リングジャグラーは色恋令嬢に騙されない
「ロイ! 今度こそ頑張ってー!」
子供たちの声が、天幕いっぱいに響いた。
舞台の中央で、ロイは困ったように笑う。
二度目の挑戦だった。
一度目は、八枚目を落とした。
もちろん、わざとだ。
完璧な芸は、人を感心させる。
けれど、ときには失敗した方が、人の心を動かす。
「もう一回!」
「次はできるよー!」
だからロイは、もう一度リングを投げた。
一枚。
二枚。
三枚。
色鮮やかな輪が宙を舞う。
右手で受ける。
投げる。
左から落ちてきた一枚を首へ通す。
両手が空く。
その一瞬で二枚を受け、身体を回す。
首のリングが肩から腕へ滑った。
肘。
手首。
指先。
そのまま放つ。
二枚のリングが頭上で交差する。
「おおっ!」
六枚目。
七枚目。
そして八枚目。
床すれすれまで落ちたリングへ、ロイが足先を差し込む。
蹴る。
リングが跳ね上がる。
膝。
腰。
胸。
ロイは見ない。
背後から上がってきたリングへ、右手だけを伸ばす。
パシッ。
掴む。
八つの輪が舞う。
右。
左。
高く。
低く。
交差する。
離れる。
また戻ってくる。
ロイには、そのすべての軌道が見えている。
だから――。
今度も。
「あっ」
カラン。
最後の一枚が落ちた。
「ああああーっ!」
「ロイー!」
「頑張ってー!」
ロイは頭を抱えた。
もちろん……演出だ。
客席を見る。
拳を握る子。
椅子から立ち上がる子。
祈るように両手を組んでいる子。
そして最前列には――。
誰より必死に拍手している、赤いドレスの女がいた。
「もう一回! 次は絶対できるわ!」
ずいぶん本気で応援してくれるものだ。
ロイは笑った。
誰かを応援する喜び。
失敗しても、もう一度挑戦する勇気。
そして最後に成功する喜び。
サーカスは、エンターテイメントだ。
難しいことなんて考えなくていい。
笑って。
驚いて。
手に汗を握って。
最後には――。
興奮と感動を持って帰ってもらえれば、それでいい。
三度目。
今度は――決める。
八枚を投げる。
回る。
右腕。
左腕。
両手。
首。
七枚を受ける。
最後の一枚が落ちてくる。
ロイは見上げない。
右手だけを伸ばした。
パシッ。
掴む。
一瞬の静寂。
「やったああああ!」
天幕が揺れた。
子供たちが飛び跳ねる。
大人たちも拍手を送る。
そして。
あの赤いドレスの女も、子供みたいに笑っていた。
ヴァネッサ・アルディーニ伯爵令嬢。
社交界では、別の名前で知られている。
――色恋令嬢ヴァネッサ。
◇
「相変わらず二回落とすのね」
公演後。
裏手でリングを木箱へ収めていたロイは、その声に振り返った。
先ほどの赤いドレス。
「……伯爵令嬢様が、こんなところに何の御用でしょう」
「あなたに会いに来たの」
「それで?」
「好きです」
「帰ってください」
「早くない!?」
ヴァネッサが目を丸くした。
「私、まだ三言しか喋っていないわ!」
「三言目で告白する人の話を、これ以上聞く必要があります?」
「本気なのに」
「皆さんにも、そう言ってるんでしょう?」
その瞬間。
ほんのわずかに、ヴァネッサの表情が曇った。
けれど、すぐに消えた。
「失礼ね。好きでもない殿方に好きなんて言ったこと、一度もないわ」
「なるほど」
ロイは頷いた。
「好きになった人数が多いだけ、と」
「そういうことですわ」
「もっと悪い気がするんですが」
「どうして!?」
思わず笑った。
噂に聞いていた女とは、どうにも印象が違う。
だが。
それで警戒を解くほど、ロイも素直ではなかった。
侯爵家の次男。
近衛騎士。
若い商会主。
宮廷楽師。
ヴァネッサが想いを寄せた男は、一人や二人ではない。
『今度は誰を狙っているのかしら』
『また殿方が変わったそうよ』
社交界では、そんな噂が囁かれている。
男を次々と誘惑する伯爵令嬢。
そして今度は。
自分。
「ともかく、俺は結構です」
「では、また来ます」
「話聞いてました?」
ヴァネッサは上機嫌で去っていった。
ロイは、その背中を見送る。
「……色恋令嬢、ねえ」
どうやら。
次の標的に選ばれたらしい。
