1話 「西の赤き薔薇の姫」 2
衝撃で、全身に鈍い痛みが。
ーー神聖術を行使している間だけ、木漏れ日に心を預けて、しばし現実から逃避する。
それだけじゃないわね。緩衝材になってくれた、小枝に葉っぱに、柔らかい土に被せた布の上ーー寝床から見上げて、迷惑を掛けたお気に入りの大樹に感謝する。
ーー崖から飛び下りることがあるかもしれないので、準備しておきましょう。
恒例行事のように、クロッツェがおかしなことを言い出したのが一週間前。
ファナトラの森で探索と併行した鍛錬を行おうと、いつも通りに王城から抜け出したときのことだった。
何だかんだと文句を言いつつ、造っている途中で楽しくなって、きっちりと完成させてしまった私が言えた台詞じゃないけど。
ほんと馬鹿ね。
何事もなく横に立っていた傅役の姿を見て、心の底から思う。
馬鹿、なんかじゃ全然足りない、大馬鹿な私は、こんなところで諦めるような、竜と対峙したからといって歯向かうのをやめるような、潔い人間なんかじゃない。
クロッツェを視界から追い出すと、私を助けるのに一役買ってくれた功労者ならぬ功労物の成れの果てが。
寝床を覆っていた布が散らばって、簡易的な休憩所ーー拠点の一つが酷い有様だった。
神聖術で体は治ったのにーー。変に心地好い、大樹と土の匂いが優しくしてくれる、この場所から動き出すには、手っ取り早い切っ掛けが必要だったから。
にゃんこたちには申し訳ないけど、今はお気に入りの場所を独り占めさせてもらうわ。……と思ったけど、横に変なのがいたわね。
まあ、空気みたいなクロッツェだから、どうでもいいわ。
それじゃあ、にゃんこたちっ、準備はいいかしら!
脱ぎ。脱ぎっ。
脱ぎ。脱ぎっ。
脱ぎ。脱ぎっ。
脱ぎ。脱ぎっ。
脱ぎ。脱ぎっ。
さぁ~、猫ども! 大草原で遊んでこいや~!
こんなときに猫どもと戯れてる余裕なんてねぇからな、大盤振る舞いの大放出だ!
勢いっていうのは大事だからな、あたしはバネのように立ち上がる。それからナイフを……って、うがぁっ、謁見の間に忘れてきちまった!!
「姫さま、どうぞ。クロッツェが真心を籠めて造った、予備の万能ナイフです」
にゃろう。クロの奴、あたしの失態を嗤うために、態と拾ってこなかったな。
口に手を当てて、ぷっ、とか失笑してるクロに構ってる場合じゃねぇ。森を丸腰で歩けるなんて自惚れてねぇからな、とっとと受け取って、取り出しやすい場所に装備。
万能ってクロは言ってたが、強ち間違いでもねぇ。魔術で強化してんじゃねぇかってくらい、とんでもねぇ切れ味で、今じゃああたしの主武装になってる。
王城の近くだけあって、竜将どもが定期的に狩ってたようだが、ファナトラの森が獣と魔物の領域であることは変わらねぇ。
「さぁ~てと」
一瞬で決断。作ってくれた奴には申し訳ねぇけど、プリンセスラインの邪魔なひらひらを、ナイフでざっくりと切り裂いていく。
うしっ、これで動き易くなった。
森で脚を曝すなんて正気の沙汰じゃねぇが、優先順位って奴だ。神聖術があんし、鬱陶しいドレスで駆けずり回ることを考えたら、増しってことだな。
「いつ拝見しても、見事な脚線美。夜な夜な、魔力を練り込んだ手で、揉み揉みした甲斐があったというものです」
気持ち悪ぃ。邪心なんてまるでねぇって顔で、「揉み揉み」とか言ってんじゃねぇよ。
「あんだけ鍛錬してきたってぇのに、クロの所為で筋肉がつかねぇ、弱っちい見た目になっちまったからな。まあ、『薔薇の姫』にとっちゃあ都合が良かったんだろうけどな」
けどよ、細くてぷにぷに柔らけぇ癖に、ちゃんと鍛えた分だけ力は出っから、妥協はしてやんなくもねぇ。でもなぁ、こんなん、あたしの好みじゃねぇんだよなぁ。
「カイキアスのみんなには悪ぃけど、『聖女』じゃなくて『姫騎士』とか『姫将』とかのほうが良かったんだけどな」
「なるほど。血風を纏う姫ーーということで、『血姫将』などの二つ名はいかがでしょうか」
「黙れ、畜生」
「『智紅将』とは、姫さまの腹心としては悪くない二つ名ですね」
脳内変換しやがったな。腹心どころか獅子身中の虫の分際で、好き放題言ってくれるじゃねぇか。
「いたぞ! 『聖女』の脚……じゃなくて、偽物だっ、こっちだ!」
おっと、追っ手か。って、あの野郎! 報告しながら、あたしの生足、ガン見してやがる!
