第六章 記録なき裁判
《異端の法廷》
――虹浜・第三審理棟。
その一角に、外界から完全に遮断された無記録審理室があった。
壁は吸音材で覆われ、監視カメラもなければ、メモを取ることすら禁止されている。
裁判官、検察官、弁護人、陪審員、傍聴人までもが、記憶だけを頼りに進行する異例の裁判。
通称――《無記録裁判》。
「真実は記録されずとも、感じられるのか?」を問う場だった。
梓は黒いパンツスーツに身を包み、鋭い視線で開廷を見つめていた。
隣には、被告側証人として――龍ノ宮 蓮。
白のシャツと法衣を模したスーツに、胸元の龍紋がかすかに光る。
無言のまま、視線を正面に固定している。
「本法廷は、記録なき審理を許容する試験的枠組みであるが、証言の責任は極めて重い」
判事が言い放つと同時に、検察官が鋭く口火を切った。
「記憶を証拠とするなど茶番だ。主観に満ち、改ざん可能で、客観性を持たない。それが証拠と呼べるものか。まして龍神の記憶など、神話でしかない!」
ざわつく法廷。だが、梓は揺れない。
「記録こそが支配の道具であるならば、記憶は人間の最後の防衛線です。その感情、視線、空気の重さ――五感に焼き付いた記憶を、誰が否定できますか?」
蓮司が一歩前に出る。
そして静かに、語り始めた。
「――俺の中には、他者の記憶がある。
誰かが見た殺人の瞬間、誰かが叫んだ真実、誰かが流した涙の温度。それを今、ここで語ろう」
空気が変わる。
陪審員のひとりが息を呑み、もう一人は眉をひそめた。
その場にいた全員が――記憶の臨場感に包まれはじめていた。
「法が認めないなら、それでもいい」
「けれど俺は、見たんだ。兄を殺された少女の震える肩を。記録には残らなかった声を……」
蓮司の掌に、一筋の光。
それは、感情を伴った記憶を視覚化する、龍神の力――記憶可視化だった。
床に浮かぶ光の断片。
誰かが血まみれで叫ぶ。
誰かが見つめる、偽証の瞬間。
そして――映し出された、蒼馬の背中。
梓が息を呑む。
それは、この世のどこにも記録されなかった死の真実だった。
「あなた方はこれを記録できない」
「でも、あなたの心には刻まれたはずです。今、あなたの目に――耳に――焼き付いたあの光景を」
法廷が沈黙した。
「これが、私たちの記録なき真実です」
記録されなかった過去に、記憶された真実が反撃を始めた――
《審問の迷路》
法廷には、沈黙と戸惑いの気配が漂っていた。
蓮司の記憶の視覚化によって再現された光景――それは、陪審員の心を揺さぶるに十分な迫力と真実味を持っていた。
だが、次に立ち上がったのは、九頭龍財団の代理人を務める国家検察官・氷室辰臣だった。
銀縁の眼鏡が不気味に光を反射し、声は低く滑らかだった。
「……美しい幻術ですね。記憶を映像に見せるとは」
彼はあくまで落ち着いた笑みのまま続ける。
「だが、視覚化された記憶は証拠にはなり得ません。それは、あなたの主観が編んだ物語にすぎない」
「たとえば、夢で見た出来事を現実と証明できますか? あなたの記憶とやらは、その程度の信憑性なのです」
ざわ……と陪審員席が揺れる。
冷静を装いながらも、誰もが“どちらの真実を信じるか”という問いに迷っていた。
梓が立ち上がる。
「では、お尋ねします。あなたが提示している書面、記録、映像――それが改ざんされていないと、どうして言い切れるのですか?」
「記録は制度によって残される。だが制度は誰がつくった? 誰が、何のために残すものと消すものを選んだのですか?」
氷室の口元が、わずかに歪む。
笑みを保ったまま、彼は淡々と返した。
「制度とは信仰です。人々は記録を信じる。だからこそ、それが証拠たり得る。あなたのように感情に訴える弁論は、法ではなく芝居だ」
その瞬間、蓮司が立ち上がる。
「――ならば、芝居でも構わない。俺は、真実を伝える舞台としてここに立っている」
再び彼の掌に光が宿る。
第二の記憶――
今度は、蒼馬が何者かに追われ、雨の中を走る映像。
彼の目が誰かに向けられ、何かを伝えようとした、その一瞬の記憶が――
「これが俺に刻まれた最後の視線だ」
陪審員の一人が、ハッと目を見開く。
その視線に、亡き兄を見たような表情で涙を浮かべる。
「証拠にならないかもしれない。けれど、証人にはなれる。この記憶に宿る感情と視線こそが、誰にも消せない声なのだ」
法廷は静まり返る。
記録の迷路に踏み込んだ者たちが、今まさに記憶という別の光を探し始めていた――
「証拠」は失われても、「心に残る光景」は消えない。
《記憶は誰のものか》
裁判が中断されたのは、記憶可視化の第三波に入ったときだった。
蓮司の中から映し出された蒼馬の死の直前の映像が、裁判所の電磁干渉フィールドをわずかに狂わせたのだ。
休廷の間、蓮司は控室で静かに座っていた。
梓がそばに立ち、口を開く。
「……あれは、本当に蒼馬の記憶なの?」
蓮司は答えなかった。代わりに、窓の外の曇天を見つめていた。
「私たちはね、証拠を集めるために法を学んだ。でも今、証拠が“あなたの中”にしか存在しないとしたら――。その真実は、誰のもの? あなた? 蒼馬? それとも……国家?」
静かに蓮司が口を開く。