◇
翌日。
「好きです」
「お断りします」
翌々日。
「今日も来ました」
「…………」
「皆さんでどうぞ」
団員全員に菓子を持ってきた。
「ありがとうございます、ヴァネッサ様!」
新人の少女が嬉しそうに箱を受け取る。
「昨日のお菓子も、とても美味しかったです」
「本当? よかった。甘すぎないか心配だったの」
「動物係のおじいちゃんなんて、三つも食べてましたよ」
「まあ。それなら今日は多めに持ってきて正解だったわね」
ヴァネッサは笑った。
ロイだけに特別なものを渡すわけでもない。
裏方の老人にも。
新人の少女にも。
動物の世話係にも。
同じように笑いかける。
それに、公演前には決して顔を出さない。
練習中にも声をかけない。
いつも公演が終わるまで待ってから、こうしてやって来る。
「じゃあ、また明日」
ヴァネッサが去っていく。
その背中が見えなくなったところで、隣にいた団員が口を開いた。
「なあ、ロイ」
「なんだ」
「あの人、本当に色恋令嬢なのか?」
「……なんで俺に聞くんだよ」
「いや。もっとこう……男に媚びたり、お前にだけ高いものを持ってきたりする女かと思ってた」
「噂じゃ、そういう女なんだろ」
「噂じゃ、な」
団員は菓子を一つ摘まんだ。
「実際に話すと、全然違うじゃないか」
「…………」
「普通にいい人だぞ」
「菓子で買収されてないか?」
「美味いからな」
「されてるじゃないか」
次の日も。
その次の日も。
ヴァネッサは公演を見て、差し入れを置いて帰っていく。
いつしかロイは、終演後になると赤いドレスを探すようになっていた。
別に、待っているわけではない。
ただ。
噂に聞いていた女と、目の前の彼女が、あまりにも違うから。
気になっただけだ。
男を弄ぶ女。
次々と恋人を変える女。
噂の中のヴァネッサと。
目の前のヴァネッサが。
どうにも重ならない。
そして何より――。
ヴァネッサは、毎回ロイの公演を見ていた。
いつも同じ場所。
最前列。
最後の演目になると、少しだけ身を乗り出す。
一度目。
ロイがリングを落とす。
二度目。
また落とす。
三度目。
成功。
誰より嬉しそうに拍手する。
「そんなに、あの演目が好きですか?」
ある日の終演後。
ロイはとうとう尋ねた。
「ええ」
「毎回同じですよ」
「知っています」
「俺が二回落とすところまで?」
「もちろん」
ヴァネッサは笑った。
どこか懐かしいものを見るような笑顔だった。
「三回目は、必ず成功するもの」
ロイは手を止めた。
妙な言い方だった。
「まるで、昔から見てるみたいな言い方ですね」
「さあ、どうでしょう」
ヴァネッサは答えなかった。
けれど。
その横顔だけが、なぜかロイの記憶に残った。
◇
事件が起きたのは、王都での夜公演を終えた帰りだった。
人気のない路地。
ロイは足を止めた。
三人。
前方に二人。
背後に一人。
全員、剣を持っている。
「金ならありませんよ」
「曲芸師に用はない」
男が言った。
「アルディーニ伯爵令嬢はどこだ」
ロイの顔から、笑みが消えた。
自分でも驚くほど、自然に。
「知りませんね」
「毎日お前のところへ通っているそうじゃないか」
剣が抜かれる。
ロイは腰の革紐を外した。
四枚の戦闘用リング。
舞台用より小さい。
厚く、重い。
剣を逸らす。
手を打つ。
足を止める。
制圧と防衛に特化したリングだった。
「そんな物で戦うつもりか?」
ロイは答えなかった。
一枚目。
投げる。
正面の男が剣を振り下ろす。
キィン!
リングが刃の腹へ斜めに当たった。
受け止めるかわりに逸らす。
ロイはもう、その脇を走り抜けていた。
二枚目。
背後へ。
「ぐっ!」
振り返らない。
手首。
短剣が落ちる。
三枚目。
低く。
男が跳んだ。
避けた。
そう思ったのだろう。
その着地点へ――。
一枚目が戻ってくる。
「がっ!」
足首。
男が崩れる。
ロイは走る。
戻ってきた二枚目へ右手を伸ばす。
パシッ。
受ける。
そのまま投げる。
右から剣。
近い。
左手のリングを立てる。
刃を受けるのではない。
剣の腹へ、斜めに添える。
キィン!
