歯車菊(津蔵坂あけび作)
ブラウザ上の受信メールを閲覧する画面には、マウスオン――カーソルを置くこと――で差出人のアドレスが見えるようになっている。しかし、その“美代”という、おそらくは女性からのメールの、アドレスは示されなかった。
「なんか妙だな」
半田も眉をひそめた。
「美代って知り合いか?」
いいや。俺は首を横に振った。さっき思わず「誰だ……?」と口走った通り、美代という名前に心当たりはない。もとより、女性の知人は数えるほどしかいないし、向こうから覚えてもらっている自信もない。
「ちょっと開いてみろよ」
スパムかもしれない。それ自体にそんな実害はないだろと言われ、囃し立てられるがままにメールを開く。
思わず画面を覗き込んだ。そこに並んでいた文字に違和感があった。
「なあ、こんなフォントあるのか?」
そこにあった文字は、どう見ても“手書き”だったのだ。
「いや、手書きの画像ファイルじゃね? 背景を透明化して貼りつければ――」
文面にマウスオンしても、文字入力モードにならないことから、画像ファイルという可能性もあるが。それは、右クリックをしても反応がない事実で打ち消された。
半田と俺は、呼吸を合わせるように首を捻った。
考えれば、考えるだけ妙なメールだ。その内容も。
白川須磨子様
一筆申し上げます。
向寒の頃となりましたがお変わりなくお過ごしでしょうか。私は家族共々、元気に暮らしております。
貴方が転校してから、早ひと月が過ぎようとしております。春子さんも松美さんもお元気で、時折、貴方のことを話し、安否を気に掛けています。気丈で気さくな貴方のことですから、きっとそちらの学校でもすぐに交友の輪を広げていらっしゃるのでしょう。私は晩秋の風を感じつつ、貴方の不在を寂しく感じています。今日は手すさびに籐の籠バッグなどを編んでみました。初めてにしては中々の出来栄えと自負しております。我が家では歯車菊が錆色の花を咲かせております。その花を籠バッグに入れて親戚宅に持参しようなどと目論んでいます。ささやかな自慢とお笑いください。次の手紙を投函する折には、写真機で撮影した歯車菊をお目に掛けます。
楽しみにしていてくださいませ。
かしこ
十一月七日
岡本美代
宛先を間違えている。というのは内容を見れば分かる。しかし、電話番号ならまだしも、電子メールで、たまたま間違えたアドレスで届くなどあり得るのだろうか。
それに、文面の言葉遣いもどこか小難しく感じた。
“向寒”というのは、秋が終わりに差し掛かり、本格的な冬の寒さがやってくる時期に使う挨拶に添える言葉なのだそうだ。ビジネスメールなどでは使われたりするのだろうか。そういう言葉の類には疎いので、ネットに教えてもらった。
「白川須磨子という人に宛てたものなのか」
それは読み取れるのだが、俺は“岡本美代”という女性を知らなければ、その知人であろう、“白川須磨子”という女性も知らない。
「知らない人が、知らない人に宛てたメールが迷い込んでくるなんて、不思議なこともあるもんだな」
しかし、このメールにはそんな一言では表せないようなおかしさがあった。
「歯車菊と読むのか――それってなんだ?」
半田に聞いても、彼は花の名に詳しいわけではない。
ネットに尋ねると、ご丁寧に“歯車”と“菊”に分解され、それらを含む全ての記事が引っかかった。そして、その中に“歯車菊”という言葉を含むものはない。
“歯車菊”――実在するのかすら分からない植物は、俺の頭をますます混乱させた。
「返信してみようぜ?」
「はあ、まさか」
肩に置いた手から人差し指が伸びて、俺の頬をつついている。茶化しているだけなのにマジの反応をすんなよ、と返された。
それは分かっている。これは条件反射のようなものだ。
心の中で反論しながら、笑い声を聞き流す。
「それよりも課題、確認しようぜ」
「ああ――」
俺はそこで件のメールを閉じた。――だが、歯車菊という植物の名と、メールの文面は、ずっと頭の中にちらついていた。
***
その翌日。講義の空き時間を使って大学の図書館を訪ねた。
開放的な空間にいくつもの本棚が犇めき合っている。普段ならば、プログラミング言語や、電子部品の扱い方。および、その発達の歴史などを記した情報系の書物を探すのだが、今回は目的が違う。
図鑑や生物学関連の書物が並んでいるところに今回は用がある。
大学の研究室では、たしか生体のシミュレーションを研究しているところもあったはず。たしかに、生物学に関する専門書は一通りあるが、情報系の専門書と比べるとバリエーションは少なく感じた。
とくに、図鑑の類は取り揃えが心もとない。
その中で何冊か見つけた植物図鑑を数冊ほど抱えたところで、ひとりの女性が本棚を仰ぎ見ているのが目に留まった。
女性は小柄で、どうも本棚にある書物に手が届かないようだった。
「あの、手伝いましょうか」
思い切って声をかけてみた。
さらりと長い髪が揺れて、くりくりとした瞳が、俺の顔を仰ぎ見た。
「あ、ありがとうございます」
取ってくださいと頼まれたのは、農業技術に関する専門書だった。お互い情報系の大学で変な書物を読むものだと思ってしまった。
「不思議ですよね。そんな本をここで借りるなんて」
「え。あ、いや――」
それが顔に現れていたらしい。まずい。隣に半田がいたら、「だからお前はモテないんだ」とか言ってあしらわれそうだ。
「でも、俺も植物図鑑なんて借りようとしているし」
咄嗟に取り繕うと、彼女はぷっと笑って「お互い様ですね」と言って、本を受け取った。
「私、植物工場のシステムの研究がしたくて。でもシステムの勉強だけじゃなくて、農業技術に関する専門書も読んでるんです」
彼女は小声で、桐野美津と名乗った。一年先輩だった。それに合わせて俺も自己紹介をした。俺が後輩だと分かって、彼女は即座に敬語を解いた。
「で、なんで入野くんは、植物図鑑なんて読んでるの」
名字に“くん”付けで呼ばれたのは、随分と久しぶりな気がする。俺は、そこであの歯車菊という植物のことを話した。
「矢車菊なら知ってるんだけど、歯車菊なんだよね」
「はい」
彼女は、俺の持っている図鑑の矢車菊の写真を指差した。幾何学的造形を思わせる綺麗な花だ。しかし、探している歯車菊という名前ではない。そして、俺は歯車菊の姿を知らない。彼女は不思議そうに、顔をしかめた。
本棚から選んだ植物図鑑のどれにも、その植物は乗っていなかった。索引から探すだけでは飽き足らず、目を皿のようにして隅から隅まで目を通したが、やはり見つからなかった。いや正直言えば、図書館の机でさっき会ったばかりの女性と向かい合わせに座るというのが、どうも居心地が悪くて紙面に逃避していただけだ。
あからさまに肩を落とす俺。
「――私も、いろいろ植物のことは勉強してきたつもりだけど」
彼女はたまに、農工大学の図書館にも足を運ぶという。そこには植物に関する書物が、ここよりもずっとあるという。
「興味があるんだったら、そこにも行ってみる?」
そう言って彼女は、笑った。