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龍神弁護士  作者: 玄妙
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第五章 対価の契約

《報復の裁き》


 東京地裁、第十五法廷。

 その日は朝から異様な熱気に包まれていた。報道陣、傍聴希望者、そして冷やかし――

 注目の再審案件『清梧せいごグループ事件』が開廷する日だった。

 被告人・佐伯千尋さえき・ちひろ

 彼女は地方の保育園で働く保育士だったが、数年前、化学物質の流出事故で家族を失った。

 加害企業とされるのが、政財界に巨大な影響力を持つ清梧グループである。

 千尋は、事故調査を妨害したとされる幹部社員を刺殺した罪で起訴されていた。

 事件は「正当防衛の域を超えている」とされたが、法廷には多くの同情が集まっていた。

 その弁護に立つのが、蓮司――龍ノ宮 蓮である。

 傍聴席に座る梓は、彼の背中に変化を感じていた。

 封印都市・虹浜で龍神と向き合って以来、蓮司の空気は変わった。

 威圧でも激情でもない、澄んだ圧。それが空間全体を支配している。

「弁護側、意見陳述をお願いします」

 裁判長の声に、蓮司がゆっくりと立ち上がる。

「……この事件は、法の名のもとに起きた殺人ではありません。 むしろ、正”が殺された末に生まれた、残された者の慟哭なのです」

 彼の声は低く、しかし一言一句が刃のように突き刺さる。

 「清梧グループは、数多の政治家を後援し、世論を買い、被害者の声を握り潰してきた。彼女がこの国の正当な制度で救われた瞬間は、一秒たりとも存在しなかった。そんな中で、もしも私たちが彼女だけを裁くならば――」

 蓮司の目が、検察官を捉える。

「――法とは、誰の味方なのか? それを、国民が問う時代に来ているのではないか?」

 沈黙。

 法廷の空気が張り詰め、誰も咳ひとつしない。

 千尋は泣きそうな表情で、蓮司の後ろ姿を見つめていた。

 それは、彼女がこの国で初めて出会った、誰かのために怒る大人だった。

 審理の合間、蓮司は一人トイレの鏡の前に立つ。

 目が、微かに紅く染まっていた。

(……また、“あれ”が……)

 怒りと共に沸き上がる、龍神の記憶。

 今、蓮司は初めて知る――力とは、自分の内にある感情の矛だということを。

 梓が外で待っていた。

「使ったのね。……龍神の力」

「ほんの少しだ」

「ほんの少しで、あんな言葉が出るなら、もう手遅れかもしれないわよ」

「……それでも、救えたならいい」

 この日、第一回目の弁論はネットで爆発的に拡散された。

 「龍神弁護士」の異名が、ついに日本中に轟くこととなる。

裁きの場に、龍の影が射し込んだ。

それは復讐ではなく、“正義”の再定義の始まりだった。


《契約者の代償》


 夜の街は雨に濡れていた。

 虹浜から戻ってきて数日、蓮司はひとり、東京湾を見下ろすタワーオフィスにいた。

 九頭龍財団の動き、龍神の封印の異変、そして急速に表出しはじめた「力」の気配。

 頭では冷静なつもりだったが、彼の中には確かに――何かが棲みはじめていた。

 デスクの上には、母・真琴との幼少期の写真。

 だが、その記憶が……うまく取り出せな”。

(あれ……?)

 笑っていたはずの母の声、笑顔、その背後の夕暮れ。

 すべてが、濁った水の底のように霞んでいる。

 思い出そうとすればするほど、頭の奥が軋んだ。

 ――これは、「記憶の劣化」ではない。

 扉をノックする音。

 入ってきたのは、七瀬梓だった。

「やっぱり、そうだったのね。あなた、契約したのね――龍神と」

「……無意識だった。けど、確かにあのとき力を受け入れた」

「そして、何かを引き換えにした。でしょ?」

 梓は、静かに紙袋からノートを取り出す。

「記憶ノートを作ったの。あんたが忘れていくものを、私が書き残しておく」

「……おまえ、自分がどれだけ危ない橋を渡っているか、わかっていんのか?」

「わかっている。でも、私は、法の外でもあんたの弁護をする覚悟がある」

 彼女の言葉に、蓮司の胸がかすかに熱くなった。

(俺はもう、一人じゃない)