「……記憶は、誰かの魂が残した叫びだ。俺はそれを借りているだけに過ぎない。けど、それを伝えられるなら、伝えなきゃいけない」
「借りている」――その一言に、梓は一瞬だけまばたきをした。
「じゃあ、私は? 私が覚えている兄の笑い声やあの夜の空気は、 私だけのものじゃなくて、誰かに伝えるべきだった?」
蓮司はゆっくり頷いた。
「誰かが覚えてくれている限り、死者は無意味に死なない。逆に言えば、忘れた瞬間に、その人は二度目の死を迎えるんだ」
その言葉に、梓はそっと左耳のピアスを触れた。
亡き兄の形見――龍のモチーフが揺れる。
「なら……私も、伝えるわ。あの時、あの場所にいた証人として」
「兄の死に、意味を与えるために」
再開された法廷。
証言台に立った梓は、凛として語り始めた。
蒼馬の最後の日。
交わしたメール。
何気ない声の震え。
そして、その夜に自分に残した最後の言葉――
「記憶は私の中で生きている。それは、誰にも消せない。私が、何度でも語り直してみせる」
蓮司の心の中で、何かが柔らかくほどけた。
“伝える”ことは、戦うこと。
“覚えている”ことは、赦さぬことであり、愛することでもある。
記憶は誰のものか。
答えは一つではない。だが、それを語る者だけが、未来を変えられる。
《死者の代理人》
「これより、被告人・虹浜 蒼馬に対する記録なき裁判を再開します」
異様な空気が法廷に充満する。
椅子のひとつに、座るべき人間はいない。
彼はもう、この世にいない――しかし、蓮司の中で“在る”。
「この場で、彼の代理を務める者がいます」
弁護士席に立ったのは、蓮司・龍ノ宮 蓮。
裁判官が眉をしかめるが、その声を遮るように九頭龍財団の代理・氷室が口を開いた。
「興味深い。死人に弁護人が立つとは。だが、それもまた形”には違いない」
蓮司は静かに語りはじめる。
蒼馬の中に眠っていた記憶を、蓮司自身が共有した苦痛を――証言として編み直す。
「彼は最後まで、自分がやっていないと言っていた。だが、その声は記録されなかった。なぜなら、記録は制度が選ぶ。制度は都合のいい声だけを残す。ならば、俺が残す。彼の本当の声を」
陪審席に沈黙が広がる。
その言葉は、法の外から来た。
だが、誰よりも法を求める声だった。
そして、対抗するように氷室は映像を提示する。
蒼馬が犯行に関与していたとされるシーンを収めた映像。
だが、それは妙に編集が粗く、映像の時間軸にも不自然な切れがあった。
「この映像に疑義がある。元データを開示してください」
梓の声が鋭く響く。
「なかったことにされた証拠があるなら、それはもう一つの殺人です」
「……静粛に!」
裁判官の木槌が打たれるが、動揺は抑えられない。
蓮司は立ち上がる。
「あなたたちの法は、書かれた文字だけで動いている。だが、俺たちの信じたい法は、死者の声にも、魂の叫びにも、耳を傾けるものだ」
蓮司が掌を開く。
再び記憶の可視化が始まる――
そこに映ったのは、蒼馬が犯行現場から去る背中と、
その背後で何かを指示する“黒い影”。
「俺は、彼の死者代理”としてこの場に立っている。これは、死人に口なしの法に対する反逆だ。生きている者の正義のために、そして死者が二度殺されないように、俺はここに立つ」
死者の代理人とは、ただの代弁者ではない。
忘れ去られようとする声を、裁きの場に連れ戻す者である。
《裁かれるのは誰か》
「――裁かれるべきは、誰か」
蓮司の低く澄んだ声が、法廷の空気を刺すように揺らした。
スクリーンには、先ほど蓮司が可視化した記憶映像が映され続けている。
蒼馬の背後に立つ黒い影――顔は見えないが、左手の薬指に鈍く光る龍の紋章。
「これは、偶然ではない」
梓が立ち上がり、証拠提出を宣言する。
それは九頭龍財団が出資していた治験プロジェクトの資料だった。
「この研究は、人格と記憶の再構成――すなわち記憶改変と意志操作を可能とするものです。蒼馬はこの治験に知らずに巻き込まれていた可能性が高い」
「ではあなたは、殺人の実行者を“無罪”と?人を殺めた事実を、誰かの記憶のせいにするのか」
氷室の声が冷徹に響く。
蓮司は応じた。
「この国の法は行為を裁く。だが、その意志が誰かに植えつけられたものだったとしたら? その罪は、誰に帰属する?」
傍聴席に動揺が走る。
裁判官は何度も静粛を呼びかけるが、
もはやこの法廷は、法だけでは縛れない場と化していた。
「――この裁判は、前例にない。記録も、法も、前提も、すべてが崩れている。だがそれでも、私たちは“真実”を求める」
梓がはっきりと言い切った。
「蒼馬の命を奪ったのは銃弾ではない。それを握らせた見えない手――すなわち、意志を操作し、記憶を消し、都合よく作り変えた者たちだ」
蓮司の眼差しが、傍聴席の奥に潜む男に向けられる。
九頭龍財団・総帥――九頭龍 玄明。
その姿は薄暗い傍聴席の中でも際立っていた。
彼はわずかに笑う。
「記憶で裁く時代が来るとは、滑稽だ。だが、興味深い。この法の進化が、人類に何をもたらすか……見届けさせてもらおう」
「あなたは、すでに裁かれている」
蓮司は囁くように言い放つ。
真実とは、見たものではない。語られ、共有され、承認されたもの。
裁かれるのは、過去ではなく、今のこの選択である。