祝い酒
干州で王威を退けた翌年。
尚稜の街は新年の祝いもそこそこに切り上げた男たちが集まるのは、町外れの酒場だった。
新年を迎えて数日、各家毎の祝いの席も一段落した今日、場末とは言えどこの酒場も賑わいを見せはじめている。
家人や親族とのつきあいにひとしきり満足した男たちが、今度は情報交換を求めて街へと乗り出し始める――というのはもっぱらの言い訳で、女どもへの接待に辟易した男たちの逃げ場となっているだけなのだが。
そうやって家長でありながらもいまいち威厳を示せていない情けない男どものたまり場として、年明けの酒場は栄える。くたびれた男たちが集まっては、自分がどんなに粗末な扱いをされているのかを暴露したあげく、なんだお前もかと共感しあっては慰め合っていた。
そんな年を重ねた男たちの中に一人、年若い少年――と言うには随分と体格が良いのだが――が交じっている。簡素な衣を纏っているが、その生地や仕立は質が良い。鴇鼠色のクセのある髪をまとめている髪飾りも、気の利いたもので、このような場末には不釣り合いな彼は、完全に浮いていた。
時間はまだそう遅くはない。しかし彼が呑み始めたのは随分と早い刻からだった。顔を真っ赤にさせたまま、卓に突っ伏し、項垂れていた。
新年の祭り気分が抜けない町人たちが心配げに彼の顔をのぞき込んでは、どうした少年、と声をかけてくる。丁度自分たちの息子程の年齢の彼が、どうにも放っておけないらしい。
「う? ああ……」
どうにも気の入らない返事を返す。虚ろな表情から、相当落ち込んでいることが伝わったらしく、周囲の男たちは顔を見合わせた。
少年は周囲に、すでに空になっている酒瓶をいくつも並べていた。のくせに、ツマミの類いはほとんどない。空きっ腹に酒だけをつっこんだ証拠がそのまま残されていた。
その日、久々に酒場に顔を出した――後に克と名乗った大男も、一人で酒盛りする彼が気になっていたらしい。先ほどからただ酒に口をつけるだけ。うなだれるようにしたその様子は、むしろ気を遣ってくれと言わんばかりの落ち込みぶり。流石に心配になったようで、近寄り、少年の肩を盛大に叩いた。
「どうした、少年? 家出でもしてきたのか?」
「……ああ?」
克の大きい自慢は体躯だけではなく声もだった。酔いに酔った少年の顔に唾をまき散らしながら、隣へと椅子を移動させる。そして彼が仰ぐように手を振ると、何名かの男たちが従うようにしてツマミをのせた大皿を少年の卓の方へと移してきた。
その中からおもむろに肉まんじゅうを口にしては、バシバシと肩を叩いてくる。初対面だというのに、遠慮という言葉は存在しないらしい。
「新年の目出たい時に、なァにそんなふて腐れてるツラしてるんだって聞いてンだ」
「景気悪いぜ」
「なんだ兄ちゃん、女にフラれたのか?」
周囲も面白がるように、次々に言葉を投げかける。しかし、そのうちのひとつに、少年はピクリと肩を震わせた。
「……フラれた?」
先ほどまで虚ろだった瞳の焦点が合うかのように、少年は前を見た。フラれた、フラれた。と何度か繰り返すように独りごちて、盛大にため息を吐く。
「フラれたならどんなに良かったか……」
最終的に、うなだれるように呟いた後、少年は盛大に酒を煽った。
同時に、しまったと思う。
酒の力か、普段は脳内をぐるぐるまわって言葉には出てこない本音がぽろりと漏れたらしい。
一方で、それをきっかけに、克の周囲の男たちも一気に盛り上がった。女の話。それも、フラれた未満の悲しい話。
酒のツマミにもってこいの話題に、聞き耳を立てるよりも参加したい。このまだまだ青臭い少年に、人生の先輩として教鞭を執ろうではないかと、我も我もと男たちが集まり出す。
皆の顔にでかでかと「好奇心」と言う文字が書かれている気がして、少年もたじろぐ。しかし市井の人たちは無礼講万歳と言わんばかりに、少年の気持ちなど汲み取る様子は無かった。
「ははァん、悩めるお年頃ってか? 分かった、兄ちゃん、俺たちが聞いてやろうじゃねえか」
克自身もうんうんと頷きながら、無精髭をいじり始める。酒の追加を注文しつつ、さあ話せと言わんばかりに体を前に出してきた。
余計なお世話だ。と、最初は感じたものの、やはりどこかに吐露したい気持ちが動く。
