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三月一七日。
今年は春を迎えるのが早いのか、辺り一面は桜の木で覆われていた。その花びらの一つ一つは雪のように舞い、空気までもが淡い桃色に染めあげていく。
ここはどこにでもあるような閑静な住宅街。その一画の公園では小学生くらいの子供たちがギャーギャーと騒ぎながら楽しそうに遊んでいる。
「はぁ……」
そんな穏やかな光景をベンチから陰鬱そうに眺める一人の少年がいた。名を灰嵜發斗。彼の口から漏れるため息は、これから先の憂いを感じさせるかのようなため息だった。
「受かってんのかなぁ……」
灰嵜は手にかかった花びらを払い落としながらポツリと呟く。そう、この少年は高校入試の結果を待っているのだ。
気がつくと、家でじっとしていられず飛び出してきてもう三時間が経過している。
別段入試の結果が最低最悪だったというわけではない。むしろ中学三年の初めに五教科オール赤点をとった灰嵜としてみれば最高に近い手応えを感じていた。
だが、その最高とは飽くまで自分基準でしかない。六十点以上の点数を叩きだして満足していたら、平均点が七十点越えの簡単なテストだったということも少なくはなかった。
加えて今回受けた高校は『私立駒ケ原学園』。
偏差値六〇以上のエリート進学校で、そこから輩出された者たちはどれも社会に出て優秀な人材として活躍している。そのため多くの中学生が一度は志望校に選ぶ高校だ。しかし、そこに行くには並大抵の努力では不可能。結局はその途中で受験者の多くが諦めて脱落していき、受験者は入試当日が近づく度に減っていく。
そんな中、灰嵜は死ぬ気で四五の偏差値を六二まで引き上げてまでその高校の受験に臨んだ。なぜそこまで駒ケ原学園にこだわるのかといえばその理由は単純明快。
中学時代、憧れていた女子がそこに通うということを知ってしまったからだ。
高嶺の花という言葉がよく似合う一人の少女。頭脳明晰で容姿端麗、その上物腰が柔らかく誰とだって仲良く接することが出来る女神のような存在。
中学時代にはその少女を狙う輩も多くいて、灰嵜もその中の一人だった。
しかしその誰もが自分との吊り合わなさを実感して告白まで至らずじまい。もちろん、灰嵜も同上だ。
だからこそ、同じレベルの学園に入学し、少しでも彼女に近づきたかった。そして果たせなかった告白を今度こそ成功させたかったのだ。
「くそ……神様、仏様、大神官様~~!! なんでもいいから早く結果を教えてくれ!! じゃないと俺はこのプレッシャーに押しつぶされて死んじまいそうだ!!」
ついに我慢の限界か、灰嵜は白一色の頭をワシャワシャと掻きむしる。蛇足だが、なぜ灰嵜の髪が全て白髪なのかといえば、なんでも遺伝が関係しているらしい。そのため中学時代のあだ名は『おじいちゃん』だった。
その頭のせいか、それとも公園内で一人ぶつぶつと呟く灰嵜自身のせいか、近くのガキンチョは灰嵜を見て笑う。
それでも灰嵜にはそんなのは五感の一つにも捉えてない。それだけ追い込まれている状況だということだ。
「――っ!」
そんな時、不意に灰嵜の携帯の振動。
慌てて携帯を取り出してみるとそのディスプレイには、見知った名前が刻まれている。
「母さん……?」
それは母の名前だった。
何時まで経っても帰ってこない自分を心配してか、それとも買い物の手伝いの催促か。こんな時にかけてくるとは空気の読めない親だ、心のなかでそう愚痴りながらも灰嵜は電話に出る。
「もしもし、な――」
『おめでとう』
「に?」
母からの第一声はそれだけだった。
灰嵜の頭には一瞬はてなマークがあがる。『おめでとう』。その意味は? 何かの懸賞に当たったのか? それとも何かの間違いか?
