1話 「西の赤き薔薇の姫」 1
「どうして……、このようなことになってしまったのでしょう」
いいえ、怯えるなど、あってはなりません。
胸に手を当てると、熱いようで冷たく、これまで体験したことのないくらいに激しく、痛むような鼓動が……、息苦しくて……。
「ーーっ」
頭を大きく二度振って、忍び寄ってきた恐怖を、迷いを散らします。
吟遊詩人が「美と優雅」の誉れと讃えた、腰まで届く真紅の髪が広がって、誰もいない、室内の冷たい空気を孕んで。
何事もなかったかのように、再び静寂に傅きます。
そうです、私は王家の姫、義務を果たさなくてはならないのです。私の大好きな、あの優しい国民は、「薔薇の姫」と慕ってくれました。
最期まで、そんな彼らの想いを汚さないようにーー。
「いっそ、ここから……」
主城門が破られたので、直にやってくるでしょう。
謁見の間の、今ではもう空しくも見えてしまう、聖王国と呼ばれるに相応しい壮麗な窓から眼下に望めば。切り立った崖と、隣国であるアペリオテス国まで続くファナトラの森が。
「ーーラスティ・イメルダ・スナフ・アペリオテス様」
森と、二つの山を越えた先にいる愛しい方の名を、半年後に伴侶となるはずだった王太子の、どれだけ口にしたか、どれほど焦がれ、心に抱いたかもしれない言葉を、最後に一度だけーー。
お許しください、ラスティ様。私は貴方様との誓いを守れませんでした。
「いたぞ! 『聖女』、リップス王女だ!!」
様相からして騎士ではなく傭兵でしょうか、十五人ばかりが扉を蹴破って、城下を焼く炎のごとき猛々しい眼差しを私に投げつけてきます。
今も苦難に曝される国民。私が怖じ気るなど、誇りを汚すことなど、できようはずがありません。
「私は聖王国カイキアスの王女、リップス・アークネス・ラカス・カイキアスでございます。よくぞ、お出で下さいました」
毅然と玉座の横まで。ドレスの裾をつかんで、優雅に一礼。
「薔薇」と譬えられた微笑みを浮かべると。目を瞠られた方に、頬を染められる方。他には剣を取り落とす方が幾人かいらっしゃいました。
彼らは、手ぶらです。武器以外には、何も持っていません。
略奪などをせず、ここまでーー私を目標に、他には目もくれずにやってきたのでしょう。そうあるだけの、「薔薇の姫」として振る舞うのは彼らへの報い。
些かやりすぎかもしれませんが、礼儀というものでしょう。
「おいっ、早くしろ! そんなに時間はないぞ!」
「賭けで勝ったのは俺だ! 慌てんな、順番が回ってくるまで、お前らそこで指銜えながら見てやがれ!」
ひときわ大きな男が、荒い呼吸で、無遠慮にのっしのっしと近づいてきます。顔が歪んでいるのは、歓喜と興奮のためでしょうか。
殿方とは、手をつないだことしかない私には、想像することしかできませんが、彼らの目的とはーー。
「ーーっ!」
何ということでしょう。傭兵である彼らは、一つの目的のためにーー私を凌辱することを望んで、このような危険を冒したというのでしょうか。
「姫さまが悪いんですぜ。姫さまの美しさが俺たちを狂わせた。命懸けでも姫さまが欲しいって奴がこんなに……いっ!?」
隠し持っていた護身用のナイフを喉に突きつけると、むくつけき大男だけでなく、傭兵全員が息を呑みました。
炎を宿した赤眼を彼らに真っ直ぐに向け、揺るがない双眸で私の覚悟を示します。
「私の命は、私だけのものではありません。私を育んでくれた、この地と、見守ってくれた国民のものでもあるのです。最期まで気高くあることが、彼らにしてあげられる私の、唯一のーー」
「まっ、待て! 早まるな、姫さま!!」
「っ!」
狼狽して長剣を投げ捨てた大男の声に驚いて、手が止まってしまいました。
ほんの少し、刺さってしまった剣先。
