第四章 封印都市・虹浜
《沈黙する街》
灰色の空が、どこまでも重たく垂れ込めていた。
雲の切れ間から覗く淡い光は、かつて「虹の町」と呼ばれたこの地の名残を照らすには、あまりにも頼りない。
蓮司と梓は、高速道路を下りた先にある旧虹浜駅のロータリーに立っていた。
「……まるで、時間が止まったみたいね」
梓が呟いた。かつて賑わっていたはずの観光地には、人の気配がほとんどなかった。
閉じられた土産物店。営業をやめた温泉旅館。雑草の侵食した遊歩道。
どこか不自然な静寂が、この町全体を包み込んでいる。
蓮司は一歩、舗道に足を踏み出す。
視線の先、廃ビルの屋上に光る反射――双眼鏡のレンズだ。
「監視されているな。町に入ってから、ずっとだ」
梓が眉をひそめる。
「九頭龍財団ね。都市開発の名目でこのあたり一帯、全部囲い込んでいる。再開発特区ってことになっているけど、実態はほぼ自治区。政府も見て見ぬふりよ」
まるで、町そのものが「記憶を封印する巨大な装置」に変わったようだった。
二人は地元の商店街にある古書店を訪れた。
この町で唯一、蓮司の母――故・龍ノ宮真琴が生前出入りしていた場所だ。
「……いらっしゃい」
出迎えたのは、老人と呼ぶにはどこか精悍さを残す白髪の店主。
彼は蓮司の顔を見るなり、一瞬だけ目を細めた。
「……あんた、真琴さんの息子か」
蓮司は静かに頷く。
「十年前の記憶、聞かせていただけますか」
梓が前に出て尋ねた。
しかし、店主は目を伏せ、棚の整理を始める。
「何も覚えていないんだ。いや、たぶん……思い出してはいけないんだよ」
店主だけではなかった。
役場の職員も、派出所の巡査も、町のクリーニング屋の老婆も――
誰もが「十年前の事故」「名波結翔の事件」「蓮司の母の死」について、語ろうとしなかった。
まるで、ある日突然、この町から“ある記憶”だけがすっぽり抜け落ちたかのように。
「これは偶然じゃない」
蓮司が呟いた。
「集団記憶喪失……もしくは、意図的な操作」
梓が顔を上げる。
そのとき、町の中央にある大通りで、小さな子供が一人、何かを空中に向かって話していた。
「……あそこ、いたよ。昨日もいたのに、ママ、なんでいないって言うの?」
子供の指差す先には、古い遊具が錆びついた公園があるだけだった。
蓮司は歩きながら、ふと手帳を開く。
そこには、虹浜町の古地図と、母・真琴が遺したメモが挟まれていた。
《光差す断崖に龍の声を聞け》
その言葉を見つめながら、彼は確信する。
「――この町は、龍神の記憶を喰らってる。
人の記憶も、町の記録も、すべて」
かつての事件が封じ込められた都市。
沈黙する街が語らない真実の断片。
龍神の声は、まだどこかで息づいている――。
《祠と地下聖域》
夕暮れが迫る中、蓮司と梓は虹浜の外れ、杉林に囲まれた斜面へと足を踏み入れていた。
街の外周を守るように立つ鳥居。その奥に、苔むした小さな祠があった。
「地図にも載ってない……完全に管理外の土地ね」
梓が言いながら、重い石段を登る。
祠には年季の入った木札が吊るされ、《龍ノ宮家祭祀場》とある。
「……母がここに通っていた。
幼い頃の断片的な記憶だが、この奥に何かがあった」
蓮司は静かに扉を押した。軋む音と共に開いたその先には、岩肌に穿たれた地下への階段が口を開けていた。
懐中電灯の光に照らされながら、二人は地下へ降りていく。
空気は湿って重く、どこか鉄と血のような匂いが混ざっていた。
「……これはただの祠じゃない。祭祀用の……いや、封印のための施設」
梓の声が響く。
地下は迷路のような構造になっており、壁面には龍を象った古い彫刻が無数に彫り込まれている。
その中心部、石室の中にあったのは――
巨大な龍骨のモニュメントだった。
「まるで……本物の遺骸みたいね」
梓が息を呑む。
龍骨は水晶で象られており、内部には人間の頭蓋骨のような構造物が埋め込まれていた。
「これは、龍神の依り代だ」
蓮司の声に、石室全体が反響する。
「母はここで何かを封じたんだ。
俺の中にある力――龍神因子と関係している可能性が高い」
梓が壁の隙間に手を伸ばし、錆びた金属製の記録装置を発見する。
