プロローグ
『起きて、ねえ、起きて』
ぼんやりとするなかで声が聞こえる。
ゆらゆらと漂う意識はまだ睡眠を欲しているように億劫で、何も考えたくない。
『まだ疲れてるんじゃない?』
『でも、もう朝だよ。人間はこの時間に起きるものでしょう?』
だが、まだ眠気にさらわれそうな頭が、違和感に気づく。
『グリムだって夜遅くまで研究してると昼過ぎまで起きなかったじゃない。
あと3時間くらい寝かせないと起きないかも』
『そっか~残念だね。早くお話したいな』
(……だれ? この声)
電車のなかで寝た覚えはない。
それなのにたくさんの声が聞こえてくる。
しかも、なんだか“声”の音の聞こえ方が普通と違う。
直接脳に響いているような、おかしな感覚。
『それにしてもグリムが亡くなってもう300年かぁ。早いね』
(グリムってだれ? ここ、どこなの?)
知らない声に危機感を覚えた意識が一気に覚醒へと向かう。
うっすらと開いた目が、外から差し込む光を感じる。何度かまばたくと、だんだんと周囲の様子が見えてくる。
(不思議な部屋……、ごちゃごちゃして見たこともないものばっかり)
ゆっくりとあたりを窺うと、全体的に中性ヨーロッパの家のような造りだ。
だが、異様な雰囲気を醸し出している。
天井まで届きそうな本棚にびっちり入れられた古い本。
ガラス棚やテーブルの上には不思議なカタチをしたフラスコに似た実験器具のような品々。宙にほわほわと浮く光の玉。ほのかに光る鉱石や地球儀に似た置物。
そして魔女の家にでもありそうな大きな鍋とかまど。
「……そっか、私、異世界に来ちゃったんだ」
『あっ、サヤ起きたんだ!』
『大丈夫? まだ眠くない?』
『それよりお腹空いてるよね! 食糧庫なにかあったかな?』
『ダメダメ! もう300年前のなんて食べたら人間はお腹こわしちゃうでしょ』
一斉に語りかけてくる“モノ”たちに苦笑してサヤは起き上がった。
「おはよう、みんな。昨日はありがとう」
『おはよう、サヤ! よく眠れた?』
『サヤったら、お礼なんて他人行儀だよ!これから此処に住むんだから』
『そんなことより、サヤのこれからを考えなくちゃ!』
『う~ん、ボクたちも人間社会はグリムがいなくなってから全然関わってないし、300年間新入りもいないから外の様子もそんなに分からないよね』
『だったら、5番の扉から街に行ってもらうのはどう? あそこは昔から他のところより栄えていたから300年経ってもあんまり変わってないんじゃない?』
サヤに聞こえてくる“モノ”たち──この家にあるテーブルやタンスなどの家具から不思議なカタチをした置物にいたるまで。
彼らの声はとても賑やかだ。無機物だなんてとても信じられない。
きっと異世界ならではなのだろう。
といっても、彼らの声を聞ける者――すなわち『オブジェクトリーディング』のスキルを持つ者は、ほとんどいないらしい。
サヤだって元の世界では、こんな風にモノの声が聞こえるなんてこと今まで一度だってなかった。
そもそもサヤがいたのは科学技術が進んだ現代日本。
モノに宿る声が聞こえ、記憶が読み取れるなんて現象は漫画のなかでもなければ非科学的だと切り捨てられるかオカルト扱いだ。
現代で暮らしていたアラサー女子のサヤだって残業明けの帰り道に、何故かいきなり森の中にいたという不思議現象に見舞われていなかったら、自分の頭が可笑しくなったと思っていたかもしれない。
それに何より、森をさまよった果てに見つけたこの家のドアを半泣きになりながら叩いて返ってきた彼ら──モノたちの返事に心底ほっとしたのだ。
その時はまさか扉の向こうにいる“モノ”が喋っているなんて予想だにしていなかったが。
今思えば灯りも灯っていない真っ暗な家から賑やかな声だけがするって相当おかしい。それにも気づけないほどパニックになった頭で、なんとか彼らからの情報で自分の身に起こった事態を把握した。
此処は自分のいた世界ではないこと。
稀に異世界からくるサヤのような人間は『渡り人』と呼ばれること。
おそらくその影響で自分に『オブジェクトリーディング』というスキルが宿ったこと。
――そして『渡り人』は二度と元の世界に帰れないことも。
そう聞いて途方に暮れるサヤに、彼らはこの家で暮らすことを許可してくれた。
彼らが宿る、この家――此処は300年前に亡くなったグリムという錬金術師の工房だったという。