そもそも、少年は本来いるべき環境に辟易していたからこそ、こんなところまで来ているのだ。新年の宴もそこそこに切り上げて。
頭に浮かぶ悩ましい光景をぼわんと思い出していると、いつの間にかため息が漏れていたらしい。大丈夫大丈夫、と無責任な声とともに背中をさすられて、なんだか完全に子どもの頃に戻ったような気すらした。
「兄ちゃん、名は?」
「……雷」
「そうか。よっしゃ、今日は雷の失恋祝いだ! 呑むぞてめえら!」
「おい! 別に俺は失恋なんて……!」
おおー! と騒ぎ立てる男たちを制するように、雷は顔を上げたが、もはや彼の意思など関係ないらしい。やんややんやと料理を次々に移動しつつ、雷の周りにはすでに大きな人の円が出来ていた。
ちなみに、失恋など不本意。言語道断だ。
そんなみっともない状況には陥っていないと主張しなければならぬ。そう思い口を開きかけたところ、周囲の大人たちに背中をバンバン叩かれ、完全に出損ねた。
「まあまあ、いいじゃないか。年若いのが一人悩んでるんだ。心配するのは当然だろい」
「……面白がってるの間違いじゃないのか?」
「ははは、まァまァ。……にしても、兄ちゃん、いい筋肉してるな? 船乗りか? それとも兵隊さんかい?」
雷の腕の筋肉を触りながら、克は確かめてくる。
「お、新年別れの定番職!」
「兄ちゃん、どうなんだい?」
克の言葉に周囲も頷きながら詰め寄る。どうやら、船乗りと兵はこの時期に振られる定番という共通認識があるようだ。
確かに、長らく国をあけて戻ってきたあげく、女に別の男が出来てたという悲しい話は少なくない。雷の部下がつい昨日、同じ理由でやけ酒していたのを目の当たりにもしている。
大方、雷も新年に戻ってきたはいいのだが……という展開に当てはまるのではと勝手に予想を立てられたのだろう。失礼な、と思うが、職業の見立てはあながち間違っていない。
見透かされた気分で、少し気まずそうに雷は答えた。
「……武官だ」
「へええ、兄ちゃん、偉いさんじゃないかい。どこの軍に所属してるんだい?」
興味を持った男は一人や二人ではないらしい。身を乗り出すようにして、雷の話に聞き耳をたてる者も多い。少し押し黙るようにして考えたのちに、もはやヤケになって雷は続けた。
「稜花……様の軍に……」
結局、頭の中に彼女の顔がバッチリ浮かんでしまった。
最近、寝ても覚めても、彼女のことばかり考えてしまう。逃げるようにしてここまで来たのに、結局これか……と心の中で呻いたものの、もう遅い。
雷が稜花のことを目で追いかけているのはいつの間にか周知の事実らしく、彼女のいない場でからかわれることも少なくない。
不本意だが、本当に、納得いたしかねるが、雷自身も稜花のことが気になってしまっている事実をどうやら認めなくてはいけないらしい。
よりにもよって、なぜ猪のような彼女に引っかかったのか。本当に、力一杯不本意なわけだが。
「何だ兄ちゃん、花形じゃねえか!」
「姫様の軍かあ! すげェじゃねえか! そりゃあ、捨てる女が悪い。あれだろう? なんか凄い武将を倒したとか何とか」
「王威!」
「そう、王威!」
一方で、思いがけぬ名前の登場に、周囲の男たちは目を丸めた後、わっと歓声をあげている。こうなることは予測できていた。
稜明の姫君の名を知らぬ者はいない。普通ならば、町人にまで軍の動きが知られていることは少ない。ましてや、稜花は姫君ではあるが、駆け出しの武将。
それでも、唯一の女性武将にして、それなりの武功を立てているからこそ、民の人気は高い。他領他州には見られない女性武将ーーしかも、きっとかなりの腕を持っているのだろうと贔屓目も上乗せされた彼女を、皆は誇りに持っていた。
同時に、幼い頃から気兼ねなく民の元へと降りてきていた彼女。直接声をかけられたという者も少なくない。民に対して非常に近い位置にいる姫君のことを、悪く思わないはずがない。
幼い頃より切磋琢磨してきた相手がこうも民の人気があることを目の当たりにし、雷は歯噛みする。本来ならば男である自分こそが、その立場に立っていたかった。彼女に負ける気など、雷にはないのだ。
「別に、王威を討ち取ったわけじゃねえぞ。追い返しただけだ」
「とはいっても、すげえなあ、俺たちの姫様は!」
「ああ、雷。お前、俺たちの代わりに姫様を護ってくれよ!」
