夢想逃避
夜が更けた。日中は生き延びるために活発に動き回っている動物も、寝静まっている時間だ。森全体が安らぎを得たような静寂の中、バリィは神秘的な月を見上げていた。
普段なら仕事の疲れが睡眠薬となり、目を閉じればすぐに眠れるのだが、今夜は眠気が訪れるどころか冴える一方だ。
隣で横になっているキーラは、とっくに寝入っており、先程から暢気な寝息を立てている。
女性陣はワゴンの椅子を利用した即席のベッドで寝てもらっている。
チャンスだ。
覚悟していた時が訪れると、落ち着きがなくなり、考えが上手くまとまらくなった。焦るな、焦るなと何度も自分に言い聞かせた。
大丈夫か? 本当にいけるか?
キーラは寝入っている。問題ない。二人の少女はどうだ? 銃声がすれば当然目を覚ます。彼女らが銃を手に取る前に、二人にもシュラーフを撃ち込む事は可能だろうか? キーラが寝ている場所と馬車までの距離を目算する。走ってほんの二〜三秒といったところか。十分可能だ。彼女たちが何事だと慌てた時には、魔法を撃ち込んでいる。
バリィは傍らに置いてあった護身用の銃を手に取った。音を立てないように慎重に立ち上がった。
近づく際、小枝を踏んでパキッと乾いた音が響いた。思わず歩を止めた。固まった身体と反比例して、心臓の鼓動が喧しい程に鼓舞する。
数秒固まったままの姿勢を維持した。キーラが起きてこないのを確認できると、再び近づき始めた。妙に炎が滲んで見える。緊張のせいでめまいが起きそうだ。
キーラの体に触れられるまで、あと一歩というところまで接近した。もう充分だ。
バリィは光来の額に銃口を向けた。少し迷ってから狙いを額から胸に移した。寿命が縮むくらい鼓動が速まる。
バリィの脳裏に、まだあどけなさが残る光来の笑顔が過ぎった。彼は本当に賞金首のキーラ・キッドなのだろうか? とても凶悪な人物には思えない。しかし、自らキーラと名乗っていた以上、この少年が手配書の賞金首である事に間違いはない。なにかの手違いでお尋ね者になった可能性はある。しかし、彼を差し出せば三千万ガルが手に入るのだ。仕事の苦労や人間関係のしがらみ、将来の不安から解放してくれる金額だ。
「…………」
許してくれ。俺はもう疲れた。疲れ果てた。この先、なんの希望もない仕事をひたすら続ける気力なんて残っていない。なんの苦労もない、気楽な生活をしたいんだ。
俺の夢のために……
夜のしじまを打ち破る銃声が響き渡った。眠っていた森が耳障りな警報で強引に起こされた。身の危険を感じた動物が一斉に逃げ出し、そこかしこから葉音が立った。
光来は冷水を浴びせられたように飛び起きた。傍らに置いておいたルシフェルを引き抜き、動くものの気配がある方に銃口を向けた。一連の動作が終了してから何事だ? と考える程、無意識での行動だった。
光来の目に飛び込んできたのは、手首を押さえながら呆然と立っているバリィだった。その顔は暗がりの中でも血の気が引いている事が分かった。
「バリィさん?」
状況が飲み込めないでいる光来の耳に、リムの声が流れこんだ。
「やっぱり、こうなったわね」
振り返ると、リムとシオンが馬車のワゴンから出てくるところだった。
シオンは降りる際もバリィに銃口を向けたままだった。今の銃声は、シオンが発したものらしい。
「シュラーフの弾丸だから、衝撃があっただけでしょ?」
シオンは静かだが圧力のある一言を放った。
「いや、君たちは……無理矢理キーラに連れ回されていると思って……」
三人の視線が突き刺さった。バリィは咄嗟の言い訳を口にしたが、通用するはずがない。これほど濃密な緊張感の中に身を晒すのは初めての経験だった。
「君たちを助けようとしたんだ。このキーラは賞金首の悪党なんだろう?」
もはや一人芝居となったバリィの言い逃れを目の前にして、光来はすぐに感想が浮かばなかった。