火花。
剣先が肩口を抜ける。
身体を回す。
リングが腕を滑る。
肘。
手首。
指先。
そのまま放つ。
「ぐあっ!」
手首。
剣が落ちる。
だが同時に、一枚のリングが石畳へ落ちた。
カラン。
「武器を落としたぞ!」
ロイは拾わない。
走る。
リングも転がる。
追いつく。
足先を縁へ差し込む。
蹴る。
跳ね上がる。
膝。
腰。
胸。
ロイは見ない。
右手だけを伸ばす。
パシッ。
掴む。
投げる。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
舞う。
舞台と同じだった。
足で上げる。
腕へ通す。
身体を回す。
受ける。
投げる。
戻ってくる。
また受ける。
違うのは――。
一枚も外さない。
手首。
膝。
剣。
肩。
逃げ道。
敵が避ける。
そこへ次が飛ぶ。
しゃがむ。
戻ってきたリングが待っている。
剣で弾く。
変わった軌道すら、次の一投へ繋げる。
リングだけを見ていては、ロイとは戦えない。
一枚を避ければ、次がいる。
一枚を弾けば、その先から戻ってくる。
「化け物……」
最後の男が後ずさる。
「曲芸師風情が……!」
ロイは無表情で、戻ってきたリングを受けた。
「曲芸なら、外していいんですけど」
一枚を指に掛ける。
「こっちは『本業』ですから。絶対に――」
放つ。
「外しません」
キィン!
男の剣が手から離れた。
ロイは落ちる剣を見もしなかった。
戻ってきた四枚のリングを重ねる。
そのまま走り出す。
嫌な予感がしていた。
◇
遅かった。
ヴァネッサは攫われていた。
敵国の諜報員。
目的は、国境防衛に関わるアルディーニ伯爵への脅迫。
「くそっ」
胸の奥が、妙に冷たかった。
どうしてこんなに焦っているのか。
考えるまでもない。
ヴァネッサがいない。
それが――嫌だった。
「待ってください」
伯爵家の侍女が呼び止めた。
「どこへ?」
「決まってるでしょう」
ロイは答えた。
「あの人を取り返します」
侍女はしばらくロイを見つめていた。
「ロイ様は、お嬢様をどう思っておられますか?」
「今それを聞きますか?」
「今だからこそです」
ロイは答えなかった。
言葉にすれば、認めなければならなくなる。
そんな気がした。
「お嬢様が『色恋令嬢』と呼ばれていることはご存じでしょう」
「……ええ」
「では、なぜそう呼ばれるようになったのかは?」
「男を取っ替え引っ替えしてるからじゃないんですか」
「違います」
迷いのない声だった。
「お嬢様は、一度も二人の殿方を同時に想ったことはありません」
ロイが眉を寄せる。
「好きになれば、ご自分から想いを告げます。断られれば泣きます」
「……」
「そして、いつかまた誰かを好きになれば――また想いを告げるのです」
それだけ。
ただ、それだけだった。
けれど貴族社会では、令嬢は殿方から求められるもの。
自分から何度も恋をするヴァネッサは、それだけで噂になった。
好きなら。
好きと言う。
彼女はただ、自分の心に嘘をつかなかった。
「どうして……」
ロイは呟いた。
「どうしてあの人は、そこまで」
「幼いころ、サーカスへ連れて行っていただいたそうです」
リングに触れていたロイの指が止まった。
「そこで、一人の少年を見たと」
一度。
リングを落とした。
二度。
また落とした。
それでも。
三度目。
成功した。
「お嬢様は、あれが演出だとはお気づきにならなかったそうです」
ロイの脳裏に、遠い記憶が蘇った。
最前列。
上等な服を着た、小さな女の子。
椅子から立ち上がって。
伯爵令嬢らしさなんて全部忘れて。
『ロイ! 今度こそ頑張ってー!』
叫んでいた。
あの声。
どこかで聞いたと思っていた。
「その日から、お嬢様は、失敗することを以前ほど怖がらなくなったそうです」
侍女が微笑んだ。
「失敗したなら、もう一度。二度失敗したなら、三度目に挑戦すればいい」
「……」
「恋も、同じだったのでしょう」
ロイは目を閉じた。
振られた。
泣いた。
それでも、また誰かを好きになった。
好きになったなら。
自分から伝えた。
それだけなのに。
――色恋令嬢。
そう呼ばれた。
何が、男を弄ぶ女だ。
何が、次の標的だ。
彼女は一度だって、人を弄んでいない。
いつだって本気だった。
「お嬢様は今でも、その曲芸師を覚えておられます」
侍女が言った。
「ロイ様」
「……なんです」
「お嬢様は、あなたに何度想いを伝えましたか?」
ロイは目を閉じた。
一度目。
『好きです』
『帰ってください』
二度目。
『好きです』
『お断りします』
二度。
二度も。
彼女はリングを投げた。
そして自分は。
二度とも受け取らなかった。
胸の奥で、すべてが繋がった。
失敗しても。
もう一度。
二度失敗したなら。
三度目。
「……馬鹿だな、俺」
ロイは笑った。
彼女が三度目を投げてくれるのを待つ必要なんてない。
今度は――。
自分から拾いに行く。
◇
「行くのか?」
噂でしかヴァネッサを知らない団員が言った。
「相手は敵国の諜報員だぞ」
「知ってる」
「それに、あの女は色恋令嬢だろ。助けたところで、お前だって――」
「ああ、騙されてたよ」
「だったら……」
「あの人にじゃない!」
ロイの顔から笑みが消えた。
「――あの人が、男を弄ぶ女だって噂に……な!」
四枚のリングを腰へ下げる。
歩き出す。
「おい!」
「二回も、受け取らなかったんだ!」
「何がだよ!」
ロイは振り返らなかった。
「だから今度は――俺から行く」
◇
ヴァネッサが監禁されていたのは、王都外れの廃倉庫だった。
見張り。
六人。
ロイは正面から入った。
「何者だ!」
一枚目。
投げる。
ランプ。
ガシャン!
