籐の籠(九藤作)
黒繻子の猫が私の腕から逃げてしまった。温かな生命の塊が、私を置き去りにして、自由に放たれた。私は縁側に置き、座っていたマホガニーの椅子から立ち上がる。立ち上がると椅子の座面に彫られた精緻な模様が空気に触れ露わになる。
秋から冬に移ろう時期。天頂は薄暗く、世界の遍くものものが黒と白で構成され、他の色彩はごく淡く薄くしかその存在を主張しない。セピアだけが明瞭であることを許されている。それが私の住まう世界だ。
風が季節を私に物語るように吹きつけ、薄墨色のスカートの裾がはたはたと揺れる。私の好む風鈴も流石にもう仕舞い時だろうと思い、淡い赤の金魚が描かれた硝子に手を掛ける。外す時、リン、と清かな音が鳴った。硝子戸を閉め、私は外の冷風を遮断した。
「それがね、美代さん。最近、出るのですって」
「あら、貴方もお聞きになった?」
女学校と言えば淑やかな女子育成の場と思われがちだが、実際は鳥がかますびしく囀るような集まりの場である。私はおっとりと眠たげな目で、友人たちの世間話に耳を貸す。
「まあ、何かしら」
焦らすように私を見る、春子の唇はほんのり赤い。赤、と認識出来るくらいだ、余程に良いリップクリームを塗っているのだろう。この白黒の世界で、それでも乙女は色彩を装おうと必死だ。
「近頃ね、出るのですって」
「まあ。季節外れの怪談?」
春子は首を振る。それはどこか芝居がかった仕草で、おさげにした髪の毛も一緒に揺れた。
「出るのはね、人じゃないの。物なの」
「物? 一体どういうこと?」
「用務員のおじさんがね、学校の見回りを終えて、一服していた時の話だそうよ。机の上に、一瞬目を離しただけの間に、それまでになかった真っ青なハンチング帽が置いてあったんですって。真っ青よ? 有り得ないでしょう、そんな鮮やかな色」
「そうよ、有り得ないわよ」
春子の横から松美までが声を揃え、私は微苦笑する。とかく多感なこの年頃は、些細なことで盛り上がりたがる。私は昼休憩を微睡むように、彼女たちの思春期特有の感性から生じるお喋りを、半ば愛おしむような心持ちで聴いて過ごしていた。
「でもその青は、長くは続かなかったのですって」
「あら残念。見せて頂こうと思ったのに。でもそうよね、この世界ですもの。本来は有り得ない色だわ」
「そこがミソなのよ。続かないと言ったのはね、淡く色褪せる前にハンチングが、おじさんの目前で消えてしまったからなのよ」
「消えた? 不意に現れて、不意に消えた?」
春子は松美を自分の話に取り込むことが出来てご満悦の表情で何度も頷く。
「そう。そして似たようなことが最近、他でも起こっているそうよ」
「出たり消えたり」
「そう。消えたり出たり」
「何だか言葉遊びのようね」
「まあ、美代さんたら笑ってらっしゃる」
私は教室の窓硝子の外を眺めた。春子も松美もそれに倣う。
色褪せた日輪。もったりと動く鈍い色の雲。
出たり消えたり消えたり出たり。それはまるで童遊びのよう。
翳り帯びた、モノクロームのこの世界には相応しい児戯かもしれないと私は思った。
近頃、若い女性たちの間で籠バッグが流行っている。葡萄や木通の蔓で職人が編んだ籠はその手作業の労苦ゆえに高価で、安易に手にすることは出来ない。私たち女学生などは、安く手頃な素材で編まれた、身の丈に合った籠バッグを持ち歩くのがせいぜい。
買えぬ物なら作れはしまいかと、私は籐の籠バッグを手ずから編んでみることにした。
初めは小さな籠から。水を使いながらの作業は、真冬にはさぞ骨折りだろう。今がまだ、晩秋で良かった。編み芯を基準に、編み進めてゆく。籐のしなやかな感触が、指に木の肌の生気を伝える。
夜半過ぎ、何とか完成したそれは、初めてにしては我ながら満足のゆく出来栄えだった。
部屋の机の上に置き、しばらく仄かなランプの明かりに照らされる籐のバッグを見ていた私は、ふと手紙を書こうと思い立った。親しくしていた友人が、先日転校してしまい、私は寂しく思っていたのだ。春子も松美も、仲は良いが、その友人は別格だった。彼女の去った空虚を埋めるべく、私は猫を抱いたり籠を編んだりと気晴らししていたように思える。
籠バッグに手紙を入れて、明日、投函しに行こう。
彼女への手紙には、硝子ペンで書いた文字が相応しいだろう。
私は紫陽花と名付けられたインクに、美麗な硝子ペンの先を浸け、紙に文字を綴っていった。深夜の手紙はとかく感傷的になりがちだと言うので、なるべく感情的にならぬよう、しかし親愛の情を籠めて書き上げた手紙を、私は籐の籠バッグに入れ、机の上に置いて眠りに就いた。