肌を流れてゆく血の感触が、やけに生々しく感じられてしまい、何故でしょうか、生きていることの尊さを実感してしまいました。
「ーーーー」
ふっと、心が冷えたのを契機に、頃合いかと見定めました。ですので猫様をーー、
脱ぎ。脱ぎっ。
脱ぎ。脱ぎっ。
ーー二千匹くらいでいいかしら。にゃんこたちを、日溜まりの暖かな庭へと送り出す。
まずは内心だけ緩めるとして、取り引きと洒落込みましょうか。
「ーー考えていました。カイキアス国の今後のことを。ここで死を選ぶよりも、この身をノトゥス国に捧げたならーー。一人でも多く、国民を救えるのではないか、と」
「な、何を言って……」
「私を、ノトゥス王の許まで連れていってください。私を自由にする代わりに、これ以上国民に手を出さないよう彼の王と交渉いたしたく思います」
「…………」
「私を捕らえたことで、皆様には褒賞が与えられるでしょう。逆に、皆様が私を好きにしようとしても、私は自害して果てますし、ーー何より、皆様は『薔薇の姫』を死に追いやったとして、ノトゥス王から罰が与えられることになるでしょう」
「はっ、な……、お、俺たちを脅すつもりか!?」
傭兵となれば、知的水準は低いからどうかと思ったけど、見掛け以上の馬鹿じゃなくて良かったわ。
貴族の中にも時々いたけど、話が通じない相手って、ほんとどうしようもないから。彼らは頭のいい馬鹿じゃないから、遣り方は変えないといけないわね。
「褒賞か、死か。皆様は、どちらを選ぶのでしょう?」
明確な二択。そうすることで、それ以外の選択肢など存在しないと思わせる。それから、なるべく相手に気付かれないように、交渉の主導権を握る。
主神アークナルタスに祈りを捧げて、神聖術を使ってさっさと喉の傷を治したいところだけど。
何をもたもたしてるのかしら、優柔不断な男は嫌いじゃないけど、ここぞというときに決断できないのは駄目よ。
その点、ラスティは満点だったわ。あの困ったときの柔らかな表情と、一度決めたら竜でも動かない意志の強さはーー。
いけないいけない、いない人間は私を助けることなんてできない。未来の夫のことを想って、気を緩めてる場合じゃないわ。
「後ろの皆様はどうでしょう? 私を好きにできるとしても、順番は後のようですから、褒賞を選択するのが現実的だと思いますが」
「お、おい、どうする? リップス姫が死んじまったら、ほんとにおいらたち殺されちまうんじゃないか?」
「俺ぁ、最後の組だからな、こりゃ褒賞のほうを選ぶさ。ほれ、ゲニラス、お前さんも好い加減諦めな」
「ゲニラス」というのは、大男の名前みたいね。さてさて、旗色が悪いようだけど、これからどうするのか、不謹慎だけどちょっと楽しみね。
「あ~っ、わかったわかった! 俺も死にてぇわけじゃねぇからよ、もらった金貨で上等な女を抱くことにするぜ」
苛ついた声で、仲間の傭兵ーーじゃなくて、もう破落戸でいいわーー破落戸たちに宣言するゲニラス。
でも、演技が下手ね。何より、目の奥の、歪んだ欲望が隠せてないわ。
ーーがこっ。
「…………」
破落戸たちは気付いていない。玉座の後ろの壁が、少しだけ動いたことに。
ーーたくっ、遅い。
やっと来たわね、クロッツェ。なら、趣向を変えて、傅役好みにしてやろうかしら。
「わかりました。それでは、私をノトゥス王の許までお連れください」
ナイフを下ろした瞬間、にやりと獣の笑みで口元を歪めたゲニラスは、私の手を払った。
ナイフが床に転がって、戸惑う私の腕をつかむと。婦女子を扱うには不適格な、膂力に任せた野蛮なる振る舞いで私の華奢な体を引き寄せる。
「きゃっ、……何をするのです!」
気丈に睨み返す私に、もはや好色さを隠してもいない下卑た面を向けてくる。
ーー息が臭いわね。
ああ、これは傭兵が恐怖を忘れるために食べるっていう、ナボロフ草だったかしら?
