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第7章 思い出の錘

「時効不成立」 8

第7章 思い出の錘


一九九八年、五十歳を迎える狭間良孝は、パリで正月を迎えた。

参碁朱美は、日本へ行った。

日本の包丁人・料亭「上総」の総帥・権堂久次良が、死んでいた事を知らなかった。

逃げた負い目は消えないが、背負った縁は、いつか消えるものなのか、消してしまったのか、なぜ総帥は、と思うと同時に、当然松山から自分の事は耳に入っていたはずだ。

外国へ行って、重ねる苦労に、自分の事を重ねたくない。

そういう気配りの鋭い、総帥の配慮だと思うと、涙が流れた。

指折り数え、もう八年になるかと思うと、手近に有った紙と鉛筆を狭間良孝は取った。


「化石の恋もふた昔」    


わだち避け

散び生えたるオオバコの

君に通じる狭き道

わき道枝道獣道


この先はどれが君への近道なのか

迷い疲れた足元に

春にも一対

冬でも一対枯れ松葉

手に取りて

思いぞ走る来し方の

化石の恋も二昔


金波銀波に

すすき波打つ江合の河原

詰襟ガクラン

高下駄履いて

霞に煙るはるか山並み

目で追いつつも

君を待つ少年の

黒き瞳に夕日が映える


いつ現れるかと振り向けば

肩で息するセーラー服は

土手に佇む

君が影

そも化石の恋は二昔


南のあすこか東のここか

北の向こうでならばと

よもや会えるか君が面影

探しあぐねたその果てが

月見るに

所変われど同じ月明かり

心の君を君と定めて遠き旅立ち


緑抱えて今ここに

散らび建ちたる家々は

洋の赤レンガ

道に迷いて

君いずこかの探し癖

咲く花を

秘めて燃えるも

化石の恋から二昔


紙に、そう書いた。

まったく自然だった。

二十年の空白は、一気に埋まった気さえした。

狭間良孝は卒業したら、東京の私鉄鉄道に就職する予定だったが、仙台市に就職が決っていた遊茶美枝子から、同じ宮城県内に居て欲しいと説得され、東京を諦め、高校の先生の世話で、古川市で彼の兄が経営する料亭「上総」に決めたのだった。

将来は、一緒に料理屋をやろうと言っていた事の全てを、彼女の突然の不明で嘘にされた。

それからの二十年は、遊茶美枝子を心での探し癖が、流れ板前になっていた。

外国へ出る前、実家に挨拶と帰省したが、古川駅で下りたのには、理由があった。

狭間に、美枝子を引き合わせたのは、同級生の盾端竜子だった。

その竜子に、外国へ行くと電話で言った時、美枝子は古川に居ると教えてくれたのだった。

松島から、そして東京に移ってからも、年に二・三度は竜子に、美枝子は、今何処にいるかと、聞いたのだったが、彼女も頑なに言わなかった。

偶然を装って古川駅で会った。そして一週間後、彼女は東京に来た。

最後の、あの夜、遊茶美枝子は、高校時代の話だけをしていた。

狭間良孝にとって、それは残酷以外の何物でもなかった。

外国へ発つ狭間への餞のつもりだったのか、焼けぼっくりに火を点けたかったのか、それとも詫びたのか、狭間は考えようというより、そのどれでも、既に、どうでも良かったのである。

