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リングジャグラーは色恋令嬢に騙されない

作者: KOTOHA
掲載日:2026/09/23

「ロイ! 今度こそ頑張ってー!」

 子供たちの声が、天幕いっぱいに響いた。

 舞台の中央で、ロイは困ったように笑う。


 二度目の挑戦だった。

 一度目は、八枚目を落とした。

 もちろん、わざとだ。


 完璧な芸は、人を感心させる。

 けれど、ときには失敗した方が、人の心を動かす。


「もう一回!」

「次はできるよー!」


 だからロイは、もう一度リングを投げた。

 一枚。

 二枚。

 三枚。


 色鮮やかな輪が宙を舞う。

 右手で受ける。

 投げる。

 左から落ちてきた一枚を首へ通す。

 両手が空く。

 その一瞬で二枚を受け、身体を回す。


 首のリングが肩から腕へ滑った。

 肘。

 手首。

 指先。

 そのまま放つ。

 二枚のリングが頭上で交差する。


「おおっ!」

 六枚目。

 七枚目。

 そして八枚目。


 床すれすれまで落ちたリングへ、ロイが足先を差し込む。

 蹴る。

 リングが跳ね上がる。

 膝。

 腰。

 胸。

 ロイは見ない。

 背後から上がってきたリングへ、右手だけを伸ばす。

 パシッ。

 掴む。


 八つの輪が舞う。

 右。

 左。

 高く。

 低く。

 交差する。

 離れる。

 また戻ってくる。


 ロイには、そのすべての軌道が見えている。

 だから――。

 今度も。


「あっ」

 カラン。

 最後の一枚が落ちた。


「ああああーっ!」

「ロイー!」

「頑張ってー!」


 ロイは頭を抱えた。

 もちろん……演出だ。


 客席を見る。

 拳を握る子。

 椅子から立ち上がる子。

 祈るように両手を組んでいる子。

 そして最前列には――。

 誰より必死に拍手している、赤いドレスの女がいた。


「もう一回! 次は絶対できるわ!」

 ずいぶん本気で応援してくれるものだ。

 ロイは笑った。


 誰かを応援する喜び。

 失敗しても、もう一度挑戦する勇気。

 そして最後に成功する喜び。


 サーカスは、エンターテイメントだ。

 難しいことなんて考えなくていい。


 笑って。

 驚いて。

 手に汗を握って。

 最後には――。

 興奮と感動を持って帰ってもらえれば、それでいい。


 三度目。

 今度は――決める。


 八枚を投げる。

 回る。

 右腕。

 左腕。

 両手。

 首。

 七枚を受ける。


 最後の一枚が落ちてくる。

 ロイは見上げない。

 右手だけを伸ばした。

 パシッ。

 掴む。


 一瞬の静寂。


「やったああああ!」

 天幕が揺れた。

 子供たちが飛び跳ねる。

 大人たちも拍手を送る。


 そして。

 あの赤いドレスの女も、子供みたいに笑っていた。


 ヴァネッサ・アルディーニ伯爵令嬢。

 社交界では、別の名前で知られている。


 ――色恋令嬢ヴァネッサ。


 ◇


「相変わらず二回落とすのね」


 公演後。

 裏手でリングを木箱へ収めていたロイは、その声に振り返った。

 先ほどの赤いドレス。


「……伯爵令嬢様が、こんなところに何の御用でしょう」

「あなたに会いに来たの」

「それで?」

「好きです」

「帰ってください」

「早くない!?」


 ヴァネッサが目を丸くした。

「私、まだ三言しか喋っていないわ!」

「三言目で告白する人の話を、これ以上聞く必要があります?」

「本気なのに」

「皆さんにも、そう言ってるんでしょう?」


 その瞬間。

 ほんのわずかに、ヴァネッサの表情が曇った。

 けれど、すぐに消えた。


「失礼ね。好きでもない殿方に好きなんて言ったこと、一度もないわ」

「なるほど」

 ロイは頷いた。

「好きになった人数が多いだけ、と」

「そういうことですわ」

「もっと悪い気がするんですが」

「どうして!?」


 思わず笑った。

 噂に聞いていた女とは、どうにも印象が違う。


 だが。

 それで警戒を解くほど、ロイも素直ではなかった。


 侯爵家の次男。

 近衛騎士。

 若い商会主。

 宮廷楽師。

 ヴァネッサが想いを寄せた男は、一人や二人ではない。