判断力はやや低下するものの、痛みが感じ難くなるーーだったっけ。傭兵の間で最近流行ってるとか、クロッツェが言ってたわね。
「ゲニラス! てめぇ、何してやがる!!」
「知ったことか! 命なんか惜しくねぇ! 姫さまの初めてを奪えるのなっ、ばげぇ!?」
めきっ。
精々雰囲気が出るように、怯えた仔猫のような表情をしていると。
私の唇に近づいてきていたゲニラスの不衛生な口が、御飯が食べられなくなるくらいにぐちゃぐちゃになって、弾け飛ぶように離れていく。
乙女の唇は守られたものの、胸は揉まれてしまったので、仕返しに下腹部に膝を叩き込んでやったけど、当然の報いよ。
「べぎゃあっ?!」
ゲニラスの顔を打擲したクロッツェの、容赦のない追撃。
魔術だろうか、ゲニラスの巨体が馬に跳ね飛ばされた人間のように転がっていって、五、六人の破落戸を巻き添えにする。
物音を一切立てずに侍ったクロッツェは、手のひらに収まるくらいの、球のようなものを握らせてきたので、隠し持つことにする。
「な……、何するだぁよ!」
あら、歯が半分以上折れただろうに、まだ喋れるのね。それと、コニラッテ地方の訛りが丸出し。
もしかしてゲニラスの私に対する振る舞いは、精一杯の、格好つけだったのかしら。だとしたら、ちょっと手加減ならぬ足加減、もとい膝加減してやれば良かったかも。
「ーーそろそろ、良いでしょうか」
内を緩めたから、次は外面ね。いきなり落差があってもあれだから、三千匹くらいにしておこうかしら。
にゃんこたちっ、ほ~ら餌の時間よ! がっつりと食べていらっしゃい!
脱ぎ。脱ぎっ。
脱ぎ。脱ぎっ。
脱ぎ。脱ぎっ。
「どこで道草喰ってたのよ。遅いわ、クロッツェ」
「道草とは心外な。このクロッツェ、姫さまの身を案じ、引き裂かれるような焦燥感に苛まれながら、急ぎ駆けつけましたのに」
なら、その微笑を浮かべた余裕綽々の顔を、少しは崩して見せてもいいでしょうに。
一度はクロッツェが慌てたところを見てみたいと、これまで色々と企んで実行してきたけど、悔しいことに、忌ま忌ましいことに未だに叶ってないのよね。
立ち姿に、隙がない。上着に繊細なレースと、ただの傅役にしては過ぎた格好だけど、不思議なことに誰からも咎め立てされたことはない。
大陸の西方では珍しい黒髪黒眼。私が幼い頃から容姿に変化はなく、見た目は二十歳くらいの年齢不詳。
そんな魔術は聞いたことないけど、若返りの秘術とか使ってるのかしら。生きてきた自分の人生に誇りが持てないなんて嫌だから、聞き出そうとか思ったことはないけどね。
「話に聞いてた『貴公子』だ! 油断するなっ、囲め!」
他の将兵を出し抜いて、ここまで辿り着けるくらいだから、傭兵の中では優れているのかもしれないけど。
もう遅い、遅すぎるわ。クロッツェ相手には、人生を遣り直す水準での致命的な判断ミス。
「姫さまの御前ですので、皆様には礼儀を弁えてもらいましょう」
クロッツェが手首を翻して投げた小さな球が、ぽんっ、と場違いな陽気な音を立てて。破落戸たちは、見えない巨大な手のひらで上から押されたかのように、全員が膝を突いた。
「何だ!? 何をしやがった!!」
「動けねぇ! それに体が痺れて……、これは針……か?」
魔術だけじゃないのが、クロッツェの恐ろしいところ。