電話で、明後日東京へ出張が有って行くけど、会えるか、といわれた時に、綺麗に忘れる為のケジメを着けようと決めていたからだった。

理不尽な行方不明という未練に、現実の足を引かれて生きてしまった狭間にとって、どうしても線を引きたかった。

古川駅で会った時、狭間は線を引いた気になっていたが、その線を消し、新しい線を引かせたのは、遊茶美枝子だと、狭間良孝は自分に言い聞かせた。

流血悲惨なやり方とは違って、指一本触れる事もない、きわめてどこか自然な形で事は運んでいた。

遊茶美枝子も、こうなることを、まるで納得していたような出来事だった。

彼女が、上野のホテルで、テーブルに伏せ、最後に見せた笑みが、それを物語っていると思えば、殺人と言う言葉さえも、他人事に思えた。

おそらくそれは、過去二十年の空白が勝っていたからかもしれない。

あれから既に、八年が過ぎた今でも、空白がそのまま延長しているようで、まだどこかに生きているようにさえ、狭間には思えた。

見える現実が消えても、見えない心に残っていた。

それほどまでに、狭間にとっての遊茶美枝子は理不尽に過ぎていた。否、苦しいながらも、明確な別れがあればよかったかもしれない。と思った。

まったくの不明になっていた事は、狭間に未練を深め、災いを深くしていった事を、彼女自身も悟ったのかもしれない。

事情が分かれば何とか出来た、と言うのは結果論であり、果たしてどう出来たか、分からない。

言える事は、ナシの飛礫と言うやり方が、どうしても許せなかった。

いたずらな混乱を受けたと言う被害者意識を持っても、仕方がないのではないかと、狭間は自己弁護をしてみた。

その清算をし、海外に出たのだった。

盾端竜子とは女同士の連絡はあったようだが、狭間の話になると、美枝子はきつく竜子に口止めをしていたと言った。

あのまま、古川で会って別れていれば、ケジメの清算が出来たのだったが、なぜわざわざ東京に出てきたのか、出張のついでであっても、声を掛けて欲しくはなかった。

ケジメの杭が押し流され、空白の時に火がついたのだった。


フグ職人の松山克夫の店から、臓器を掠め取ることは簡単だった。

翌日の夜、焼肉の店で、臓器を混入して焼くと、うっかりすると、遊茶美枝子が、それをこっちに寄越しそうになって慌ててしまった。

フグ毒は早ければ二十分以内に症状が出ることも計算にいれ、明日の事があるからといって早々に引き上げた。

美枝子は宿に入ると、少し変だと言って座り込んだ。

狭間は二十年の過去を思いながら、それを見ていた。

彼女は、少し顔を動かし、狭間を見ると、僅かに頬笑み、事切れた。

なぜ殺すという事を考えるのか、狭間にも分からなかった。

毒薬、毒草と色々有る、果たして。

西洋夾竹桃、月桂樹、殺傷力のある毒草はいくらでもあった。

ジャガイモのソラニン、ルバーブの根、ここから抽出した毒素で、人は簡単に死ぬ事を狭間良孝は知っていた。

だが、なぜ殺したいのか、自分でも不明のままだった。

狂気の反対語は、正気。

これはなんだろ、どういうことだろう。狂気かどうかを誰が判断できるんだ。

正気だという証拠はどこにあるんだ。他人に迷惑をかけるから狂気か、迷惑をかけなければ、それを正気といって良いのか、毒殺やライフル乱射を狂気の沙汰というが、戦争をしている兵隊は、狂気じゃないのか、それを指導する立場の人間は、狂気じゃないのか、殺人はなぜ悪い、法律で決まっているから、とでも言う気か、決められなければ、やっても良いのか?