倉庫の殆どが闇に呑まれる。
二枚目。
「ぐあっ!」
手首。
剣が落ちる。
三枚目。
柱。
跳ねる。
死角から膝。
男が崩れる。
ロイは走る。
剣が来る。
止まらない。
左手のリングを立てる。
キィン!
受けずに流す。
剣が肩の横を抜ける。
身体を回す。
リングが腕を滑る。
肘。
手首。
指。
投げる。
四枚目。
ヴァネッサの横を抜ける。
その背後。
彼女を掴んでいた男の手へ。
ゴッ!
「ぐあっ!」
指が開く。
ヴァネッサの身体が自由になる。
「……ロイ?」
暗闇の中。
ヴァネッサの声。
それを聞いた瞬間。
ロイはようやく息をした。
「遅くなりました」
右。
剣。
握ったリングを添える。
滑らせる。
キィン!
左。
一枚投げる。
敵が避ける。
その先へ、柱から跳ね返ったリング。
「ぐっ!」
背後。
振り返らない。
手を伸ばす。
パシッ。
戻ってきたリングを掴む。
投げる。
右。
左。
背後。
上。
一枚が床へ落ちた。
カラン。
ロイは走る。
拾わない。
足を差し込む。
蹴る。
リングが跳ねる。
膝。
腰。
胸。
腕を通す。
そのまま回る。
リングが肘から手首へ滑る。
掴む。
投げる。
止まらない。
ヴァネッサは息を呑んだ。
知っている。
この動きを。
足でリングを跳ね上げるところも。
腕へ通すところも。
身体を回しながら次を投げるところも。
背後から来たリングを、見もしないで受け取るところも。
何度も。
何度も見た。
舞台の上で。
子供たちを笑わせながら。
同じだった。
なのに。
まるで違う。
ロイは笑っていない。
客席へ手を振らない。
大きく見せるための動きもしない。
そして。
一度も――外さない。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚。
リングだけを追ってはいけない。
右へ飛んだリングが、右から戻ってくるとは限らない。
敵が弾く。
壁に当たる。
柱を打つ。
床を跳ねる。
そのすべてを。
ロイは次の軌道へ変えていく。
投げる。
受ける。
流す。
蹴る。
回る。
また投げる。
これは。
剣術ではない。
投擲術でさえない。
ヴァネッサは知っている。
これは――。
ジャグリングだ。
その瞬間。
胸の奥で、もう一つのことに気づいた。
あの人は。
あの頃から。
失敗していたのではなかった。
自分たちのために。
失敗してくれていた。
あの日。
自分はロイを応援しているつもりだった。
違った。
勇気をもらっていたのは、自分の方だった。
最後の男が、ヴァネッサを引き寄せた。
短剣が喉元へ突きつけられる。
「動くな!」
ロイが止まった。
「リングを捨てろ!」
一枚。
カラン。
二枚。
カラン。
三枚。
カラン。
「全部だ!」
最後の一枚。
ロイが手を開いた。
カラン。
静寂。
男が笑う。
「そうだ。それでいい」
ヴァネッサは床を見た。
落ちたリング。
その光景に。
遠い日の記憶が重なる。
一回目。
落ちた。
二回目。
また落ちた。
あの日。
小さな自分はどうした?