しばらくその言葉の意図をを考えていくと、ようやくそれが何を意味しているのかが読めた。
「え……まさか……それって」
感動で手が震え、口の端がヒクヒクと動く。そして、気がつくと灰嵜の頬には涙が伝っていた。
『そのまさかよ。家にいろんな書類が届いているから取りに来なさい』
カランと携帯が地面に落ちる。
もはや自分は笑っているのか、泣いているのかさえわからない。穴のあいた風船のように全身の力が抜けていき、ヘナヘナとベンチに腰が落ちる。
そして言葉にならない言葉を繋ぎあわせ、ようやく大きく一声。
「うおっしゃぁあああああああ!!」
一人の少年の歓喜が公園に響き渡る。
志望校への入学。ここから少年の物語が始まろうしていた。
◇◇◇
「始まろうとしていた――んだけどな」
三月二十日の朝九時半。
灰嵜は億劫な気持ちでバス停の前に佇んでいた。辺りはいかにも春休み全開といった様子で、デート中のカップルや、親子で出かけている仲睦まじい家庭が窺える。灰嵜はそれを見て億劫さを感じるほど荒んだ心の持ち主ではない。ちゃんと微笑ましいと思うくらいの感性は所持してるつもりだ。
この億劫さの原因は今待っているバスの向かう場所にあった。その場所とは駒ケ原学園の二次試験会場。なんでもそこで面接試験を行うらしい。
灰嵜は今の今まで一次試験の筆記だけだと思っていたので三日前に届いた一次試験合格の通知と同封された二次試験の日時と場所が明記された用紙を見た時はかなり驚愕した。
なんせ灰嵜は面接などの重苦しい場面では途端に言葉を詰まらせてしまう重度の口下手。人前で自分のことを話すだなんて苦手中の苦手なのだ。
それでもこの三日間、死ぬ物狂いで親と面接の練習を行い、志望動機から入学後にしたいこと、何から何まで噛まずに言えるようにはなった。
普通ここまでやれば何の心配もないはずだが、本番と練習では全く違う。本場の空気を前にして、頭が真っ白になり(すでに白髪で真っ白だが)覚えてきたことが全て飛ぶといったこともありえるのだ。
「はあ……」
これで何度目かわからない深いため息をつく。その動きにシンクロするように首にかけていたペンダントが胸の上でその存在を誇示するかのように揺れた。
「そういや……これって結局何なんだ?」
億劫な気持ちを振り払いながら、灰嵜は首にかけているペンダントを掴み、空へとかざしてみる。
大理石で作られたかのように一点の汚れもないそれはまさに純白の白。朝日を吸収してさらに輝きが増しているかのようにも見えた。
これも一次試験の合格通知に同封されてきた物。これが個人の証明になるとか何とかで、着用してないと面接試験を受けることもできないらしい。
別に身分証明書でもいいじゃないか、と灰嵜は思ったが、それには学校側の何らかの意図があるようなので素直に従っておいた。
「ねえ、早くバスに乗ってくれない? すごく邪魔なんだけど」
そんな感じでここ数日のことをあれやこれや振り返っていると、後ろから声をかけられた。
その声は同年代か少し幼いぐらいの少女の声で、少なからず怒気を孕んでいる。おそらくはバスが来たのに何時まで経っても乗らない灰嵜に苛立っているのだろう。現にバスはいつの間にか灰嵜の真ん前で出発を待っている状態にある。
「ああ……ごめんごめん! つい考え事しちゃってさ」
テヘヘと、頭を掻きながら灰嵜はバスへと乗り込む。席には灰嵜と同じような格好をした男女がぎっしりと座っていて、しきりにブツブツと呟いていた。おそらく面接試験のために覚えてきた言葉を声に出して再チェックしているのだろうが、こう第三者の立場から見てみると、どこかの新興宗教みたいで不気味だ。