褒めたくなんてないけど、知らないことはないんじゃないかってくらい博識で、できないことはないんじゃないかってくらい才能に溢れていて。ーーその分、性格が捻くれてるから、均衡が取れているとも言えるけど。
どちらにせよ、世の中って不公平ね。
クロッツェも、そして私もーー。
「『奇行師』だなんて、クロッツェにお似合いの二つ名ね」
「姫さま。さらりと侮辱するのは、おやめください」
ばればれね。物心がつく頃には、もう側にいた。私のことを誰よりも、肉親なんかよりも識ってる人間なんだもの、ほんと厄介ね。
魔術で心を読んでいるんじゃないかと疑ってしまうくらい、私のことを見透かしてくる。
白皙の顔に、胡散臭い笑み。周囲の女性陣は、この笑顔にやられてるけど、私からすれば人を小馬鹿にしているようにしか見えない、不愉快極まりない馴染みのある表情。
「その毒は、私の特別製です。腐った死体から採集したもので、患部を腐らせてゆきます。激痛でのた打ち回りながら、腐った肉を飛び散らせる様は見物ですよ。いずれ全身が腐って死に至りますが、恐れる必要はありません。治療法は簡単です。毒が回る前に、患部を抉り取るか、或いは切り落とせば良いのです。ですが皆さんは、体が痺れて上手く動かせないでしょうから、誰かにやってもらわないといけませんね。そのうち、喋るのも難しくなってゆきますので、急いだほうがよろしいですよ?」
この美青年の恐ろしいところは、平気で嘘を吐くというところなのよね。罪悪感なんてまるでないのか、眼力には自信がある私だけど、今以て見抜くことが敵わない。
「ーーっ!」
絶句する破落戸たち。痺れて、体に力が入らなくなってきているのか、次々に床に転がっていく。
ーー私って、冷たい人間なのかしら。
そんな予感はしていたけど、敵と味方を区別して、どこまでも卑劣になれる自分がいることを実感する。
騎士だろうが傭兵だろうが民兵だろうが。私が生まれ育った、私が愛したカイキアス国を蹂躙したことに変わりはない。
ーー私にできるのは、この程度なのね。
無力さを噛み締める、そんな資格が私にあるだろうかと、自問するにも時間が足りないから。
今は、できることを、やれるだけのことをしよう。
「傭兵の皆さん。これが何か、わかるかしら?」
破落戸たちに、クロッツェから渡された小さな球を見せつける。
「それは……、さっき『貴公子』が投げた……」
「わかった? 実はね、あなたたちを倒そうと思えば、いつでも倒すことができたの。でもね、クロッツェが来るまでに時間があったから、あなたたちと遊んでいたのよ。私の暇潰しに付き合ってくれて、ーーどうもありがとう」
にかっと、「薔薇の姫」に相応しからぬ満面の笑みを浮かべると。
こんな状況だというのに、男どもの半分くらいが惚けたり上気したり。あらま、やっぱりこの顔の所為かしら、市井人のように朗らかに笑っても、人目を惹いてしまうなんて。
でも、夢の時間は本当に一瞬で過ぎ去ってしまうから。私の言葉が頭に浸透した破落戸たちが最後の抵抗を、口汚く罵ってくる。
「くそぅ、姫…さまかと……思ったら、偽物……かよ! て…めぇ、魔術で姿だけ……似せても、醜い心…は隠せねぇぞ!」
「魔竜…めっ、『冥府』に……堕ちろ!」
毒が回って喋り難いだろうに、懸命に訴えてくる。猫万匹の私が本物だとしたら、それ以外の私は、確かに偽物かもね。
どうしようかしら? それなら彼らにとっての偽物ーー本物の私を見せて、絶望でもさせてみようかしら?