どこかが違う。

狭間良孝は古本屋で手にした「毒殺日記」を読んで、そう思った。

英国の著者アンソニーホールデンが、一九六〇年代に起きた毒殺魔グレアム・ヤングを取材して書いた物だった。

そして狭間は、自分の身の回りに、意外と多い毒に気が付いた。

だが、仕事柄、フグ毒に勝るものはなかった。


店長になったケイから、電話で誘われたが、狭間良孝は煙草と酒を買いに出るだけで、このホリディーは終わった。


参碁朱美が日本から帰って来るのは、一月末になっていた。

仕入先への挨拶で忙しいわよ、と一度電話があった。

二月に入り早速、狭間良孝は参碁朱美の居るロンドンへ行った。

さすがに高山は腕がよかった。言う事は何もなかった。

「板前は看板の黒子でいい。会社の顔が店ならば、板前は黒子でいりゃいんだ」

その黒子に徹した彼のやり方が、狭間も気に入った。

やはり、「上総」の出だけあった。

狭間は、ロンドンに来て、「寿司丸」の丸山登美子に挨拶ナシでは、と店に行ってみた。

「アラ、お久しぶり、日本から?」と丸山が、そこに居て、狭間を迎えた。

「パリからね」

「フランスから、ヨーロッパ旅行かしら、いいわね」

「どう、景気?」

「最近、店が増えるばっかりで、押され気味よ、なんとかしてよ」

「はァ? 何とかしてって、まったくカワインだから」

「口ばっかりで」

「え、じゃ、何とかすればよかったのかな」

「又すぐ勘違いする」

「又って、そう言う言い方して来るのって、いつも丸山さんじゃないの」

「まあいいけど、一寸付き合ってよ、どうせ暇なんでしょ」

「暇ってね、言われて見ればそうですよ、それできたんですから」

「一寸、文ちゃんお願いね」と丸山が、客席に座っていた板前の文吉に言った。

行った先は、懐かしい隣の喫茶店だった。

「あの板前、頑張ってんだろうけど、客席にいるようじゃ、しょうがないね、丸山さん客席は客のであって、従業員のじゃないんだから。俺が居た時、誰かあんな事してた?」

「そうなのよ、でも、人が居ないのよ」

「居ないんじゃなく、来ないんですよ。それに、ラメシとメイ、店内恋愛は、この道では、ご法度、気を付けた方がいいです」

「え、それほんと?」と丸山が、思案顔になった。

「店のしごきに耐えられる金を出せば、人は居付くんですよ」

「安かったかしら?」

「丸山さんが高いというのと、働く側が高いというのじゃ違うんですよ」

「キリがないじゃないの?」

「そうですよ、でもね、この位出して、どの位の事に耐えられるかを見るのが、経営者じゃないですか。お、やるな、もっと出そう、こうだといいですが、お、やるな、もっとやらそう、やって当たり前なんだ。こうなったら、必ず貴方の手を噛みますよ」

「噛んだわけ?」

「何言ってるんです、約束をきちんと守ったじゃないですか」

「そうよね、ごめんなさい」

丸山登美子はやはり素直な女だった。

だが、狭間は、ポリシーを持って、先頭に立ってやる参碁朱美とは違うなと思った。


ロンドンに二か月居ると、狭間は、イタリアへ飛んだ。

そこには、佐賀県出身の鎌田が居た。

九州の料理を中心に任されてはいるのだが、会うとすぐ、酒をもっと入れたい、と言い出した。

「十年以上の経験ある鎌田さんに言うのもおこがましいですが、酒の為の食事ですか、食事の為の酒ですか」と狭間は聞いた。

「場合にもよりますよ、酒の為のおかずなら、酒のため、食前酒なら食事の為、じゃないですか」

「じゃ、人は、なぜ食う?」

「腹が減るからじゃないですか」

「なぜ?」

「そりゃぁ」と鎌田は少し、言い淀んだ。

「ね、じゃ、なぜ病院へ行きます?」

「痛いとかが、あるからじゃないですか」

狭間は、質問がややこしくなると思った。

「んん、酒をおかずの食事と、食事のおかずに酒を取る。どっちが長生きすると思う?」

「酒は飲まんでも死にませんが、食事は摂らないと、すぐ駄目になると思うから、やっぱり酒はおかず、が良いと思います」

「つまり、酒は食事の為にあるんだという事が、証明された訳でしょ」


三か月後、ウィーンへ行った。

ここには、福井県から、安本という板前が来ていた。

優柔不断というタイプで、マネージャーが苦労していた。

「少しくらいの苦情で、只にしないように、只にすると、客は付け上がって、何度も繰り返すようになる。いつの間にか、客を乞食かゴロツキにしてしまう。只にされて喜んでるのは、乞食とゴロツキだけですよ。普通の客であれば、金は要らないから、二度と来るな。と言われたと思うのが普通でしょう」

狭間が安本に言ってる間、彼は、熟んだ物が落ちたとも反応がなく、唸ってばかりいた。

時折寂しそうな目を向け、物腰の柔らかい、まったく人の良さそうな安本に、狭間は、同情すら覚えた。


こうして、ロンドン、パリ、ウィーン、ローマと回っている間、狭間良孝は、まるで癌の痛みを忘れたい為に、何かに熱中し、痛みを紛らわす癌患者のような心境で、動き回った。


充実の心が、時を忘れるのか、時の流れが速まるのか、二〇〇四年になっていた。

この年、ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、エストニア、ラトビア、リトアニア、マルタの国々が新たにE・U加盟を勝ち取った。

参碁朱美は早速、ハンガリーのブダペストに「セープ寿司」を開けた。

ヨーロッパに五軒目の店だった。



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