『今度は誰を狙っているのかしら』

『また殿方が変わったそうよ』

 社交界では、そんな噂が囁かれている。


 男を次々と誘惑する伯爵令嬢。

 そして今度は。

 自分。


「ともかく、俺は結構です」

「では、また来ます」

「話聞いてました?」


 ヴァネッサは上機嫌で去っていった。

 ロイは、その背中を見送る。


「……色恋令嬢、ねえ」

 どうやら。

 次の標的に選ばれたらしい。


 ◇


 翌日。


「好きです」

「お断りします」


 翌々日。


「今日も来ました」

「…………」

「皆さんでどうぞ」


 団員全員に菓子を持ってきた。


「ありがとうございます、ヴァネッサ様!」

 新人の少女が嬉しそうに箱を受け取る。

「昨日のお菓子も、とても美味しかったです」

「本当? よかった。甘すぎないか心配だったの」

「動物係のおじいちゃんなんて、三つも食べてましたよ」

「まあ。それなら今日は多めに持ってきて正解だったわね」


 ヴァネッサは笑った。

 ロイだけに特別なものを渡すわけでもない。

 裏方の老人にも。

 新人の少女にも。

 動物の世話係にも。

 同じように笑いかける。


 それに、公演前には決して顔を出さない。

 練習中にも声をかけない。

 いつも公演が終わるまで待ってから、こうしてやって来る。


「じゃあ、また明日」


 ヴァネッサが去っていく。

 その背中が見えなくなったところで、隣にいた団員が口を開いた。


「なあ、ロイ」

「なんだ」

「あの人、本当に色恋令嬢なのか?」

「……なんで俺に聞くんだよ」

「いや。もっとこう……男に媚びたり、お前にだけ高いものを持ってきたりする女かと思ってた」

「噂じゃ、そういう女なんだろ」

「噂じゃ、な」


 団員は菓子を一つ摘まんだ。

「実際に話すと、全然違うじゃないか」

「…………」

「普通にいい人だぞ」

「菓子で買収されてないか?」

「美味いからな」

「されてるじゃないか」


 次の日も。

 その次の日も。

 ヴァネッサは公演を見て、差し入れを置いて帰っていく。


 いつしかロイは、終演後になると赤いドレスを探すようになっていた。

 別に、待っているわけではない。

 ただ。

 噂に聞いていた女と、目の前の彼女が、あまりにも違うから。

 気になっただけだ。


 男を弄ぶ女。

 次々と恋人を変える女。

 噂の中のヴァネッサと。

 目の前のヴァネッサが。

 どうにも重ならない。


 そして何より――。


 ヴァネッサは、毎回ロイの公演を見ていた。

 いつも同じ場所。

 最前列。

 最後の演目になると、少しだけ身を乗り出す。


 一度目。

 ロイがリングを落とす。

 二度目。

 また落とす。

 三度目。

 成功。

 誰より嬉しそうに拍手する。


「そんなに、あの演目が好きですか?」


 ある日の終演後。

 ロイはとうとう尋ねた。


「ええ」

「毎回同じですよ」

「知っています」

「俺が二回落とすところまで?」

「もちろん」


 ヴァネッサは笑った。

 どこか懐かしいものを見るような笑顔だった。


「三回目は、必ず成功するもの」


 ロイは手を止めた。

 妙な言い方だった。


「まるで、昔から見てるみたいな言い方ですね」

「さあ、どうでしょう」


 ヴァネッサは答えなかった。

 けれど。

 その横顔だけが、なぜかロイの記憶に残った。


 ◇


 事件が起きたのは、王都での夜公演を終えた帰りだった。

 人気のない路地。

 ロイは足を止めた。


 三人。

 前方に二人。

 背後に一人。

 全員、剣を持っている。


「金ならありませんよ」

「曲芸師に用はない」

 男が言った。

「アルディーニ伯爵令嬢はどこだ」


 ロイの顔から、笑みが消えた。

 自分でも驚くほど、自然に。


「知りませんね」

「毎日お前のところへ通っているそうじゃないか」


 剣が抜かれる。

 ロイは腰の革紐を外した。


 四枚の戦闘用リング。

 舞台用より小さい。

 厚く、重い。


 剣を逸らす。

 手を打つ。

 足を止める。

 制圧と防衛に特化したリングだった。


「そんな物で戦うつもりか?」

 ロイは答えなかった。


 一枚目。

 投げる。

 正面の男が剣を振り下ろす。

 キィン!

