第八章 神を裁く法
《神の罪を問う者》
虹浜沖に現れた銀青の龍神。その姿はSNSを介して世界中に拡散され、現代文明の理性を深く揺さぶった。
気象衛星は異常な大気循環を観測し、地磁気は一時的な異常を記録、各国政府は「未確認存在(UEE:Unknown Entity Emergence)」として非常事態宣言を発令した。
だが、騒乱の裏で密かに動いていたのは、国際司法機関だった。
国連主導の「超常存在に関する臨時審問会議」が設立され、会場は非公開の中東某国の軍事シェルター内部。
極秘裏に、蓮司と梓は龍神の代理人として召喚されていた。「まさか、神を法で裁く日が来るとは……」
蓮司は冷笑混じりに呟く。
対する梓は、目を鋭く光らせた。
「――裁くのではない。理解するのよ。法とは、本来そのためにある」
審問会議は厳粛に進行された。
各国の代表、宗教家、法学者、科学者、軍人。
まるで神話と現実が交差する円卓の騎士たちのようだった。
「龍神と呼ばれる存在に対し、人道的責任はあるのか」
「この存在は知性を有し、かつ自立行動しているのか」
「攻撃性の根拠はなにか。人間社会への危険は否定できるのか」
「代理人の龍ノ宮蓮、あなたの見解は?」
蓮司は一歩前へ出ると、静かに語り始めた。
「まず、前提として龍神は破壊衝動に基づいて行動していません。
目撃された現象――それは、人間側の干渉、特に九頭龍財団による封印操作が引き起こしたものです」
「つまり、責任は人間にあると?」
「ええ。そして、神という存在を、我々の都合で裁くことは――
神の名を騙り暴走した人間の傲慢を認めることにもなります」
会場は一瞬静まり返り、その後ざわめきに包まれる。
「ならば聞こう。神とは罪を犯さぬとでも?」
「龍神は、無実の民を傷つけたのでは?」
蓮司が口を閉じた瞬間、梓が歩み出る。
「では問います――人を殺した銃は、銃そのものが罪を負うのでしょうか?」
その一言に、沈黙が広がった。
「龍神は意志を持ってはいる。でも、それを利用しようとしたのは誰か。力を崇め、都合よく使い、暴走させたのは人です。――ならば、問われるべきは神ではなく、人の欲ではないでしょうか」
梓の声が会議場の全員を震わせた。
その目は、ただの弁護士のものではなかった。
理性と情熱を両手に持つ者の、まなざしだった。
審問会議は続く。
だがこの日、「神を裁く法廷」が歴史に刻まれたのは間違いなかった。
《九頭龍玄明、降臨》
世界各国の代表が集う「神の審問会議」の熱が冷めやらぬ中、会場の照明が一瞬だけ落ちた。
静かに鳴り響く電子音。
次いで、警備網をあざ笑うかのように――ひとりの男が壇上に現れた。
黒一色の三つ揃いスーツに、銀縁の眼鏡。
和柄の裏地がちらつく身のこなしに、圧倒的な威圧感を放つ男――
九頭龍玄明。
九頭龍財団の総帥にして、龍神を封じた血族の末裔。
「お静かに――これは、神の代理としての声明にございます」
その声は、波紋のように広がり、全ての会話と思考を止めた。
玄明はあくまで穏やかに、笑みを浮かべながら語る。
「神を、法で裁く? それは面白い……。まるで火に対して、温度の責任を問うようなものだ」
各国代表たちは顔を見合わせ、警備隊は即座に動こうとしたが、
彼が袖から出したのは、特異存在の継承者としての国際認定書だった。
「我々九頭龍の一族は、龍神という存在を知性として扱い、管理する義務を代々負っています。そして現在、この存在は収容下にある――そう、我が財団によって」
その言葉に、会議場は凍りつく。
「蓮司くん、七瀬弁護士――あなた方の理想は素晴らしい。だが世界は理想で回ってはいない。秩序とは、力によって守られるものだ。そしてその力を、私は持っている」
梓が立ち上がる。
「あなたが言う秩序とは、支配のことね」
「違いますよ、七瀬弁護士。選別です」
玄明の声は冷たく澄んでいた。
蓮司が拳を握る。
龍神の気配が、彼の背後でわずかに脈動した。
「お前が……龍神を道具として扱っている元凶か」
「道具? いいえ、器です」
玄明のメガネが、青白い光を反射する。
「器には、魂を注がねばならぬ。――そのためには、不純物を排除しなければならない」
その言葉と同時に、会議場の空間が歪んだ。
次元障壁。
九頭龍財団が極秘裏に開発した、封神結界の発動だった。
緊急信号が走る。各国代表の避難誘導が始まる中、
蓮司と梓は結界の内側に取り残される。
そして、彼らの目の前に――
龍神の複製体が顕現した。
「さあ――神を使いこなす者と、神と共に歩む者。どちらがこの世界を導くにふさわしいか。裁判の続きを、実力で決めましょうか」
冷笑の中、九頭龍玄明が腕を振り上げた。
《最後の審理》
封神結界に閉じ込められた蓮司と梓。
その周囲には、異界の気配を漂わせた龍神の複製体が蠢く。
九頭龍玄明の狙いは明確だった。
神を制御する者こそが、世界の支配者にふさわしい――。
その理屈を力で証明するための、最後の「公開審理」だ。
「裁かれるのは、私か――それとも、神そのものか」
玄明はあくまで微笑みを崩さない。
