第57話 深淵の魔女
「貴方は……?」
私は尋ねましたが、その女性は質問に答えませんでした。
「お前はおかしな女だな」
「えっ?」
「他人になった妹のために、あんな男の奴隷になろうとして、裸になって跪くなど、正常な人間のすることではない」
「……どうして、そのことを!?」
「ずっと見ていたからな」
「ずっと……?」
「あの男の周囲の出来事は、全て観察していた。本当につまらないな、人間という生き物は。だが、お前は面白い。少なくとも、あの男よりは、何倍もな」
「……貴方は、一体……?」
「あの男に、あの力を与えたのは私だ」
「では、貴方は……深淵の魔女!?」
思わず叫んでしまってから、その意味の重大さに思い至り、激しく混乱しました。
どうして、深淵の魔女が……今、私の前に現れたのでしょうか?
動揺しながらも、私は周囲を見回しました。
ここが、宿のロビーであることを思い出したのです。
しかし、宿の主人も、他の宿泊客も、こちらに注意を向けていません。
私は、以前、ミーシャが男を殴った時のことを思い出しました。
私の主人である男に力を与えた魔女であれば、この程度のことは、造作もないことなのかもしれません。
戸惑う私には構わず、女性は話を進めました。
「お前に機会を与えてやろう」
「……機会、ですか?」
「お前が望むのであれば、あの男の力を奪い、お前に与えてやろう。そうすれば、あの男に支配されている子供は、お前に従うようになるはずだ。後は自由にすればいい」
「!?」
それは、驚くべき言葉でした。
あの男の力を、私が奪い取る……?
そんなことができるなら、私の悩みは全て解消されます。
女性の提案によって、私の心は揺れ動きました。
しかし、少し経ってから、私は冷静さを取り戻しました。
この女性の話は、あまりにも都合が良すぎるように思えます。
きっと、何か、裏があるに違いありません。
「信用していないようだな?」
「……当然ではないですか。一体、どうして、私に肩入れしてくださるのですか?」
「あの男は、私の期待を裏切った。その腹いせだ」
「……期待? あんな男に、貴方は何を期待したのですか?」
「人類に恐怖を与える。それが、あの男に期待した役割であり、私の役割でもある」
「……」
「何故、私がそんなことをするのか、理解できないようだな? それは、お前が父親から聞いた話による理解で、概ね間違ってはいない」
「……勝手に、人類を裁くなど……貴方は、神様なのですか?」
「それは、神の定義によるな。そうであるとも言えるし、そうではないとも言える」
「……」
女性は、とんでもないことを、平然と話します。
その様子が、まるで他人事のようだったので、私は段々と腹が立ってきました。
「神様でしたら、あの男を自らの手で裁いてください」
「残念だが、それは禁止されている」
「……神様のなさることを、どなたが禁止するのですか?」
「それは話せない。私が、自分のことを神だと断言していないことから、察してもらいたい」
「……」
この方は……神様の部下か何かなのでしょうか?
もっと詳しく知りたいと思いましたが、女性は、この件については、これ以上話すつもりはなさそうでした。
「私が、彼の力を奪ったとしても……人々に恐怖を与えたりはしませんよ?」
「そんなことは期待していない。腹いせだと言ったはずだ」
「……彼のことなど放っておいて、他の誰かに、改めて力を与えたらどうですか?」
「同時に、2人に力を与えておくことは禁じられている」
「……私よりも凶暴な人に、力を移したらいかがですか?」
「一度誰かに与えた力を、他の誰かに与えることは、例外的にしか許されない。受け取る権利があるのは、今のところ、お前だけだ」
「……」
一応、筋は通っているような気がしました。
しかし、この人の話が本当だったとしても、あの男の力を、軽々しく受け取るわけにはいきません。
新たな魂を生み出して、自由に支配する。
そんなことが、私に許されるのでしょうか?
身体が震えて、私は、自分の身体を抱くようにしました。