「どうです、姫さま。狡い、卑怯は、敗者の戯言。負け犬の遠吠え、弱者の負け惜しみほど、心地好いものはないでしょう?」
「一緒にしないで。私はクロッツェほど悪趣味じゃないわ」
これでも気を使ってくれているんだろうけど。もう少し、遣り方というものを考えて欲しいわね。
でも、クロッツェにそんなことを期待しても、するだけ無駄。
馬耳東風。竜の耳に祈願。
純粋に私の味方というわけでもないので、基本的には自分から動かないといけない。そんな風に、クロッツェが私を育てたんだけどね。
「髪は、纏めたほうがいいかしら」
窓際まで歩いていって、軽く頭を振って身を反らす。
ふわりと浮いた赤髪を根元からつかんできつく縛ってから、邪魔にならないよう長い髪を服の内側に入れてしまう。
「どうしたの? まだ何かあるの?」
破落戸たちのほうを見ていたから、何かと思って尋ねてみると。
「いえいえ、姫さまが、『至宝』とも讃えられる豊かな美髪を纏められる仕草が、とても刺激的、或いは魅惑的だったようでして。死に直面しているというのに傭兵の皆様は、姫さまの可憐なお姿に見惚れてしまわれました。ーーやれやれ、男という生き物は、本当に哀しい、哀れな生き物なのだと、認識を新たなものにしていました」
聞かなければ良かった、というより、聞きたくなかった。いえ、聞いた私が馬鹿だった、のほうが正しいかしら。
「ーーっ!」
「っ! っ!!」
毒の所為で、もう喋ることができないのか、がさごそと床を這う音が聞こえてくる。ここは、見て見ぬ振りをしてあげるのが、優しさというものかしら。
「ーークロッツェ。行くわよ」
もう謁見の間でやるべきことはない。
慣れ親しんだこの場所を、目に焼きつけるなんて、振り返るなんて、そんなことはしない。
ついてこないーーもう私は王女ではないのだからーーと思い至った瞬間に、身を震わせそうになったけど。
背後の足音に安堵……なんて、してないんだからね! ちょっとだけ感傷的になってたから、気の迷い、じゃなくてっ、勘違いよ!
「ーーふぅ」
光が溢れる、大きな窓を押し開きながら。一呼吸で、強張った体から、意識して力を抜く。
ドレスのほうは、いつもこの格好で下りてるから問題ないわね。
両開きの腰高窓の、窓枠に手を突いて、スカートが引っ掛からないように大きく跳び上がる。体を捻って、両手を縁に、外壁に足を。
下は、崖と森。こちら側から攻められることを想定してないから、造りは普通で、格好の逃走経路になってるのよね。
「おや、ほんの少々、遅かったようですね」
絶好の時機で声が掛けられたので、うっかり顔を上げて見てしまった。
「リップス姫!」
玉座の後ろの、隠し扉から出てきた若い男と、がっつり目が合ってしまった。
その刹那に、若い騎士は「薔薇の姫」を発見したかのように爛々と目を光らせ、歓喜に打ち震えていたので。
とっとと飛び下りることにした。
だって、仕方がないじゃない。これまで飽きるほど会ってきた、面倒なタイプなんだもの。
聖女とか女神とか、そんなものにされる身にもなってちょうだい。とはいえ、そう思われるように振る舞ってきたのだから、文句を言うのも筋違いというものね。
「ぐっ!」
二階とはいえ、城だから十分に高い。城壁と崖の、わずかな隙間に着地。
夜だったら良かったのに、まだ真昼間だから丸見えね。
ーーそう、夜でも下りられるくらいに、慣れ親しんだ経路。最後まで見つからなかった、三本の内の一本。
二本は兄さんにばれてしまったのよね。あの人も、善良そうに見えて侮れないから、ーー逃げ切っているといいけど。
「……たくっ、相変わらず悠々と歩いて、いけ好かないわね」
「具えている能力を使わないなど、逆に失礼になるかと思いまして」
こんなときでも普段と変わらない、垂直に近い崖を歩いて下っている傅役がムカついたので。休憩地点に差し掛かったところで、小さな球を顔面に投げつけてやる。
ぽんっ。
予想通り、クロッツェは避けずに、微笑を貼りつけた仮面のようなすまし顔に当たる。
「さすが姫さま。球の内に、針は入っていないと見抜いていましたか」
「わかるに決まってるでしょ。こんな危ない代物、安全に持ち運ぶための容器を渡してこなかった時点で、ブラフだと言ってるようなものよ」
休憩終了。ーー私もまだまだ駄目ね。崖の向こうに、城下町が焼ける炎が見えてしまったから。
頭の奥が痺れるような激烈な感情を誤魔化すために、反対側にいるクロッツェに話し掛ける。
「神聖術じゃなくて、魔術を覚えたほうが便利だったのに」
「聖王国では『聖教』が国教ですから、神聖術以外の選択肢はなかったのでは?」
「わかってるわよ。言ってみただけよ。魔術を使ってるなんて、バレたら事だし、それに、そこまで使えるようになるかわからないしね」
クロッツェを見てると勘違いしそうになるけど、神聖術も魔術も、本来は強力な手段足り得ないのよね。どちらも使い手は少なく、魔術は一つの属性しか行使できず、しかも単純な攻撃魔術が精々。
神聖術も同様、大怪我を治すことができない私ですら、聖王国の『三大癒手』の一人として数えられるくらいだもの。
昔は神聖術も魔術ももっと強力だった、とかクロッツェが言ってたけど、理由までは教えてくれなかったのよね。
「ですが、怪我が絶えない姫さまなればーー、なんとなんと、思い切りましたね」
「どうしたの、よ?」
驚いているようで、実際にはにまりと笑ったクロッツェは、話の途中で上を向いたーーというか振り返った。
歩みを止めた傅役に釣られて、崖の中腹辺りまであと少しというところで、足場を確保して見上げると。
ひゅんっ。
……は? なっ、ちょっと待って! 射ってきたわよ!?