決まっている。
ヴァネッサは息を吸った。
「ロイ!」
男が振り返る。
ヴァネッサは笑った。
昔と同じように。
伯爵令嬢らしさなんて忘れて。
腹の底から。
「今度こそ頑張ってー!」
ロイの目が見開かれた。
一瞬。
そして。
笑った。
「……はい」
走る。
「動くな!」
男が叫ぶ。
ロイは止まらない。
床のリングへ追いつく。
拾わない。
右足を差し込む。
蹴る。
リングが跳ね上がる。
膝。
腰。
胸。
ロイは見ない。
右手だけを伸ばす。
パシッ。
掴む。
身体を回す。
投げる。
キィン!
短剣が逸れた。
ロイはもう走っている。
男がヴァネッサを突き飛ばす。
逃げる。
リングがその横を抜けた。
外れた。
男が笑う。
ヴァネッサも……笑った。
彼女は知っている。
ロイは絶対に――外さない。
カァーン!
リングが柱を打つ。
跳ねる。
男が振り返る。
遅い。
「ぐっ!」
手首。
短剣が落ちる。
そして。
倒れ込んできたヴァネッサを――。
ロイが抱き留めた。
同時に左手を伸ばす。
パシッ。
戻ってきたリングを受け取る。
ヴァネッサを立たせる。
リングを右手へ移す。
投げる。
男の足元へ。
逃げ道が消える。
ロイが間合いへ入った。
一撃。
男が崩れ落ちた。
静寂。
投げたリングが床を転がり、ロイの足元へ戻ってくる。
足先を入れる。
軽く蹴る。
跳ね上がったリングを掴む。
一枚。
残りの三枚は、床に落ちたままだった。
ロイは今度こそ、それを拾った。
二枚。
三枚。
四枚。
すべて戻った。
そこでようやく。
ロイは振り返った。
ヴァネッサがいる。
泣いている。
それでも。
笑っている。
あの頃と同じ目で。
ロイはリングを指に掛けた。
彼女の前へ歩いていく。
「お待たせしました」
「……遅いわよ」
「すみません」
「私がどれだけ待ったと思っているの」
「十三年?」
「そこまで分かってるなら、もっと謝りなさい!」
「申し訳ありません」
「それから!」
「はい」
ヴァネッサは涙を拭った。
怖くないわけではない。
断られるのは、何度経験したって怖い。
好きだと伝える瞬間は、いつだって胸が震える。
それでも。
好きになったのなら。
好きと言う。
失敗したなら。
もう一度。
それが、ヴァネッサ・アルディーニという女だった。
「ロイ」
「はい」
「あなたが好きです」
三度目。
ヴァネッサは、リングを投げた。
今度こそは――落とさない。
ロイが受け取った。
「はい」
そして、笑った。
「俺もです」
◇
数か月後。
「ロイ! 今度こそ頑張ってー!」
天幕いっぱいに、女性の声が響いた。
カラン。
二度目のリングを落としたロイが、思わず吹き出す。
「頑張れー!」
「次はできるよー!」
子供たちも負けじと叫ぶ。
ロイが客席を見る。
最前列。
ヴァネッサが両手を口に当てていた。
「もう一回ー!」
伯爵令嬢らしからぬ大声だった。
けれど。
ヴァネッサは、昔からそういう女だった。
好きなら。
好きと言う。
応援したいなら。
声を上げる。
誰にどう見られるかより、自分の心に嘘をつかない。
そのせいで。
ずいぶん妙な呼び名までつけられてしまったけれど。
三度目。
八枚のリングが宙を舞う。
右。
左。
高く。
低く。
一枚を首へ。
腕へ滑らせる。
身体を回す。
落ちかけたリングを足先で跳ね上げる。
背後から上がったそれを、見ないまま掴む。
ヴァネッサは笑った。
今なら知っている。
同じ動きで。
この人は戦う。
けれど舞台の上では。
誰も傷つけない。
ただ。
笑って。
驚いて。
手に汗を握って。
最後には。
興奮と感動を持って帰ってもらう。
それが。
リングジャグラー、ロイの仕事だった。
八枚目が高く舞う。
落ちてくる。
ロイは見上げない。
右手だけを伸ばす。
パシッ。
受け取った。
大歓声。
ヴァネッサは誰より大きな拍手を送った。
舞台の上から、ロイが笑う。
ヴァネッサも笑い返す。
――リングジャグラーは、色恋令嬢には騙されない。
ただし。
彼女が色恋令嬢だという噂には、ずいぶん長いこと騙されていたらしい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ロイとヴァネッサのその後も読んでみたい方は、感想で教えていただけると嬉しいです。反響があれば、続編を書きたいと思います。




