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龍神弁護士  作者: 玄妙
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第二章 記憶を喰らう水

《水辺の少女》


 午前五時。

 虹浜湾岸の遊歩道――海と人工運河が交差する静かな水辺で、ひとりの少女の遺体が発見された。

 制服のまま。

 靴も履いたまま。

 顔には苦悶の痕も、争った傷もない。

 ただ、目を見開いたまま、まるで水の底をのぞきこんだまま、記憶に囚われたような表情をしていた。

 第一発見者は、朝の清掃ボランティアをしていた高齢の女性。

 水面に浮かぶリュックサックに目を留め、近づいてみると――少女が手すりにもたれかかるように倒れていたという。

 死亡推定時刻は、深夜二時から三時の間。

 所持品に荒らされた様子はなく、遺書のようなものも残されていなかった。

 警察の判断は「自殺の可能性が高い」。

 ただし、その決定には「あまりにも早すぎる」という違和感があった。

 なぜなら――

 少女は、死の直前に母親へ電話をかけていた。

 そして、こう告げていた。

「お母さん……わたし、人を殺した気がするの。でも思い出せないの。全部、水に沈んだみたいで……」

 通話は一分ほどで途切れ、その数時間後に少女は亡くなっていた。

 母親は憔悴しきっていたが、「娘に他殺の可能性がある」と記者に訴え、警察の“即時処理”に疑問を呈した。

 メディアは反応を見せず、SNSで騒ぎが拡散されるも、数時間で「なぜか」投稿が次々と削除された。

 だが一人だけ、この話題に強い関心を持った者がいた。

 七瀬 梓。

 週刊誌の片隅でこのニュースを目にした彼女は、直感で“匂い”を感じ取った。

「……これは、また、法の外の仕事ね」

 事件現場を一目見たその日の夜。

 梓は虹浜運河に立ち、波に揺れる鉄の手すりを見つめながら、ある既視感に襲われる。

 足元の水面が、ふいにざわめいた。

 夜の波が、彼女にだけ語りかけるように――

「まだ、誰かが沈んでいる」と。


《嘘を語る目撃者》


「見たんです、本当です。あの子、誰かに突き飛ばされていた!」

 証言台に立つ女子生徒は、涙を浮かべながらもはっきりとそう言った。

 だが、その声には、どこか覚え込まされた台詞のような、妙な調子があった。

 傍聴席の梓は、瞬時に違和感を覚える。

 感情の揺れと、内容の信憑性が一致していない。

「記憶があるように見えて、実は記憶されていない証言……ね」

 証人となったのは、被害者のクラスメート。

 少女の名は遠野とおの 柚葉ゆずは

 自殺とされた少女、白波しらなみ 美音みおんの親友だったという。

「放課後、川沿いで待ち合わせしていたんです。そしたら、美音が男と揉めていて……」

 証言は流れるように続く。

 だが、梓の視線は彼女の目線、指先の動き、呼吸のリズムを逃さなかった。

 法廷のすみで、蓮司が小さく囁く。

「証言の内容が、出来すぎている。記憶が、後から構築された形跡がある」

 「催眠、あるいは誘導ね。……まるで脚本を演じている女優みたいに」

 二人の目が合ったとき、梓は軽く頷いた。

 裁判終了後、学校関係者の聴取が非公開で行われたが、他の証言者もまた、どこか曖昧だった。

 誰もが、「何かがあった気がする」「あの場所にいたような気がする」と語るが――

 決定的な記憶の前後が、きれいに欠け落ちている。

 蓮司は、地図を手に虹浜周辺の記憶異常報告を集計していた。

 その中心点は、どう見ても――

「地下水脈の交差点」

「ここ、何かあるわね」

 梓が指で示したのは、古地図にあった地下の井戸跡。

「美音が最後に立っていた場所、正確にはその下に、記憶を狂わせる何かがある」

 嘘を語ったのは証言者ではない。

 水そのものが、記憶を歪めている。


《潜入・記憶回復セミナー》


「封じられた記憶に光を。あなたの本当の人生を、もう一度――」

 まるで催眠導入のような穏やかな声が、ホテルの会議室に響いていた。

 空気は妙に澄みきっていて、アロマとヒーリング音楽が交互に脳を撫でる。

 参加者は十数名。ほとんどが二十〜四十代の女性。

 共通するのは、「失った過去を取り戻したい」という希望。あるいは執念。

 七瀬梓は、身元を偽って潜入していた。

 登録名は「南 梓」。

 理由は「過去に虐待を受けた記憶が曖昧で不安定」とだけ説明した。

 誰も疑わない。むしろ、誰も他人を見ていない。

 参加者は皆、どこかうつろな目をして、自分自身の内部にのみ集中していた。