着替えてる余裕はねぇ。あたしは寝床の横に置いてある「小薔薇」袋を引っつかんで、拠点から獣道に躍り込む。
この「小薔薇」袋は、裁縫や修理、修繕技術の体得のために、あたしが五歳になった誕生日に、クロがくれた贈り物だ。
年端もいかねぇ幼女に、薄汚れた頭陀袋を渡してきやがった傅役の、雲の一つもねぇ晴れやかな笑顔は、忘れらんねぇ思い出として今でも記憶に刻まれてるぜ。
そーいやぁそーだった。あんとき初めて、人間の顔面を殴ったんだった。
あたしもまだ小さかったからな、罪悪感はちょこっとだけあったんだけどよ、それにも増してあの感触と心地がーー快感があたしを虜にした。
今から思っと、クロの奴の謀略だったのかもしんねぇけど。あたし自身としては、巧まずして「本当の自分」と向き合うことができたからよ、まあ許してやんねぇこともねぇ。
十年愛用した「小薔薇」袋は、当初のボロ袋とは、もはや別物。度重なる修理を施した袋は、竜が踏んでも大丈夫なくれぇ頑丈に、内側は改造しまくって使い勝手は抜群だ。
あとは、「小薔薇」の名前の由来ぇになった、袋の右下の、小さな薔薇のアップリケもお気に入りの理由だ。
まだ拙かった頃に、一生懸命作ったーー、
「『生足』はこっちだ! 逃がすなっ、囲め囲め!!」
ーーは? おいおい、どういうこった?
「確認した! 『生足』だ!」
「『生足』の癖に、リップス姫を騙るとはふてぇ女郎だ! 城門に吊してやる!」
生足生足うるせぇな! 新しい「二つ名」かよ!
って、そうじゃねぇ! 城門に吊して観賞する気か!? って、だからそうじゃねぇって!!
ーーファナトラの森は、勝手知ったるあたしの庭。なんで兵士らは猟犬のように追ってこれるんだ?
「ってか、何であの野郎ども、大声出しながら追って来てやがんだよ!」
自分たちの位置を教えてるようなもんだ。まさか、この状況であたしに罠を仕掛けられるくれぇ優秀だってのか?
「なんと間の悪い。彼らは、王国の西にあるシェアリの森の民。森林戦では無類の強さを発揮するとあって、恐れられている方々ですね。それと、何故大声を出しているかですが、二つ考えられます。追跡に自信があるので獲物に、自身が追われていることを自覚させて、心理的に圧迫しているのでしょう。もう一つは、抜け駆け禁止ーーですね」
「抜け駆けって! 何をだ!?」
「森の民の性癖、もとい種族的特性というものでしょうか、彼らは『生足』に甚く執着している御様子。獲物は独占せず、共有しなくてはならない、などの掟があるのかもしれませんね。捕まったら、顔を潰されて、『生足』だけ堪能されてしまうかもしれないので、死力を尽くして遁走逸走逐電しまくりましょう」
がぁ~っ、普段は気が乗らねぇとなんも教えてくれねぇ癖して、ベラベラくっちゃべってるんじゃねぇ!
だがよ、普通に逃げたんじゃ駄目だってことだけはわかった。
藪の前で、後ろ斜めに跳躍。藪を飛び越えたと偽装して、樹を蹴って、隣の木の枝に向かってーー届くか?
つるっ。
「ーーっ!」
こんちくしょうめが! 苔かよ!
樹の種類を確認しなかったあたしが悪ぃんだけどよ、ったく、どっせいっ!
藪に背中から落ちて、勢いを殺さずゴロゴロと転がる。神聖術を使うと光でバレるからよ、怪我が酷くならねぇことをアークナルタスの野郎に祈りながら、最後の一回りで体を捻って着地する。
「一回じゃ、時間稼ぎにしかならねぇか」
死力を尽くしてーークロがそう言ったんだからよ、疑う余地なんてねぇ。
跳躍して、幹を蹴って更に上に。空中逆上がりで、枝の上に。
樹皮で指を切るが知ったことか。経路を確定しつつ、枝を走って反動を利用。さかさ枝が邪魔だったから、肩で無理やり押し退ける。
「ぎっ!」
枝が折れて肩を擦るが、構わず強引に跳び上がって、太い枝を三つ、全力で綱渡り。
さすがにこんな無茶、そうそう上手くいくはずなんてねぇ。枝の間に体を捻じ込むが、視界が葉っぱで塞がれてーーくそったれが!
こうなりゃ仕方がねぇ、運に任せて空中に体を投げ出す。
「ちっ!」
母国から逃げ出さなくちゃならねぇなんて最悪の状況で、星回りくれぇ良くても誰も文句は言わねぇだろうによ。
体勢を立て直す余裕もなく、最後の足掻きで両手で頭を防御。樹の幹に体を打ちつけるが、根っ子で脚を挫かねぇように、着地だけは気張る。
地面に落ちると同時に、四肢を踏ん張って、全身に力を込めて盛大に息を吐く。
「がぁ~っ」
体を痛めたときの対処法の一つだ。
まあ、アホな方法なんで他人には勧めねぇけどな。壊れてない、動くことを実感してから、熱に覆われた体を前に進めた。