灰嵜はこれから駒ケ原学園へ行くことを改めて実感するとゴクリと息を呑んだ。
ここに乗っている者全てが面接会場へと向かう受験者たちなのだ。今までは漠然としていた競争相手がこうした形で目の前に現れれば、それは少しは実感も湧くというもの。そしてさっき後ろから声を掛けてきた少女もまた然り。
灰嵜はこれから知り合いになる可能性も考慮して、その少女の顔だけでも拝んでおこうと後ろを振り返ってみた。
「なんなのよ……ジロジロ見てきて」
肩まで伸ばしたオレンジ色に近い赤髪がゆらゆらと揺れ、ほのかに甘い香りを漂わせる。その少女の顔立ちは整っていて、こちらを睨みつけるツリ目が、刺のある薔薇のように威厳を放っていた。
(やべ……超カワイイ)
灰嵜は奥へ進むことも忘れ、その少女に見惚れてしまった。見れば見るほど吸い込まれていきそうな美貌に意識が溶けていくかのよう。
思考停止した灰嵜のせいで入口付近から一歩も前に進めない少女は、
「ちょっと、早く先に進みなさいよ! 私がバスの中に入れないでしょうが!」
手に持っていたパンフレットを丸め、コツンと灰嵜の背中を叩いた。
もちろんそれは優しい攻撃で、痛みなんて感じない。それよか灰嵜にとって喜びすら与えた。
(う~~……怒った顔もカワイイな~~ それに、今時の女なんてすぐ蹴りかっかってくるっつーのに、丸めた紙でポン! とか……)
「もう、この白髪頭! 話し聞いてんの!? 早く先に……!」
しびれを切らせた少女はそのままグイグイと押してきて、無理矢理にバスの中へと入ってくる。
そんな時、ガタンとバスが揺れた。
「キャッ!!」
「ウオッ!?」
最後の一人が乗り込んだことを確認し、まだ二人が席にもついてない状態でバスが出発してしまったのだ。
その振動に足を取られた少女は、後ろから覆いかぶさるようにして灰嵜を押し倒す。
思いっきりバスの中で転倒した二人は、周囲からクスクスという笑う声を浴びせられた。
「お、おい大丈夫か? 怪我とかは……?」
「ないわよ!」
即答し、少女はすぐに立ち上がる。灰嵜も背中に残された二つのお山の感触を噛み締めつつ、のっそりと立ちあがると、憎々しげに運転手を睨みつけるとこう言い放った。
「あの、運転手さん。もうすこし待ってても良かったんじゃないですか? 怪我がなかったら良かったものの、もしどこかを打ったらどうすんすか。……俺はいいけどもう一人は女の子なんですよ」
慣れた手つきでハンドルを回す運転手に、きっぱりと抗議する灰嵜。
その言葉にはこれっぽっちもオドオドした様子はなく、思ったことをためらわず言ったことがよくわかる。
だが運転手は何も答えない。まるでただ与えられた指示をまっとうするだけの人形の様にただただ前を見続け、ハンドルをきるだけだ。
何時まで経っても反応が帰ってこないことに灰嵜は小さく舌打ちすると、
「行こうぜ、どうやらそこの席しか空いてないみたいだし」
隣にいる少女に声を掛けて一番奥の席へと向かおうとする。だが、少女はその手を振り払って、釣り上げた目を最大限に細めてこう言った。
「勝手に触んないで! アンタ、ちょっといいこと言ったからって王子様気取りか何か? はっきり言って、そういう人間が一番鬱陶しいのよ」
灰嵜は横に突き飛ばされ、その間を少女が通る。
「うは……さっそく女子に嫌われた……」
灰嵜はガックシと肩を落とす。女子の前で少しいい格好を見せよとしたらこのザマだ。
何もかもが裏目に出る行動に落胆つつ、灰嵜も席に向かった。もちろん、空いてる席は今少女が向かった所しかないので、隣に座るしかないのだが。