 梓は、左耳のピアス――龍のモチーフを触る。

「これ、兄が最後に残したものなの。記憶が薄れても、これだけは忘れたくない」

「……俺も、そうだ。失っていい記憶と、絶対に守る記憶がある」

 彼らは、白紙のノートを一緒に開いた。

 そこに、最初の言葉が記される。

《蓮司と梓が、真実を守るために結んだ契約》

 夜が深まる中、彼らは、消えていく未来に、書き残すという反撃を始めていた。

龍神の力を使うということは、ただの強化ではない。

それは、自らの過去を差し出す儀式。

そして、代償を受け入れた時、初めて人は――“神”と対等になれる。


《敵の仮面》


 赤坂、超高層タワーの最上階。

 天井近くまでガラス張りの応接室に、月光が無機質な影を落とす。

 そこに、黒一色のスリーピーススーツを纏った男が立っていた。

 九頭龍 玄明。

 九頭龍財団の総帥、龍神の封印術を現代に継ぐ者。

 そして今、静かに「この国の未来の地図」を書き換えようとしている者。

「……覚醒したか、龍ノ宮 蓮」

 男は、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。

 その動き一つとっても、完璧に計算され尽くしている。

 隙がない。だが、それ以上に――異様に冷たい。

 応接室の壁一面に設置された監視スクリーン。

 蓮司の動向、法廷での演説、虹浜での映像……

 彼の覚醒の過程が克明に記録されていた。

 そこに部下が一人、静かに頭を下げて入室する。

「総帥、彼女が動き始めたようです。七瀬梓――すでに“記憶の帳簿”を持って」

「……ふむ。ならば、次は“あれ”を使おう。

 彼女の過去に幻影を潜り込ませる。現実と記憶の境界をぼかすのだ」

 玄明の銀縁メガネが月光を反射し、氷のような光を放つ。

「人間とは、己の記憶を以って自我を保つ存在だ。その根本を侵せば、いかに強き者も、自己崩壊する」

 棚の中には、厳重な鍵付きの木箱。

 そこには、龍神を封じるために使われた最古の封印具の破片が納められていた。

「さあ、目覚めろ。封印を越えた龍の記憶たちよ。真なる記憶裁判”の幕を上げようではないか」

 その笑みは、まるで神をも愚弄する者のように冷たい。

 だが同時に、それは自らの正義を疑わぬ信念の仮面でもあった。

人の正義と狂気は、紙一重。

玄明は仮面を被ることなく―狂気に正面から向き合う者だった。


《揺らぐ真実》


 「……どうして、兄の名前が記録から消えているのよ?」

 梓は警察庁の資料室で、ひとり言のように呟いた。

 数日前までは確かに存在していたデータ。

 だが今、兄・七瀬 蒼馬そうまに関する記録が、痕跡ごと抹消されていた。

【七瀬蒼馬――故人。警察官。死亡時二十七歳。殉職。】

 記録にはそう記されていたはずだ。

 だが現在、そのファイルは「存在しない人物」として扱われていた。

「……誰かが、記憶を書き換えた」

 いや、それはただの陰謀論ではない。

 梓自身が抱く兄の記憶にも、奇妙な空白が現れ始めていた。

 蓮司の事務所に戻った彼女は、記憶ノートを開く。

「兄が最後に言った言葉が思い出せない。『また、いつか……』の後が、どうしても……」

 そんな彼女に、蓮司が静かに語る。

「……俺にもある。母の声を思い出せない」

「それって、契約の代償?」

「いや、それだけじゃない。誰かが介入している。俺たちの核となる記憶を、意図的に変えようとしている」

 二人はある仮説にたどり着く。

 記憶は脳に宿るだけのものではない。

 空間“物に記憶が染み込み、それを通して人は思い出す。

「つまり、龍神の力は……空間の記憶すら操作できる?」

「もしそうなら、この街全体が書き換えられた虚構になる」

 梓は、ふと背筋を冷たいものが走るのを感じた。

 鏡に映った自分の顔――そこに映る誰かの影が、ほんの一瞬重なったように見えた。

 “真実”とは、誰が定義するものなのか?

 “事実”とは、記録されるものだけを指すのか?

 記憶が揺らぐとき、人は自分自身をも疑い始める。

 それこそが、九頭龍玄明の仕掛けた最大の罠――「記憶操作による無血の支配」だった。

真実とは、記憶によって形作られる。

その記憶が壊されたとき、人間の「正義」さえ崩れ去る――。


《眠る神、目覚める契約》


 再び、虹浜の海辺。

 誰も近づかなくなった封鎖区域の奥に、今も残るほこらの礎石。

 月光が差し込む中、蓮司は静かにそこへ膝をついた。

 かつて母・真琴と訪れたこの場所で、彼はすべてを思い出した。

――母が自らの命を代償に、「龍神」の暴走を止めたこと。

――彼自身が封印の鍵として、龍神と半ば契約を結んでしまったこと。

(このまま、俺は龍神になる。けど――)

 梓の存在が、彼を引き止めていた。

 彼女が記憶を記し、過去を人間の物”として繋ごうとしている限り、自分もまだ「人間」として、抗えるはずだと。

 そのとき――

 祠の石が微かに震え、結界の中から青白い光が立ち上がる。

 龍神の封印核――「眠れる神」の片鱗が、彼の意志に呼応したのだ。

「……俺は、運命の従者にはならない」

 蓮司の額に、淡く浮かび上がる龍の紋。

 その光が、彼の体内を駆け巡り、新たな契約へと姿を変えていく。

 彼の周囲を旋回するように、数千の記憶が現れ――

 亡き者たち、傷ついた者たち、忘れ去られた者たちの「声」が響きはじめる。

 蓮司はその中心で、静かに宣言した。

「俺が結ぶのは、“正義と記憶”の契約だ」

 祠の結界が崩れ、青い龍が天に昇る幻が見えた。

 それは幻ではない。契約が更新された瞬間の記憶の可視化だった。

 その後、蓮司は梓と合流する。

 彼女は彼を抱きしめるように見つめながら言った。

「――ようやく、神話じゃなくて、物語が始まったのね」

「いや、これから法廷に叩きつけるんだ。この神話の真相を――証拠として」

「眠れる神」は目覚めた。

だが、それは破壊のためではない。

人の手で記憶を守るために、再び世界と契約したのだ。


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