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モノクローム・スクリプト  作者: 津蔵坂あけび&九藤 朋
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あるはずのない花を求めて。(津蔵坂あけび作)

 桐野先輩と連絡先を交換した。初めてではないけれど、女の人と連絡先を交換するというのは、少し照れくさい。半田のやつなら、ちっともそうは思わないのだろうが。


『明日、農工大の図書館に行こうと思うんだけど、入野くんもどう?』


 そんなメッセージが、SNSで送られてくると、少し焦る。

 講義の合間の休憩時間、スマートフォンの画面を見て、どぎまぎしていると、背後から声が飛んでくる。

 階段教室の、一段高い後ろの席に、半田が座っていた。へらへらと笑っている。


「どうしたんだよ。寅治、さっきからずっとスマホいじってよぉ」


 半田は、他人が何をしているか、ということに異常な洞察力を発揮する。

 気取られたか、と急いでスマートフォンをズボンのポケットに。


「なんだ、柄にもなく、慌ててるなあ。女の子からメールでももらったか」


 まんまと言い当てられる。

 ぐらり、と揺れた心。半田は、その動揺を逃さなかった。


「お、図星かー」


 半田には、敵わない。観念して、こくり、と頷く。すると、すかさず相手は、どういうコなのか、と。


「一年先輩の、桐野美津さん」


 まじか、と驚く半田。こっちからしたら、桐野先輩のことを半田が知っていることの方が驚きだ。ナンパな彼は、大学の女生徒をほとんど把握しているようだった。


「桐野先輩、可愛らしいもんなあ」


 先輩に向かって、可愛い、というのはどうなのだろうか。たしかに、小柄で綺麗な顔立ちをしている、とは思うけれど。


「一緒に、農工大に行ってみないか、と誘われている」


 半田が飛び跳ねた。おお、やるじゃん、と。そうは言われても、桐野先輩からすれば、調べもののついででしかないだろう。農工大の図書館は、専用カードがないと入れない。桐野先輩が、それを持ってるから、誘われただけだ。


「ちょっとくらい、思い上がっても、罰は当たらないと思うけどなあ」


 慎重すぎる俺に、半田が苦笑いを返してきた。


「にしても、調べものって、何を調べるんだ?」

「この前のメールにあった、歯車菊っていう植物のことだよ」

「ああ……、探求心が深いのは感心だなあ。俺は、そういう気になったことがあっても、ちょっとしたら、すぐにどうでもよくなっちまう」


 分かったら教えろよ、と。美味しいところだけ持って行く気かよ、と返すと、それが仲介営業だ、と自分が目指している仕事を自虐する。

 

「で、どうすんだよ」

「まあ、断る理由はないし、行こうと思う」


 肩をばしん、と叩かれる。痛ぇよ。頑張れよ、と応援なのか、からかいなのか、十中八九後者であろう言葉をかけられたところで、休憩時間は終了。教壇に講師が立った。一般教養の、日本国憲法の講義が始まった。


     ***


 八王子行きの京王線に揺られる。

 平日のお昼前という時間になると、車内も空いている。桐野先輩とふたりきりで出かけるという、慣れないシチュエーションは、少々きまり悪い。目を合わせることができず、車窓に呆けた視線を送りながらの道中。――調布飛行場を通り過ぎた。


「私、つり革が届かないからさ。満員電車ってバランスが取れないのよ」


 苦笑いを浮かべながら、桐野先輩は、手すりを掴んでいる。


「いいなあ、背ぇ、高くって」


 もちろん、桐野先輩よりは高いけれど、男性では平均的な身長だ。


「友達の半田ってやつの方が、ずっと高いですよ」


 あいつは、百八十は優にある。へえ、と返す桐野先輩。どうやら、半田は覚えていても、覚えられてはいないらしい。


「お腹空いてるでしょ。ちょうど、着いたらお昼時だから、何か一緒に食べない?」


 確かに、お腹が空いた。

 桐野先輩曰く、農工大のキャンパスの近くに、行きつけの喫茶店がある、と。


「可愛いお店だけれど、意外とがっつり食べられるよ」


 案内されたのは、店内にボヘミアンファッションや、アンティークな雑貨が並ぶ、落ち着いた雰囲気の店だった。店内には、ボサノヴァが流れている。


「この服もここで買ったの」


 と、肌触りの良さそうな、ワンピースの袖をつまむ。幾何学的な刺繍は、ファッションに疎い俺でも、おしゃれだなあと思う。


「よく来ているんですか」

「うん、すっごく落ち着くし。ああ、ここはねコーヒーもだけど、紅茶もいいのよ。フルーツフレーバーティーは好き?」

「いや、あんまり、飲んだことないです」

「ちょっと、飲んでみたら?」


 日替わりのランチには、食後のドリンクがついてくる。そこに、本日のフレーバーティーとあった。

 注文をして、十数分した後、鏡合わせに同じメニューが並んだ。

 焼きたてのバゲットパンに、真っ赤なボルシチとサラダと、鴨肉のテリーヌにソーセージ。バゲットパンはおかわりができるから、かなり食べられる。


「そのままでもいいし、テリーヌを塗って食べるのも。スープにつけるのも美味しいよ」


 ボルシチというものは、地理の教科書で見たことはあったけれど、食べるのは初めてだった。見た目だけで言えば、ひどく辛そうなスープは、口に入れると、優しい甘さだった。程よい食感の残る野菜から、旨味が溢れ、飲み込むと同時にじんわりと身体が温かくなった。