「……言われなくてもわぁってらい!」
顔を真っ赤にしながら、雷は声を荒げる。まるで心の中を覗かれた気がして、心臓に悪い。そうだ、本来は雷自身が矢面に立って、彼女を護らねばならぬ立場なのだ。
しかし、その悔しそうな雷の様子に、場の一人が心得たりと声をあげる。
「……わかった。兄ちゃん、あれだろう。女が、稜花姫に嫉妬したんじゃないのか?」
……当然ちがう。
しかし、身分を明かしてないこの状況で間違えられるのは仕方がないだろう。
女がいる設定なのは些か男としては悪くない気持ち――言い換えれば些か魅力的ではあるが、相手が彼女でないと意味がない。――やはり、どう考えても、不本意極まりないが。
そうして雷は、本当に隣にいて欲しいかもしれない彼女のことを思い浮かべる。
新年の宴の際、顔を合わせることも少なく無かったし、そもそも同じ軍なのだから、しょっちゅう共に行動している。
しかし、最近の彼女の態度に対して、雷は非常に大きな不満もあるのだ。
「だなあ。お前、その子のこと姫様と比較したりしてないよなあ? あんな方と比べられて、真っ当に張りあえる女なんかいやあしないだろう?」
「いや、でも姫様はお転婆だからなァ……案外気の強ぇ女なんかは負けん気でいるだろ」
「いやでも雷はフラれたんだぜ?」
「雷が姫様のことばかり彼女に話して、気を悪くしたんじゃないか?」
「……なんでそうなるんだ……」
男たちの完全に道を逸れまくった予想に、雷はうんざりして首を振った。
しかし雷の呟きなど、もはや男たちの耳には届いていない。
あれやこれやと雷の失恋話を創作しては、盛り上がってしまっている。その暴走ぶりは、やはり彼らも酔っ払いだからだろう。
何なんだと、雷はため息をついた。わざわざ自分のことを知っている者のいない酒場まで足を運んだというのに、結局は稜花の話。
最近の稜花の様子を見るたびに苛立ちを押さえきれなくて。少しでも彼女を頭から追い出したくてこんな所まで来たのに。
結局からかわれるなら、軍の宴で呑んでいるのと変わらないじゃないか。そう思いながら、盛り上がる男たちをよそに、更に酒を煽った。
しかし、克だけは相変わらず横で、にやにやと雷の顔を見ていた。そして、雷にのみ届くよう、耳元で囁く。
「違うだろう? 兄ちゃん、姫のことが好きだな?」
「……ぶっ!?」
まさか図星に、雷は盛大に酒を噴き出して、げほげほとむせる。その様子に、何事と他の男たちも再度視線を集め始めた。
「お〜お〜、当たったなァ、こりゃ」
「ばっ……! そんなっちがっ……ごふっ」
酒が気管に入ったらしく、涙目になりながら雷は反論しはじめた。しかし、そうまで動揺してしまうと、もはや事実であると主張しているのと同義だ。
何だ何だ、と、聞いていなかった者たちが競うようにして詳細を訊ねてくる。
「雷は姫様にホの字なんだとヨ」
「ああ〜!」
「その線もあったかー!」
先ほどまで散々、雷の想い人像に予測を立てていた男たちは、まるで納得したかのように頷きあう。と同時に、憐れみをたっぷりと込めた瞳で雷を見た。
「そりゃあ、高嶺の花だなぁ〜……」
「姫様かぁ〜……いくら武官殿でもそれは難しいんじゃないかい?」
「そもそも、姫様もそろそろ年頃だろう? 縁談の一つや二つあるんじゃねぇのかい?」
縁談。その言葉すら重くのしかかり、雷はうう、と言葉を吐いた。
具体的に稜花に縁談が来たと、彼は聞いてはいない。だが、噂というか、領内の希望として湧き出ている相手がいることは、雷だって重々承知していた。
雷が頭を抱えた所で、周囲の者たちも色々察したのだろう。
にやにやと雷の様子を見て楽しむ者。稜花の相手に予想を走らせる者。純粋に雷を憐れむ者、色々だ。
しかし、稜花との関係を否定しそこねたのがまずかったらしい。
「待てよ……雷、お前、もしかして姫様とデキてるとかないよなあ?」
場の一人が持ち出したあくまでも仮定の話に、場の空気はがらりと変わった。
何を言われたかわからなくて、雷がぽかんとしたことすら、もはや肯定とさえ捉えられてしまう。
「雷はこう見えて結構男前だろう? そもそも、何でこそこそ隠れてこんな所で呑んでるんだ。よっぽど、身内には話せない秘密とかありそうだろ?」