8ミリフィルムと見られるテープと、真琴の手帳がセットで保管されていた。
《この地下聖域は、龍ノ宮の呪術と科学が交わった最初の場所である》
《龍神の記憶は、人の記憶に似ている。封じれば忘れるが、呼び覚ませば暴れる》
――母の文字だった。
そのとき、石室の奥から「カン……カン……」と金属音が響く。
蓮司が一瞬目を細めた。
「誰かいる」
すぐさま振り返ると、そこには黒装束の人影が数名。
九頭龍財団の私兵と思われる影が、無言で二人を包囲していた。
「やっぱり、ここは聖域なんかじゃない。監視されていた封印だったのね……!」
梓が低く構え、腰に隠していた拳銃を取り出す。
一触即発の緊張感。
しかし、蓮司が手を挙げて止める。
「今は戦う時じゃない。証拠は手に入れた。
ここで争えば、この記憶ごと闇に葬られる」
蓮司は石室の奥から一本の小さな封鎖棒を抜き取る。
それは、かつて母が自らの命を代償に封印した呪具の一部だった。
龍神の記憶が眠る地下聖域。
そこに残された母の痕跡と、監視する者たちの影。
封印はまだ終わっていない――いや、これから破られるのだ。
《封印を継ぐ者》
蓮司と梓は、九頭龍財団の私兵の監視の下、祠を後にしていた。
直接的な拘束はされなかったが、言外の警告は明らかだった。
――これ以上、過去を探るな。
――記憶は記録よりも厄介な危機だ。
虹浜の空はすでに夜色に染まり、潮騒の音さえも鈍く響いていた。
ふたりが戻ったのは、町の外れにある古い納屋だった。
そこには蓮司の母・真琴が遺した遺品が保管されており、役場の倉庫から密かに移されたものだった。
梓が箱を開け、古いアルバムと共に、一冊の手製の冊子を見つける。
それは「封印の継承書」と題され、龍ノ宮家に伝わる記録と儀式が記されていた。
蓮司は頁をめくる。
そこに記された“術式”と封印契約の構造は、古代呪術と現代神経科学を融合させたような内容だった。
《龍神の記憶は、宿主の神経系に依存する》
《龍神因子を持つ者が鍵となる》
《継承者は儀式により、封印を一部解除できる》
「……俺は、母からその鍵を受け継いでいたってわけか」
蓮司は手帳に挟まれていた写真を手に取る。
そこには若き日の真琴と、まだ少年の自分が、虹浜の断崖で手をつないで立つ姿があった。
「ここに……声があった」
その時、蓮司の頭に閃光のような映像が走った。
――血のついた白衣。
――真琴の叫び。
――龍神の封印が揺らぎ、彼女の手から赤い符が飛び散る。
「……っ!」
蓮司が膝をついた瞬間、梓が駆け寄る。
「また記憶のフラッシュ?」
蓮司は苦しげに頷きながら、声を絞り出す。
「いや……違う。鍵が開きかけている。母が最後に残した遺志が……俺の中で、目を覚まそうとしている」
梓が冊子の最終頁を見つめていた。そこには墨痕鮮やかにこう書かれていた。
《封印を継ぐ者よ、怒りに呑まれてはならない。龍神はその感情を糧とする》
「蓮司。あなたは今、二つの道の間に立っている。一つは、母の遺志を継ぎ、人を守る力として龍神を使う道。もう一つは……復讐と怒りに身を委ね、破壊の化身になる道よ」
静かに語る梓の目は、どこまでも真っ直ぐだった。
「私があなたを止める。もし、あなたが神になろうとするなら」
蓮司はゆっくりと立ち上がり、わずかに微笑んだ。
「なら、俺が堕ちないように、隣にいてくれ。お前の声だけが、俺を人間に戻すんだから」
龍神の封印は、血の継承と共に解かれつつある。
だが、力には代償がある。
継承する者には、覚悟が問われる――
龍になるか、人として立つか。
《崩れる境界》
翌朝。
虹浜の空は澄み切っていたが、街にはどこか異質な静けさが漂っていた。
街の放送スピーカーから、定刻を過ぎても流れない音楽。
交差点に立つ警備員の姿が消え、学校も、役場も、シャッターが降りている。
「……人が、いない」
梓は眉をひそめながら、人気のない商店街を見渡した。
「住民ごと封鎖された……?」
蓮司は、路上に放置された新聞を拾い上げた。
その一面には見出しが踊っていた。
『虹浜、住民健康調査へ。全域に特殊検査実施』
『財団協力の下、民間医療チーム導入』
『メディカル・プロトコル「K-Ryu/Protocol」稼働』