「美味しいでしょ? ボルシチの他は、夏だったら、冷製のラタトゥイユとか、凄く美味しいのよ」

「よく来るんですか」

「農工大を訪ねる度に、来ているわ。店主に顔も覚えられている」


 ランチの値段は、九百円とそこまで安いわけではないが、内容を考えれば十分にリーズナブルだ。とくに、バゲットをおかわりできるのが嬉しい。

 焼きたてのそれを、温度に難儀しながらちぎって、テリーヌを塗って、ひとかじり。豊かに香る肉の味わい。バゲットは、歯を突き立てるときはざくっと音がするのに、噛めば噛むほど、もちもちとした食感に変わっていく。

 

 しばらくして、食後のフレーバーティーが。

 ダージリンティーに、マンゴーとオレンジの果汁がブレンドされている。口に含むと、みずみずしい果実の甘みに、後を引く紅茶の渋み。甘いのに、後味がアクセントになっていて、口の中に甘みが残らない。口直しには、最適だった。

 これは、通い詰めるわけだ。

 

「いい店でしょ?」


 それに同意すると、桐野先輩は、何かを噛みしめるように笑った。

 

 喫茶店から、徒歩数分で農工大のキャンパスにたどり着く。図書館の受付で、桐野先輩が入館カードを出して、僕も一時的に入館できるようにしてくれた。


「もし、借りたかったら、私のカードで、私が借りたことにすればいいわ。そうしたら、またここに来られるし」


 ふたりで向かったのは、植物の分類学に関する専門書や、図鑑が並ぶ本棚。流石にうちの大学とは、比べ物にならない蔵書量だ。いいや、うちの大学の電子回路やプログラミングに関する専門書の蔵書量なら、いい勝負かもしれないが。


「……キク科じゃ、なかったりするのかな」


 だが、やはり、見つからない。

 もう三、四冊は、索引を目を通して、目ぼしいページは読みこんだ。ここまで来ると、歯車菊は存在しない、架空のものなのではないかと思えてきてしまった。


「桐野さん、僕のことはいいですよ。桐野さんは、自分の調べものをしてください」

 

 俺が、三、四冊目を通している間に、桐野先輩は、七、八冊目を通していた。俺より熱心じゃないのか、と思ってしまう。


「もともと、私も歯車菊に興味があって、ここに来たの。遠慮なんて、しなくていい」

 

 何故か、意地になっているような口調だった。

 それから、キク科以外の植物、果ては、絶滅したものなんかも調べてみたりしたが、歯車菊というものは、見つからなかった。


 自分でも、おかしいとは思う。

 花の名前ごときに、こうも躍起になって調べるだなんて。桐野先輩には、よっぽど花が好きな人として覚えられたことだろう。


「……結局、見つからなかったね」


 帰りの京王線、桐野先輩は、失意に塗れた声で言った。

 俺も、本を読みまくった疲れが、どっと押し寄せていて力なく応える。


「入野君、また、今度調べたり、しない?」

「えっ、でも……、あれだけ調べて分からなかったんじゃ……」


 そう返すと、奇妙な間が開いてから、「そう……」と半音下がった声が返ってきた。――なにか、悪いことでも言ってしまっただろうか。


 それからは、調布駅まで会話はなかった。別れを言い合った後、下宿先の家に戻る。

 家に着くや否や、デスクトップPCを立ち上げ、件のメールをもう一度開く。

 キーボードの上に両手を浮かべて、思いとどまって戻して深呼吸。けれど、もう、心は変わらなかった。キーボードの上に降り立った両の手は、文を綴る。



 岡本美代様


 突然のご連絡、失礼いたします。入野寅治と申します。岡本様は、私のことは知らないでしょう。私も、あなたからのご連絡をいただくまで、岡本様のことを存じませんでした。

 どうやら、何の間違いか、私のところに届いてしまったようです。もう一度、宛名などに誤りがないか、ご確認いただけますでしょうか。


 また、つかぬことをお伺いしますが、歯車菊とは、なんでしょう。

 自分でもおかしいとは思いますが、あなたからの文面を受け取って以来、その花の名前が気になって仕方ありません。こちらで、調べて回ってみましたが、どこにも、その名が記された本は、ありませんでした。

 もし、ご不快に思われなければ、私に教えていただけませんか。



 出来上がった文面を見て、自分がやっていることが奇妙で、笑えて来る。知りもしない女性から、間違いで届いたメールで返信するなんて。半田に話したら、間違いなくドン引きだろう。

 そう思っても、俺はもう、あとには引けなかった。そのメッセージを送ったとき、うすぼんやりと、あの籐のLANケーブルが青い光を放った気がした。



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