器やその他どうでもいい話で、みんなそこそこ盛り上がっている。

 「こうして見てみると、随分部員増えたな」

 皆の酒席とは少し離れて、遠山さんと俺はサシで呑み始めた。桜子さんは知らないうちに下級生たちの呑みの輪に加わっていた。遠山さんが缶ビールを口元でひょいと傾けてから言った。「そうですね。C年が随分残ってくれましたので」と俺。俺は賑やかなスタジオを眺めながら答えた。

「そういえば遠山先輩、面と向かって言えてませんでしたが、内定おめでとうございます」

 「おお、ありがとな」

 遠山先輩はとある専門系のメーカーに内定が決まっていた。そつなく進めてしまうあたりがさすがは遠山さん、といった感じだ。そんな年上組のところに、佐々木さんがスッとやって来た。

「先輩お疲れさまです。こないだ、篠崎先輩に楽器見立ててもらったんですよ」と言う。

そこから、先日の御茶ノ水の話に遠山さんを交えて華が咲いた。


 俺が視線を逸らしたその先で、桜子さんはまた斎藤くんと話し込んでいた。やっぱり、後でタバコ吸いながら聞いてみよう、と思った。


 山中湖畔の夜空を眺めて、一服する。吐き出した煙が夜空に溶ける。今夜も星が綺麗だ。

 「おつかれ、優斗」桜子さんが喫煙所の隣の席に座った。

 俺は、思い切って聞いてみた。

 「ねえ桜子さん、斎藤のこと、どう思ってます?」

 「どうも何も、ただの後輩だよ」と桜子さんはそっけなく答える。

 「斎藤は、桜子さんのこと好きかも知れませんよ」

 「んー…そうかもな」

 ふうっ、と桜子さんのセブンスターの煙まじりの吐息。俺は何と返すべきか迷っていると、桜子さんは言葉を続けた。

 「あいつ似てるんだよ、昔のあたしにさ。竹さんに追い縋ってひたすらトランペット上手くなろうとしてた頃に。たぶんそれと同じような感じなんだと思う」

 心の裡を言い当てられて、俺は少したじろいだ。

 「前にちょっとケンカしたのも、それが原因のひとつじゃないかな…って」桜子さんの続ける言葉に、俺は先日の諍いを思い出し、合点がいった。俺は、斎藤に嫉妬していたのだ。

 「…いろいろ、納得出来ました。ようやくすっきりです」と俺は笑った。

 「心配かけてすまんな。それより優斗こそ佐々木には気を付けろよ?」

 えっ、佐々木さん?と俺が驚いた顔をしたその唇に、柔らかいものが触れる。桜子さんの唇だ。そうしてしばしのキスのあと、唇を離して耳元で囁く。

 「優斗は、あたしのものだからな。余所見するなってこと」

 相変わらず男前な部分は残っている。「はい」と頷いたとたんにニカッと笑った桜子さんの笑顔は、今まで見た笑顔の五本の指に入るほど、素敵だった。去年の夏合宿からはじまったふたりの時間は、二年目に入ろうとしていた。

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