「……本気なの?」
私とクロッツェの間を、心を凍らせる細やかな風破音が。「破滅の鐘」の余韻を散らして、緩んでいた空気を引き裂く。
ーー本気だというのなら。
私の内で、かちり、と切り替える。私は十分に知っている。あれが人の命を奪えるものだということを。
「おいっ、何をしている!! 姫さまに当たるじゃないか!」
「あれは! 僕が憧れた『薔薇の姫』なんかじゃない! 僕のリップス姫の真似をした偽物なんてっ、射殺してやる!!」
「リップス王女は貴殿のものではないが、その意見には同感だ! あのような『聖女』の名誉を汚す輩など、この世から消し去ってやろう!!」
命懸けで崖を下りてる、健気な美少女に対して、言いたい放題言ってくれるじゃない! と怒鳴りたかったけど、火に油を注ぐことにしかならなそうなので、ぐっと我慢する。
「くっ、上からでは狙い難い! 他に落とすものを、ーーそうだ! 熱湯を用意しろ!」
こらこらっ、そこの隊長らしき人! さっきは部下の蛮行を止めようとしてたのに、何を一緒になって荷担してるのよ! 率先して指揮してるのよ!
「ああ、因みに。魔術で姿を隠しているので、彼らからは私が見えていません」
そんなことどっちでもいいわよ! それよりっ、もっと有益な情報を寄こしなさい!
ぎっ、と睨んでやったら、了承したクロッツェは、とても有益な情報を寄こしてくれた。
「ほう。水の魔術と、火の魔術を使える者がいたようですね。おやおや、彼らはあばずれに対する礼というものを心得ているのか、あっさりと熱湯をぶちまけました。ですので、姫さま、ご決断をーー」
クロッツェが促したことからわかってたけど、うん、駄目、あれは避けられないわ。
まったく、嫌になるわね。また、私の負け。
偶然だとしても、この計り知れない傅役の手のひらの上なんて。というか今、このひとでなしは、さらりと私を侮辱したわね。
「せーのっ!」
時間の砂粒は金貨よりも高価、とはよく言ったものね。
逡巡なんてものは、クロッツェの口に投げ込んでやったから。躊躇いなく崖を蹴って、ーー穏やかな時節である白の月の、生温いような日和に揺られる軟風に身を任せる。
「なっ!? 飛び下りたぞ!」
「姫さま!?」
「騙されるな! あれはリップス姫の身代わりだ!」
人間って不思議ね。
激しい風切り音に曝されていても、騎士たちの声が聞き取れてしまうなんて。
運命に身を委ねる、なんて私の好みじゃないけど。荒波に抗うよりも、竜の助けを期待したほうが良いこともあるかもしれないから。
以前に聞いた、クロッツェの助言通りに、目を閉じて。
私の内側に閉じ込められた運命を解放するように手を広げて、体だけでなく心も、脱力したのだった。