「かーーーっ! つまりアレか! 姫様と想い合ってるけど、姫様が何処ぞに嫁いじまうってか!?」
「ってか、姫様、何処かに嫁いじまうのか!? 俺たちの姫様が?」
「おい、雷。何とかしろっ! てめえも男の端くれなら、姫様を止めやがれっ」
「そうだそうだっ!」
皆、好き勝手妄想しては、遠慮の欠片も無くそれを吐き出す。
新年に相応しい馬鹿騒ぎをしてみせては、お互いの意見にうなずき合って、最終的に稜花を愛でていた。
しかし、皆の予想の外れように、雷は自分自身が恥ずかしくなった。かと言って、訂正する事は、雷の対象外っぷりを詳らかにせねばならぬ。それはそれで、雷の誇りに差し障るもの。
――そう、もし稜花を、止められる身であれば……。
ぽわわんと、脳内に彼女の姿を思い浮かべる。
――別れを惜しみ涙ぐむ彼女を引き留める、俺。
――彼女の手を引き、抱きしめる、俺。
――ンでもって、最後は……
「……っだァーーーーーーッ!!!」
脳内に自主規制をかけたが、ちょっと想像するだけで感情が振り切れた。
暴れ回る熱を押さえ込むために、全力で叫んだ雷に対し、皆が一瞬動きを止めて目を丸めた。
しかし、雷の目に皆の様子は映らない。そんな心の余裕が無い。自分の思い浮かべた映像に脳内でのたうち回ったあげくに、自分の不甲斐なさが身に染みる。
彼女を止められる身であれば、どんなに良いだろう。
更に言うと、彼女と想い合っているとか夢のまた夢すぎて。想像しては満足しているとか不甲斐なさ過ぎて泣けてくる。
――完全に恋愛対象外とかっ! 自覚してる、俺! なさけねー!
――ついでに言うと、何が哀しくて、毎日毎日……っ。
「ふっ……ぐううう……」
泣いた。
雷は。男泣きに泣いた。
その涙がまたまた、男たちの涙をも誘う。
「……雷。まさか、お前本当に……!?」
「本当に姫様と想い合ってるのか……可哀想になあ……っ」
皆、泣いた。
酒を片手に男泣きした。
皆が雷の不遇を思い、涙してくれるのを横目に、雷も更に涙を流す。
ーーなんか、色々違うけどもういい。俺は泣く。
雷の脳裏に浮かぶのは、幼い頃からずっと目標にしてきて、ついでにほのかな想いまで抱いてしまったお転婆な姫君。昨年、久しぶりに会って、つい想いを自覚してしまった幼馴染。
あまりに美しく成長していて、誤魔化すために勝負を仕掛けざるを得なかった。普通に話すとか、無理だ。今更緊張してしまうのとか、バレると、もう恥ずかしくて死ねる。
それに、と、雷は思う。久々に会った彼女の隣には、見たことのない男が控えていた。
まさに黒の影。細身の、まるで抜き身の刃のような雰囲気は、男ながらに憧れる。
そんな冷静で鋭敏な雰囲気の男が、稜花の前でだけ雰囲気を和らげることがある。
稜花もまるで満更でもなさそうで、それを笑顔で見守っており。
なんというか。非常に。本人たちには自覚は無いのも分かっているのだが。どう見ても。甘酸っぱい雰囲気が……漂っているのであった……。
――あいつら、ベタベタしすぎなんだっ!
――耐えられるかっ。畜生っ!
完全に稜花に惚れ込んだ雷の色眼鏡による割増感は否めないにしても、恋愛経験皆無の雷の目には毒すぎた。
あいつらは四六時中共に生活しているし、夜はあの男、稜花の天幕から離れそうとしないし、稜花を誘い出して二人で話とかしたいなーと思ってもちゃっかり後ろに黒いのが着いてくるし、折角勇気を出して稜花に接近しようと思っても上手くいった例しがないのはきっとあの男のせいだろうそうに違いない。
己の不甲斐なさは完全に横に置いておいて、雷は涙と鼻水でズルズルになりながら酒を煽った。しゃきっとしていればそれなりに色男に見える彼だが、目も頬も真っ赤にしながら醜態を晒しまくっている彼は見るに堪えない。
しかし、周りの男たちはそんな彼とがっちりと肩を組み、ともに慰め合った。
それなりに人生経験を積み上げた男たちに、雷の(勝手な想像による)別れは身につまされる想いもあるのだろう。
そうして、町外れの夜は更ける。
翌朝。
実家にまさかの“朝帰り”をするという暴挙を果たした雷を出迎えたのは――末弟のはな垂れ小坊主がどんな浮き名を流してきたのか「好奇心」と顔にデカデカと書かれた彼の兄たちだった。
これから兄者たちとの第二ラウンドがはじまります。