こういうのはなんと表現すればいいんだ? ショック? がっかり? なんとも言えない喪失感を味わいながらも、妙に醒めて状況を受け入れている自分も確かにいた。
リムが、ワゴンから麻袋を乱暴に落とした。
「二日分の食料が入ってる。人の足でも二〜三日で帰れるでしょう」
「そんな。それは俺の商売道具……」
バリィは酩酊したみたいに、ふらつきながら馬車に近づいた。
「言ったはずよ。明日も目一杯走ってもらうって。ただし、自分の足で走る事になったのは、あんた自身が招いた結果よ」
リムの一喝で、バリィは動けなくなった。
「キーラ、乗りなさい」
食料を放り、歩いて帰れと言う事は、つまり馬車を強奪しようと言う事だ。第三者がこの場面だけを目撃したら、間違いなく辻強盗に見えるだろう。
ちょっとだけ逡巡したが、リムの言葉に従う事にした。結局のところ、リムの言っている事は正しい。今のバリィの立場に、自業自得という言葉を当てはめた。
「……なぜ分かった?」
バリィの問い掛けに、リムは口角をわずかに上げた。
「あんたの作ったサンドイッチ、なかなか美味しかったわよ。でも、かすかにだけど火薬の匂いがしたの」
バリィは抑えている手を凝視した。
「夕食の時に、最近野盗に襲われたか訊いたけど、あんたの答えは『そんな経験は一度もない』だった」
その会話なら、光来も覚えていた。妙な質問をするなと思い、耳に残っていたのだ。
「試し撃ちしたわね。つまり、銃を必要とするなにかをしようと考えたって事だわ」
バリィは低く唸った。自分から質問しておきながら、リムの説明を聞くのが苦痛だとでも言いたげだ。
「行くわよ。乗って」
リムに促され、光来はワゴンに足を掛けた。乗り込む前に、今度は光来がバリィに問い掛けた。
「なぜこんな事を? やっぱり金ですか?」
バリィは皮肉な笑みを浮かべた。
「ああ、そうだよ。お前たちは若いから分からないだろうが、歳を重ねると疲れ果てちまうんだ。飯を食ってちゃんとしたベッドで眠る。たったそれだけの事を得る為に、毎日ボロボロになって働かなくちゃならないんだ。金を欲しがるのは当たり前だろうがっ」
体内の毒素を放出するような叫びだった。
光来はバリィの豹変ぶりに圧倒されながらも、彼から目を逸らさなかった。
「バリィさんの苦労は分かりません。でも、俺はどんなに歳を取っても、金のために人を貶めるマネはしないと思う」
光来は沈んだ声で言い、ワゴンに乗り込んだ。
光来が投げた言葉に、バリィの顔が歪んだ。
「この辺りは狼が出るから、焚き火は絶やさないようにね」
リムは御者台に座ると、手綱を操って馬を走らせた。
「だからっ! そう言えるのも若いうちだけだっ。今まで必死に働いてきたんだっ。残りの人生、楽したいと思っちゃいけないのかっ」
森の中にバリィの叫びが響き渡った。
「俺には夢見る権利もないのかっ! こんなのあんまりだろうっ。もうちょっとで夢が叶ったのにっ」
声はどんどん遠ざかるのに、バリィの叫びは逆に近づいてくるようで、光来は耳を塞ぎたくなった。追い掛けてくるのはバリィの執念か。
「夢ってなに?」
リムは不機嫌に吐き捨てた。
「晴れた日には釣りに出掛けて、雨の日は本を読む……」
「なにそれ?」
シオンのつぶやきに、リムは問い掛けた。
「夕食の時、彼が言ってた。そんな気楽な生活を送るのが夢だって」
リムは、ふんっと侮蔑を顕にした。
「そういうのは夢じゃなくて、現実逃避っていうのよ」
キーラと出会ってから、馬を盗んでばかりいる……
つい、そんな事を考えてしまった。
リムのイラついた感情が、手の先に表れた。普段の鮮やかな馬術はどこかに置き忘れてしまったように、荒っぽく手綱を打った。
いきなり主が変わった馬は、リムから少しでも離れようとしているのか、必死に夜の森を疾駆し続けた。