 リングが刃の腹へ斜めに当たった。

 受け止めるかわりに逸らす。

 ロイはもう、その脇を走り抜けていた。


 二枚目。

 背後へ。

「ぐっ!」

 振り返らない。

 手首。

 短剣が落ちる。


 三枚目。

 低く。

 男が跳んだ。

 避けた。

 そう思ったのだろう。

 その着地点へ――。

 一枚目が戻ってくる。

「がっ!」

 足首。

 男が崩れる。


 ロイは走る。

 戻ってきた二枚目へ右手を伸ばす。

 パシッ。

 受ける。

 そのまま投げる。


 右から剣。

 近い。

 左手のリングを立てる。

 刃を受けるのではない。

 剣の腹へ、斜めに添える。

 キィン!

 火花。

 剣先が肩口を抜ける。


 身体を回す。

 リングが腕を滑る。

 肘。

 手首。

 指先。

 そのまま放つ。

「ぐあっ!」

 手首。

 剣が落ちる。


 だが同時に、一枚のリングが石畳へ落ちた。

 カラン。


「武器を落としたぞ!」


 ロイは拾わない。

 走る。

 リングも転がる。

 追いつく。

 足先を縁へ差し込む。

 蹴る。

 跳ね上がる。

 膝。

 腰。

 胸。

 ロイは見ない。

 右手だけを伸ばす。

 パシッ。

 掴む。

 投げる。


 一枚。

 二枚。

 三枚。

 四枚。

 舞う。


 舞台と同じだった。

 足で上げる。

 腕へ通す。

 身体を回す。

 受ける。

 投げる。

 戻ってくる。

 また受ける。


 違うのは――。

 一枚も外さない。


 手首。

 膝。

 剣。

 肩。

 逃げ道。


 敵が避ける。

 そこへ次が飛ぶ。

 しゃがむ。

 戻ってきたリングが待っている。

 剣で弾く。

 変わった軌道すら、次の一投へ繋げる。


 リングだけを見ていては、ロイとは戦えない。

 一枚を避ければ、次がいる。

 一枚を弾けば、その先から戻ってくる。


「化け物……」

 最後の男が後ずさる。

「曲芸師風情が……!」


 ロイは無表情で、戻ってきたリングを受けた。

「曲芸なら、外していいんですけど」

 一枚を指に掛ける。

「こっちは『本業』ですから。絶対に――」

 放つ。

「外しません」


 キィン!