「……記憶の隔離だ。全住民にレミネクト関連の処置を?」
九頭龍財団は、街を記憶実験場に仕立てたのだ。
市民の記憶を制御し、必要な情報だけを上書きしている。
そのとき、突然上空に白いノイズが広がる。
ドローン型の放送装置が、街全体にメッセージを発信していた。
「虹浜地区の皆様、ただいまより区域限定の記憶安定化措置を実施します。安全のため屋内にて静かにお待ちください。
全記憶処理は非侵襲性であり、副作用はありません」
「……嘘よね」
梓は唇を噛む。
「これ、全住民にマインドコントロール処理しているじゃない……!」
蓮司は、スマートフォンに届いた暗号通信を見つける。
差出人は――「龍ノ宮 真琴」。
「母……?」
通信内容は映像記録だった。
そこには、病院の地下で撮られたと思しき、財団幹部の極秘会議の様子が映っていた。
「虹神計画のフェーズ2に入る。我々は都市単位で選別を始める」
「不要な記憶は処理し、統制された“神の街”を創り出す」
「……龍ノ宮 蓮の覚醒は想定内だ。誘導せよ」
「……俺は起爆剤として仕組まれていたってことか」
蓮司の瞳に、微かに光が灯る。
そのとき、街のあちこちから目覚めたように人々が外へ出てきた。
彼らは無表情で、瞳が虚ろだった。
「……安定化プロトコル、作動中」
人々の声が機械的に揃う。
この街の住民たちは、もはや人ではない――
記憶を食われ、感情を奪われ、ただ生きているだけの人形だ。
「これはもう、実験なんてレベルじゃない」
梓が拳を握る。
「記憶ごと、街の魂を奪っている……!」
「……龍神は、こうして生まれる。記憶と想いの奔流から生まれた力が、街を、俺たちを変えていく」
虹浜という舞台は、すでに人の手を離れつつある。
龍神の記憶、遺された意志、操作される住民たち。
蓮司と梓は、崩れゆく現実の只中で、自らの正義を問い直す――
《血の記憶、龍の目覚め》
夜。
虹浜の空には、異様な光が揺れていた。
漁港近くの断崖から立ち上る霧――その中に、虹の残光が漂っている。
蓮司と梓は、かつて真琴が「最後に見た」と語っていた場所を訪れていた。
波の音はほとんど聞こえない。まるで海が息を潜めているかのようだった。
「ここだ」
蓮司は足元の地面に手を触れた。
冷たい。だが確かに何か動いている。
「……鼓動?」
その瞬間、脳裏に強烈なノイズが走った。
過去の記憶、声、色、音――
そして、母・真琴の叫び。
「蓮……あれは、力なんかじゃない。
あれは、生きている記憶よ――あなたの中の、龍が目覚めたの……!」
蓮司の瞳が、深い紅に染まる。
体内に眠る何”が、意志を持って蠢き始めていた。
掌が震え、空間が歪む。
「うっ……! ダメだ、押さえきれない……!」
梓がすぐに駆け寄る。
「蓮司、聞いて! あなたは龍じゃない、“人間”よ。その記憶は、あなたの怒りじゃなくて、母の願いから来たものでしょう!?」
だが、蓮司の意識は混濁していく。
かつての裁判、無念の死、虐げられた子どもたち、燃える街――
すべての記憶が怒りとなって溢れ出す。
その時だった。
断崖にある祠が轟音とともに崩れ、地下から赤黒い龍の文様が空へと浮かび上がる。
「封印の結界が……崩れていく……」
梓の目の前で、蓮司の背後に龍神の影が現れた。
《おまえの怒りを、我に与えよ》
《その憎しみは、正義と呼ぶに値する》
《さあ、契約を交わせ》
「……いや、俺は……俺は……っ!」
蓮司は激しい葛藤の中で、最後の声を振り絞った。
「俺は、母のように、誰かを守る法になりたいんだ!」
直後、光が走る。
龍神の影が悲鳴のように空へと消え、蓮司の体を包んでいた“赤”が“蒼”に変わった。
力が、意志に従った。
龍神は、蓮司を喰う存在ではなく、宿る存在として選んだ。
静寂が戻った。
断崖には、崩れた祠の残骸と、赤い石板が転がっていた。
梓がそれを拾い、呆然と呟く。
「これが……神を従わせた男の証……」
蓮司は膝をつきながら微笑む。
「龍神の声が、ようやく……怒りじゃなく、祈りに聞こえたよ」
龍は目覚めた。
だがその咆哮は、破壊ではなく再生のためにある。
法と力――その両輪を持った存在が、今、誕生した。