始まり(津蔵坂あけび作)
ベークライト製の臙脂色の基板の上を高熱の筆でなぞる。
熱せられた銀色の金属が液状に融けて、銀色の橋となる。コンデンサやトランジスタ、抵抗器の間を渡していく。
冬場だというのに額には汗が滲む。
真剣だというのもあるが、バイトで貯めた金を崩して買った、はんだごての出力が凄まじいのだ。おかげで、寒くて仕方のない部屋の中で、マザーボード用の大型基板を心置きなくいじれるというわけだが。鉛フリーのはんだでも楽々融けてくれるのは非常にありがたい。
夢中で作業をしていると、インターホンが鳴らされた。
大学の授業がないのをいいことに、自分の部屋で“趣味”に没頭している平日の真昼間。訪ねて来る奴ときたら、あいつしかいない。
「鍵開いてるから、そのまま入ってくれ」
一度熱したはんだは、できるだけ一気に繋げてしまいたい。何度も融かしたりすると、はんだが汚れたり、でこぼこになったり、基盤が焦げたりしてしまうからだ。背中越しに訪問者を邪険に扱う。
がちゃり。背後で玄関のドアが開いた。
わさわさと紙袋の音が鳴ったかと思うと、鼻にフライドポテトの匂いが入って来た。
「ういーっす。寅治、マック買ってきたぞー」
気だるい返事をしながら入って来たのは、大学の同期の半田だ。
前期の必修講義であるプログラミングの授業の課題を一緒にやったのが、腐れ縁の始まり。一緒にやったとはいっても、ほとんど俺が書いたコードを半田がコピペしていただけだ。強いて半田がやった作業と言えば、コメント――ソースコードに「//」を入れれば、コンパイル(読み込み)されない文章を覚え書きとして記入できる――の内容をちょくちょく変えて、工作をしたことぐらいだ。
「相変わらず、すげー部屋だな」
開口一番は昨日と同じ部屋の感想だ。昨日も来ていたのだから一日で変わるわけがないだろと言いたい。つまり、掃除はしていない。
ゴミがその辺に落ちているわけではない。プログラミングや回路設計の本でごった返していたり、新聞紙と作業マットでこさえた作業スペースがそのままだったりするので、足の踏み場がないのだ。
「にしてもよー。遊び盛りの大学生が、引きこもってマザーボードいじっているとはな」
「でもそろそろ出かけるよ。部品が足りない」
「秋葉原の電気街にか。そうだ、ついでにガールズバーにでも行こうぜ」
半田は遊び好きだ。
バイトの貯金をガールズバーだとか、メイド喫茶だとか、合コンだとかに融かしている。高校時代から使っている脂ぎったメガネをかけた俺とは違い、格好も洒落ている。金色に染めた髪、パーカーの上にジャケットを羽織っている。下はデニム地のジーンズ。小難しくはないファッションだが、見栄えは俺よりも数段良い。――俺もパーカーを着ているのだが、いかんせん小太りだから見栄えが悪い。
「遠慮しとくよ」
だからか俺は、そういう女遊びだとかには、あまり気乗りがしない。
面と向かって話していると、笑顔でもどこかで俺をオタクっぽいだとかそう思っているんじゃないかとか、そういう邪推が働いてしまう。いや、電子オタクなのは否定はしないが。
「連れないなー。電気街は俺も見るけどよ」
がさがさとポテトの袋を破く。特に断りもなく一本二本頂戴した。油の滲みた芋に、たっぷりの塩がジャンキーな味わいで美味い。
あらかた作業が終了した。うだうだと与太話をしながら、ポテトを食べる。
ポテトが切れたらふたりして秋葉原に出かける。大学生特有の成り行き任せの生活だ。
調布のボロアパートから、京王線に乗って新宿へ。そこから中央線と総武線と乗り継いでいく。東京は交通が発達しているが、それでも移動にはそれなりの時間がかかる。一時間近くかかって、ようやく秋葉原に降り立つ。
平日の昼下がりだというのに、人の行き来が激しい。情報系の大学に通う俺たちにとって、秋葉原の電気街は恰好の遊び場だ。
昨今ではアニメ雑貨店やらメイド喫茶やらの方が、街の顔になりつつあるが、俺たちにとっては電気街こそ秋葉原の真の姿だ。サブカルに塗れた表通りから裏手に入ると、そこら辺の電気屋では見かけない商品ばかりを取り揃えた店が並び始める。型落ちのものや外国製のタブレット端末を売っている店。トランジスタやコンデンサなどの電子部品を扱う店。アンプやスピーカーなどのオーディオ部品を扱う店。ゲーミングPCやPCソフトを扱う店。そのすべてが犇めき合っている。
いかにも精密そうな電子部品をプラスチック製の籠に入れて店先に出しているのを見ると、「ああ、秋葉原だなあ」と実感する。決してお洒落な街ではないのだが、なんとも心地よいのだ。
「しかし、回路設計士になりたいとは変わってるなあ。国内生産PCなんて落ち目だぞ」
行きつけの店で電子部品を漁っていると、半田が言った。
将来は回路設計士になりたい。小学校の時から、電子回路に触れてきた生粋のギークである俺のささやかな夢だ。
「本当はPC基盤がやりたいけど、国内じゃ自動車や医療機器の基盤の方で食っていくしかないな。それでも、アナログの仕事はほとんどない。そっちは途上国にどんどん取って代わられている」
だが回路設計の仕事に純粋に携われることは、年々稀なケースになりつつある。国際的に分業化が進んでいるからだ。
「俺は難しい勉強をするくらいなら、別の知識を付けるわ」
半田がマザーボードやCPUの並んだ棚を眺めながら言う。
彼はあまりプログラミングやら回路設計やらに本腰を入れていない。その代わりと言ってはなんだが、彼はこの手の店頭で値切るのがすこぶる上手い。エレクトロニクスの業界の動きにも詳しい。そんな彼は、エレクトロニクス商社で働くことを視野に入れている。
「日本は、仲介業が儲かる仕組みになっているからな」
知識に長けていて、口の上手い彼には良い仕事だろう。
だけど、専ら手を動かすことに喜びを感じる俺には向いていない。だいいち、俺は口下手で、所謂コミュ障という人種。彼を除いて大学の友人など、ほとんどいない。
コンデンサや抵抗器を物色している際に、奇妙な品物に遭遇した。束ねられた状態でばら売りされているLANケーブルの中に、ひとつだけ異質なものがあった。家具に使うような籐を編んでつくられていたのだ。
「すみません」
思わず買ってしまった。
「変わってるな。そのLANケーブル」
部屋に戻り、デスクトップPCに買ってきたLANケーブルをつなぐ。籐を編んで作られたLANケーブルなんてなんとも珍しい。横で見ているだけの半田も目を白黒させている。
ネットワーク識別アイコンが接続中の表示になった。
問題なく接続できているようだ。動画サイトも見たりしたが、問題なくさくさく動く。見てくれが洒落ているだけで、中身は普通のケーブルと変わりないようだ。規格は何だろうか。店員に確認をすれば良かった。
「そういえばさ、ネットリテラシーの講義の課題、メールで届いていたぞ」
「えっ、マジで」
半田に課題のことを教えられるとは。普段は課題や履修関係のことは、俺が半田に伝える側なのに。メールを開くと、確かに受信箱にネットリテラシーの担当教授からのメールが届いていた。しかし、それよりも気になるメールがあった。
“From 美代”
美代。“みよ”と読むのだろう。少し古風な女性の名前。
「美代って誰だ……?」
そして、俺の知らない名前だ。