 男の剣が手から離れた。

 ロイは落ちる剣を見もしなかった。


 戻ってきた四枚のリングを重ねる。

 そのまま走り出す。

 嫌な予感がしていた。


 ◇


 遅かった。

 ヴァネッサは攫われていた。

 敵国の諜報員。

 目的は、国境防衛に関わるアルディーニ伯爵への脅迫。


「くそっ」


 胸の奥が、妙に冷たかった。

 どうしてこんなに焦っているのか。

 考えるまでもない。

 ヴァネッサがいない。

 それが――嫌だった。


「待ってください」

 伯爵家の侍女が呼び止めた。

「どこへ?」

「決まってるでしょう」

 ロイは答えた。

「あの人を取り返します」


 侍女はしばらくロイを見つめていた。

「ロイ様は、お嬢様をどう思っておられますか?」

「今それを聞きますか?」

「今だからこそです」


 ロイは答えなかった。

 言葉にすれば、認めなければならなくなる。

 そんな気がした。


「お嬢様が『色恋令嬢』と呼ばれていることはご存じでしょう」

「……ええ」

「では、なぜそう呼ばれるようになったのかは?」

「男を取っ替え引っ替えしてるからじゃないんですか」


「違います」

 迷いのない声だった。


「お嬢様は、一度も二人の殿方を同時に想ったことはありません」

 ロイが眉を寄せる。

「好きになれば、ご自分から想いを告げます。断られれば泣きます」

「……」

「そして、いつかまた誰かを好きになれば――また想いを告げるのです」


 それだけ。

 ただ、それだけだった。


 けれど貴族社会では、令嬢は殿方から求められるもの。

 自分から何度も恋をするヴァネッサは、それだけで噂になった。


 好きなら。

 好きと言う。

 彼女はただ、自分の心に嘘をつかなかった。


「どうして……」

 ロイは呟いた。

「どうしてあの人は、そこまで」


「幼いころ、サーカスへ連れて行っていただいたそうです」


 リングに触れていたロイの指が止まった。


「そこで、一人の少年を見たと」


 一度。

 リングを落とした。

 二度。

 また落とした。

 それでも。

 三度目。

 成功した。


「お嬢様は、あれが演出だとはお気づきにならなかったそうです」


 ロイの脳裏に、遠い記憶が蘇った。

 最前列。

 上等な服を着た、小さな女の子。

 椅子から立ち上がって。

 伯爵令嬢らしさなんて全部忘れて。


『ロイ! 今度こそ頑張ってー!』

 叫んでいた。


 あの声。

 どこかで聞いたと思っていた。


「その日から、お嬢様は、失敗することを以前ほど怖がらなくなったそうです」

 侍女が微笑んだ。

「失敗したなら、もう一度。二度失敗したなら、三度目に挑戦すればいい」

「……」

「恋も、同じだったのでしょう」


 ロイは目を閉じた。

 振られた。

 泣いた。

 それでも、また誰かを好きになった。


 好きになったなら。

 自分から伝えた。

 それだけなのに。


 ――色恋令嬢。

 そう呼ばれた。


 何が、男を弄ぶ女だ。

 何が、次の標的だ。

 彼女は一度だって、人を弄んでいない。

 いつだって本気だった。


「お嬢様は今でも、その曲芸師を覚えておられます」

 侍女が言った。


「ロイ様」

「……なんです」

「お嬢様は、あなたに何度想いを伝えましたか?」


 ロイは目を閉じた。


 一度目。

『好きです』

『帰ってください』


 二度目。

『好きです』

『お断りします』


 二度。

 二度も。

 彼女はリングを投げた。

 そして自分は。

 二度とも受け取らなかった。


 胸の奥で、すべてが繋がった。


 失敗しても。

 もう一度。

 二度失敗したなら。

 三度目。


「……馬鹿だな、俺」

 ロイは笑った。


 彼女が三度目を投げてくれるのを待つ必要なんてない。

 今度は――。

 自分から拾いに行く。


 ◇


「行くのか?」

 噂でしかヴァネッサを知らない団員が言った。

「相手は敵国の諜報員だぞ」

「知ってる」

「それに、あの女は色恋令嬢だろ。助けたところで、お前だって――」

「ああ、騙されてたよ」

「だったら……」

「あの人にじゃない!」


 ロイの顔から笑みが消えた。

「――あの人が、男を弄ぶ女だって噂に……な!」


 四枚のリングを腰へ下げる。

 歩き出す。


「おい!」

「二回も、受け取らなかったんだ!」

「何がだよ!」


 ロイは振り返らなかった。

「だから今度は――俺から行く」


 ◇


 ヴァネッサが監禁されていたのは、王都外れの廃倉庫だった。


 見張り。

 六人。

 ロイは正面から入った。


「何者だ!」


 一枚目。

 投げる。

 ランプ。

 ガシャン!

 倉庫の殆どが闇に呑まれる。


 二枚目。

「ぐあっ!」

 手首。

 剣が落ちる。


 三枚目。

 柱。

 跳ねる。

 死角から膝。

 男が崩れる。


 ロイは走る。

 剣が来る。

 止まらない。

 左手のリングを立てる。

 キィン!