「いいえ」
蓮司が応える。
「裁かれるのは、人の傲慢だ」
龍神が蓮司の背後で静かに姿を現す。
複製体との違いは一目瞭然だった。
そこに宿るのは、恐怖ではなく、慈悲と理知――。
力を破壊ではなく、命の守護に用いようとする意志だった。
「龍神よ……」
蓮司の声に、神が頷くように瞳を細める。
「この男の裁きを行いたい。だが法が届かぬなら、我らの言葉を持って真実を暴く」
ここに、最後の審理が始まった。
証言台に立つのは、蓮司と龍神の共鳴によって呼び起こされた過去の魂。
かつて龍神に封じられた者、九頭龍家の先祖、そして封印に関わった巫女の影――
すべてが思念体として現れ、語り始める。
「九頭龍の始祖は、龍神の力を世界を救う鍵として残そうとした。 だが、力に魅入られた者が現れた……お前の先祖だ」
「我々が恐れたのは、神ではない。神を使って人を裁く者だった」
玄明の表情がわずかに揺らぐ。
「そんなはずはない……私は選ばれた血だ……この理想は、間違ってなど……!」
彼の言葉を遮るように、龍神が低く鳴いた。
その声は“否”の音だった。
梓が一歩前へ出る。
「あなたは、自分の正義のために、人を操り、命を軽んじた。けれど――法とは、人を生かすための道よ。神であれ、人であれ、それを歪めた者には、必ず裁きが下る」
静かに手錠が鳴る音。
そこに立っていたのは、国際特異存在対策局(GSP)の特命捜査官だった。
「九頭龍玄明。あなたを、人道的災害の首謀者として拘束します」
結界が解かれ、空に再び光が差し込む。
蓮司の前で、龍神が静かに姿を消した。
それは、使命を終えた神が、人間の意志を信じて退いた証だった。
こうして、「最後の審理」は終わりを告げる。
だが物語はまだ続く。
神と法、記憶と意思が交差する世界で――
人は、自らの正義とどう向き合うのか。
《すべての記憶の向こう側へ》
九頭龍玄明が連行された直後、虹浜の海上に異変が起きた。
まるで天と地の記憶が共鳴するように、空に七色の光の環が広がる。
それは「記憶の門」――過去・現在・未来をつなぐ、神と人の交信の最終段階だった。
蓮司の胸が熱を帯びる。
視界に映るのは、自分の知らない“記憶”の断片。
幼き日の母の手、失われた兄の声、そして――
かつて出会ったはずの、名も知らぬ少女との約束。
「これ……全部、俺の中にあったのか……」
その瞬間、龍神の意識が再び彼と重なる。
「記憶とは、ただの記録ではない。それは選択の積み重ね……過去を受け入れることで、人は未来を拓く」
梓もまた、光に包まれながらひとつの記憶を見ていた。
亡き兄――七瀬 岳人。
彼が最期に残した言葉と、彼女に託した“正義”。
「お前は、誰かを救え」
「法は剣じゃない。盾になれ」
その言葉が、梓の涙腺を決壊させた。
蓮司と梓の記憶が交差し、二人の間にあった見えない境界が、静かに溶けていく。
そこにあったのは、悲しみではなく――共鳴する意志だった。
「神であっても、すべてを知ることはできない。だからこそ、人は記憶を分かち合い、生きていく」
龍神の声は、優しく、そして穏やかだった。
やがて空の光輪が収束し、最後に一つの虹が架かる。
その虹の下、蓮司はそっと手を差し出した。
「行こう、梓。ここからが、本当の物語だ」
「ええ。私たちの、これからの物語を――」
虹は、過去と未来をつなぐ橋。
そこにはもう、絶望も封印もなかった。
ただ、希望と選択の風景が広がっていた。
《新たなる契約》
虹が消えたその瞬間――
世界に静寂が訪れた。
まるで神と人の間で、長き眠りが正式に終わりを告げたようだった。
虹浜の浜辺に立つ蓮司と梓。
彼らの背後には、変わり果てた街と、まだ立ち直りきれていない人々の姿があった。
けれど、確かに何かが始まりに向かって動き出している。
その予感が、二人の胸の奥を温かく照らしていた。
「終わったわけじゃない。俺たちが、これから選ばなきゃならない」
蓮司は足元の砂を見つめながら、静かに言った。
そしてその足元には、龍神の紋が残されていた。
それは、封印の名残ではなく、祝福と継承の印だった。
夜――。
二人は再び、虹浜の旧神殿跡に立つ。
龍神の意識が、最後に二人へ語りかけた。
「我は、もはやお前たちを導く者ではない。選ぶのは人――受け継ぐのは、意志」
蓮司は頷き、そっと掌を差し出す。
そこに浮かび上がったのは、龍神の力の核心――契約の勾玉。
「もう、力に振り回されたくない。だが、この力を必要とする声があるなら――
俺は、使い道を選び直す」
梓もまた、亡き兄の形見のピアスに触れながら、強く言った。
「法も記憶も力も、人が使うもの。なら、私たちが正しく在り続けることで、この世界を守る契約に変えてみせる」
その瞬間――
契約の光がふたりを包み、勾玉は静かに彼らの胸の奥へと溶け込んだ。
新たな契約が結ばれた。
それは、かつて神に託された世界を、
いま人間の手で引き継ぐという決意。
そして、二人は歩き出す。
誰かのために、ではなく――
自分の意志で、誰かを守るために。
それが、「龍神弁護士」としての本当の始まりだった。