消えた手紙(九藤作)
「あら」
朝、起きて、昨日編んだ籐の籠バッグを覗いた時の、私の第一声はそれだった。なぜなら、そこに確かに入れた筈の手紙が、忽然と消えていたからだ。
小振りな籠バッグには、手を入れて探る程の深さもなく、ただただ手紙の不在を私に伝えるばかり。さては真夜中の手紙を書いた夢でも見たかと思ったが、紫陽花のインクのボトルも硝子ペンも、僅かながら定位置を移動した感がある。籠バッグを編み上げた疲労ゆえの錯覚ではないのだ。何よりの証拠に便箋も封筒も、一枚ずつ減っている。
私は小首を傾げ、春子たちの話を思い出す。
不意に現れて消えた、真っ青なハンチング帽。
出たり消えたり、消えたり出たり。
それでは私が須磨子に宛てて書いた手紙も、その内戻ってくるのだろうか。
私は寝間着からセーラー服に着替えながらそう思った。セーラー服のリボンはセピアめいた藍色で、美しく結び上げることが私たち女学生の腐心するところともなっていた。ささやかな、少女時代の一ページ。やがて大人になればこれも、懐かしく微笑ましいこととして思い出されるのだろう。
黒繻子の猫がいつの間にか私の足に擦り寄り、先日、腕から逃げた詫びでもするように咽喉を鳴らす。現金なものだと私は微苦笑しつつ、その頭と咽喉を撫でてやる。
階下の台所では既に朝食が整えられていた。
青灰色の着物に銀鼠の割烹着を着けた母が後ろ向きに流しに立っている。父の出勤は私の登校よりも早い。父の食器を洗っているのだろう。
「早く食べてしまいなさい」
「はい」
朝の挨拶を交わしたあと、母がまた流しに向き直り私に柔らかく促す。
「昨日は夜遅くまで起きていたのね」
「籐の籠バッグを編んでいたの」
絹ごし豆腐とわかめの味噌汁を飲みつつ、答える。母が笑う気配がした。
「今の流行ね。若い子は好きね」
「もっと大きなのを編めるようになったら、お母さんの買い物籠も作ってあげるわ」
「はいはい、気長にお待ちしております」
笑みとからかいを含んだ声で母は答え、話半分にしか取られなかった私はやれやれと思い、法蓮草のお浸しに箸をつけた。
登校し、教室に入ると、いつもと違う、漣のような空気があった。悲しみ、当惑、微かな憤りと同情。
それらの感情の中心にいるのは、顔を両手で覆った春子のようだ。肩が震えている。冷気の為ではないだろう。
「どうかしたの?」
私は春子と、彼女を取り巻く同級生たちに、そっと差し出すように尋ねた。春子の代わりに松美が答える。
「春子さんのリップクリームが消えたのですって」
「まあ」
「何でも外務省に勤めるお兄様から特別に頂いた、舶来の品だったらしいの」
それで赤と認識出来るくらいの唇を見せていたのかと、私は合点が行った。そして他の女子たちと同じく、春子に同情を寄せた。
彼女の肩を撫でて、励ます。
「ね。私もね、大切な物が消えたの。でもそれも、春子さんのリップクリームも、私が思うに、一時的に無くなっただけなのじゃないかしら」
「……一時的に?」
「そう」
顔を上げた春子の目は潤んでいて、縋る色が私を見ていた。
「ほら、青いハンチング帽の話をしてたでしょう? 似たようなことが、他でも起こってるって。きっとその現象の一環なのよ。気を落とさないで」
春子が目をぱち、と瞬かせる。
「そうかしら。……そうなのかしら。そうだとしたら、本当に良いのだけれど」
「ええ。だから待ちましょう? またひょっこり、失くし物が現れるまで」
確信は、正直なところ余りなかった。けれどいつも快活な春子が萎れたところを見るのは、私にも忍び難く、慰めたい一心で私は持論を尤もらしく語ってみせた。春子は少し気分が落ち着いたようで、何回か軽く頷くと、得心したように唇を引き結んだ。リップクリームの塗られていない唇は淡い薄茶色で、私にはそれはそれで趣があるように感じられた。
下校した私は、ともかくも須磨子宛ての手紙の文面で約束した、歯車菊の写真を撮ろうと、写真機を手に庭に出た。カーディガンを羽織っていても、蒼い涼風は冷たく、私は手早く撮影しようと歯車菊にピントを合わせた。
少し前までは写真は、写真屋さんに頼んで撮ってもらうのが常だったが、安価で扱いやすい写真機が出回るようになってからは、そちらで撮影する機会のほうがずっと増えた。
歯車菊の錆色が、矛盾しているようだがレンズ越しにも朽ちた美しさで映え、私はその足で写真屋さんに現像してもらいに出向いた。
籐の籠バッグに見知らぬ紙が入っているのを発見するのは、それから少し後のこととなる。