 受けずに流す。

 剣が肩の横を抜ける。


 身体を回す。

 リングが腕を滑る。

 肘。

 手首。

 指。

 投げる。


 四枚目。

 ヴァネッサの横を抜ける。

 その背後。

 彼女を掴んでいた男の手へ。

 ゴッ!

「ぐあっ!」

 指が開く。

 ヴァネッサの身体が自由になる。


「……ロイ?」


 暗闇の中。

 ヴァネッサの声。

 それを聞いた瞬間。

 ロイはようやく息をした。


「遅くなりました」


 右。

 剣。

 握ったリングを添える。

 滑らせる。

 キィン!


 左。

 一枚投げる。

 敵が避ける。

 その先へ、柱から跳ね返ったリング。

「ぐっ!」


 背後。

 振り返らない。

 手を伸ばす。

 パシッ。

 戻ってきたリングを掴む。

 投げる。


 右。

 左。

 背後。

 上。


 一枚が床へ落ちた。

 カラン。


 ロイは走る。

 拾わない。

 足を差し込む。

 蹴る。

 リングが跳ねる。

 膝。

 腰。

 胸。

 腕を通す。

 そのまま回る。

 リングが肘から手首へ滑る。

 掴む。

 投げる。

 止まらない。


 ヴァネッサは息を呑んだ。

 知っている。

 この動きを。


 足でリングを跳ね上げるところも。

 腕へ通すところも。

 身体を回しながら次を投げるところも。

 背後から来たリングを、見もしないで受け取るところも。


 何度も。

 何度も見た。

 舞台の上で。

 子供たちを笑わせながら。


 同じだった。

 なのに。

 まるで違う。


 ロイは笑っていない。

 客席へ手を振らない。

 大きく見せるための動きもしない。


 そして。

 一度も――外さない。


 一枚。

 二枚。

 三枚。

 四枚。


 リングだけを追ってはいけない。

 右へ飛んだリングが、右から戻ってくるとは限らない。


 敵が弾く。

 壁に当たる。

 柱を打つ。

 床を跳ねる。


 そのすべてを。

 ロイは次の軌道へ変えていく。


 投げる。

 受ける。

 流す。

 蹴る。

 回る。

 また投げる。


 これは。

 剣術ではない。

 投擲術でさえない。

 ヴァネッサは知っている。


 これは――。

 ジャグリングだ。


 その瞬間。

 胸の奥で、もう一つのことに気づいた。


 あの人は。

 あの頃から。

 失敗していたのではなかった。

 自分たちのために。

 失敗してくれていた。


 あの日。

 自分はロイを応援しているつもりだった。

 違った。

 勇気をもらっていたのは、自分の方だった。


 最後の男が、ヴァネッサを引き寄せた。

 短剣が喉元へ突きつけられる。


「動くな!」

 ロイが止まった。

「リングを捨てろ!」


 一枚。

 カラン。

 二枚。

 カラン。

 三枚。

 カラン。


「全部だ!」

 最後の一枚。

 ロイが手を開いた。

 カラン。


 静寂。

 男が笑う。

「そうだ。それでいい」


 ヴァネッサは床を見た。

 落ちたリング。

 その光景に。

 遠い日の記憶が重なる。


 一回目。

 落ちた。

 二回目。

 また落ちた。


 あの日。

 小さな自分はどうした?

 決まっている。

 ヴァネッサは息を吸った。


「ロイ!」

 男が振り返る。

 ヴァネッサは笑った。

 昔と同じように。

 伯爵令嬢らしさなんて忘れて。

 腹の底から。


「今度こそ頑張ってー!」


 ロイの目が見開かれた。

 一瞬。

 そして。

 笑った。


「……はい」


 走る。

「動くな!」

 男が叫ぶ。

 ロイは止まらない。


 床のリングへ追いつく。

 拾わない。

 右足を差し込む。

 蹴る。

 リングが跳ね上がる。

 膝。

 腰。

 胸。


 ロイは見ない。

 右手だけを伸ばす。

 パシッ。

 掴む。

 身体を回す。

 投げる。


 キィン!

 短剣が逸れた。

 ロイはもう走っている。


 男がヴァネッサを突き飛ばす。

 逃げる。


 リングがその横を抜けた。

 外れた。

 男が笑う。


 ヴァネッサも……笑った。

 彼女は知っている。

 ロイは絶対に――外さない。


 カァーン!

 リングが柱を打つ。

 跳ねる。

 男が振り返る。

 遅い。


「ぐっ!」

 手首。

 短剣が落ちる。


 そして。

 倒れ込んできたヴァネッサを――。

 ロイが抱き留めた。


 同時に左手を伸ばす。

 パシッ。

 戻ってきたリングを受け取る。


 ヴァネッサを立たせる。

 リングを右手へ移す。

 投げる。

 男の足元へ。

 逃げ道が消える。

 ロイが間合いへ入った。

 一撃。

 男が崩れ落ちた。


 静寂。


 投げたリングが床を転がり、ロイの足元へ戻ってくる。

 足先を入れる。

 軽く蹴る。

 跳ね上がったリングを掴む。


 一枚。

 残りの三枚は、床に落ちたままだった。

 ロイは今度こそ、それを拾った。

 二枚。

 三枚。

 四枚。

 すべて戻った。


 そこでようやく。

 ロイは振り返った。


 ヴァネッサがいる。

 泣いている。

 それでも。

 笑っている。

 あの頃と同じ目で。


 ロイはリングを指に掛けた。

 彼女の前へ歩いていく。


「お待たせしました」

「……遅いわよ」

「すみません」

「私がどれだけ待ったと思っているの」

「十三年?」

「そこまで分かってるなら、もっと謝りなさい!」

「申し訳ありません」

「それから!」

「はい」


 ヴァネッサは涙を拭った。

 怖くないわけではない。

 断られるのは、何度経験したって怖い。

 好きだと伝える瞬間は、いつだって胸が震える。


 それでも。

 好きになったのなら。

 好きと言う。

 失敗したなら。

 もう一度。


 それが、ヴァネッサ・アルディーニという女だった。


「ロイ」

「はい」

「あなたが好きです」


 三度目。

 ヴァネッサは、リングを投げた。

 今度こそは――落とさない。

 ロイが受け取った。


「はい」

 そして、笑った。

「俺もです」


 ◇


 数か月後。


「ロイ! 今度こそ頑張ってー!」

 天幕いっぱいに、女性の声が響いた。


 カラン。

 二度目のリングを落としたロイが、思わず吹き出す。


「頑張れー!」

「次はできるよー!」

 子供たちも負けじと叫ぶ。


 ロイが客席を見る。

 最前列。

 ヴァネッサが両手を口に当てていた。


「もう一回ー!」


 伯爵令嬢らしからぬ大声だった。

 けれど。

 ヴァネッサは、昔からそういう女だった。


 好きなら。

 好きと言う。

 応援したいなら。

 声を上げる。


 誰にどう見られるかより、自分の心に嘘をつかない。


 そのせいで。

 ずいぶん妙な呼び名までつけられてしまったけれど。


 三度目。


 八枚のリングが宙を舞う。

 右。

 左。

 高く。

 低く。

 一枚を首へ。

 腕へ滑らせる。

 身体を回す。


 落ちかけたリングを足先で跳ね上げる。

 背後から上がったそれを、見ないまま掴む。


 ヴァネッサは笑った。

 今なら知っている。


 同じ動きで。

 この人は戦う。


 けれど舞台の上では。

 誰も傷つけない。


 ただ。

 笑って。

 驚いて。

 手に汗を握って。

 最後には。

 興奮と感動を持って帰ってもらう。


 それが。

 リングジャグラー、ロイの仕事だった。


 八枚目が高く舞う。

 落ちてくる。

 ロイは見上げない。

 右手だけを伸ばす。

 パシッ。

 受け取った。


 大歓声。

 ヴァネッサは誰より大きな拍手を送った。

 舞台の上から、ロイが笑う。

 ヴァネッサも笑い返す。


 ――リングジャグラーは、色恋令嬢には騙されない。

 ただし。

 彼女が色恋令嬢だという噂には、ずいぶん長いこと騙されていたらしい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


ロイとヴァネッサのその後も読んでみたい方は、感想で教えていただけると嬉しいです。反響があれば、続編を書きたいと思います。

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