 司会進行をしていたのは、一人の若い男。

 白衣を着た精神医療関係者を思わせる出で立ち。

 彼の名は――氷川ひかわ はやて

 九頭龍財団が出資する「記憶回復支援プロジェクト」の主任講師だという。

「記憶は、水に似ています」

「汚れた水は濁る。強く揺らすと、底に溜まった真実が現れる」

 氷川はそう語り、参加者たちを瞑想へと誘導する。

 照明が落とされ、音楽が消え、

 薄明かりの中で、“水の音”だけが響く。

 その瞬間、梓の耳にも、かすかな“囁き”が聞こえた。

〈……きこえるか? 梓……〉

 ――蓮司の声だ。

 彼は別室にて、リアルタイムでこのセミナーを監視していた。

 耳に仕込まれた極小レシーバー越しに、蓮司が呟く。

「……音の波形が不自然だ。サブリミナル信号が埋め込まれている。催眠ではなく、操作だ」

 セミナーの終盤、氷川は一人ひとりの額に手を当て、こう告げた。

「水の底に、あなたの記憶が沈んでいます。そこへ降りていけば、あなたが望む過去を手にできます」

 まるで、記憶そのものを再編集できるかのように。

 終了後、梓は休憩室で被害者・美音の通っていた記録を探る。

 そこには、美音の写真が貼られた「特別再生プログラム申込者リスト」が残っていた。

 ――そのリストの下部には、小さくこう印字されていた。

【九頭龍記憶生体研究部(KZR-LM)第七実験群】

 それは、蓮司が過去に遭遇した機関と同一のコードだった。

 見えない網が、少女を取り巻いていた。

 彼女は「記憶の改変」の実験体だった可能性がある。

 そしてその水面下には――

 忘れたいと願う者たちの願望につけ込む、異様な市場が存在していた。


《水底に沈む真実》

 

深夜、虹浜湾の旧水門跡。

 月明かりが揺れるその水辺に、龍ノ宮蓮はひとり佇んでいた。

 手には古びた設計図――昭和初期に建設された虹浜下水路の、未公開区画を示すもの。

 その一帯はすでに閉鎖され、存在すら忘れられたはずの場所。

 だが「記憶異常」が多発している地点を地図上で重ね合わせると――

 その中心点が、ここに一致していた。

「記憶を喰らう水……か」

 蓮は低く呟いた。

 膝まで濡れることをいとわず、水門を抜けた先へ進む。

 ヘッドライトに照らされたのは、コンクリートの壁に刻まれた奇妙な紋様。

 ――龍が、円環の中に自らの尾を噛みながら描かれている。

 古代密教における記憶循環の象徴、「輪廻龍印」だった。

 さらに奥。

 ぬかるんだ床を踏みしめながら、蓮は水流の音がまったくしないことに気づく。

 水音のない水辺――それは、音を封じ込める構造であることを意味する。

 つまりここは、記憶と音声による再構築実験の密室。

 やがて彼は、中央に設置された異様な装置にたどり着く。

 半球状の水槽。中には浮遊するように、白い制服のような布片が漂っていた。

 そして、装置に残されたラベルに刻まれていたのは――

【KZR-LM07_BION-032 被験体:白波 美音】

 蓮は拳を強く握りしめる。

 美音は、死んだのではなかった。

 彼女の記憶が殺されたのだ。

「記憶回復セミナー」とは逆だった。

 彼女たちは、記憶を抜き取られたのだ。

 しかも自分の意志で忘れようとした者たちと違い、美音は――ただ巻き込まれただけだった。

 背後から、乾いた拍手が響く。

「さすがだ、龍ノ宮くん。君の嗅覚は相変わらず鋭い」

 現れたのは、銀縁メガネの男。

 九頭龍 玄明――九頭龍財団総帥にして、この実験施設の主宰者だった。

「人は皆、記憶に苦しみ、記憶に囚われる。

 私がやっているのは、ただ――その解放だ」

 氷のように微笑む玄明。

「だが君のように、忘れられない者もいる。

 それは美徳でもなんでもない。構造的欠陥だよ、蓮」

「……記憶を奪って操ることが、君の信じる正義か?」

「正義など、定義できない。だが、美はある。

 記憶すら、美しく再構成される時代が来るのだよ」

 言葉を交わす二人の間で、水面がわずかに揺れる。

 まるで、今まさに、何かが目を覚ましたかのように。

 蓮は静かに構えた。

 彼の中で、封じていた“記憶”の蓋が、かすかに軋む。

「白波 美音……君は、俺が救う」


《龍神の眠る場所》


 夜明け前の静寂。

 地下水路を抜けた先に、朽ちかけた岩窟が口を開けていた。

 そこは、地図には存在しない領域――「虹浜龍脈」の中心にあたる結界の底。

 蓮は、手にした龍紋のチョーカーを見つめた。

 九頭龍 玄明が残した挑発にも似た言葉が、脳裏に響く。

「君の核が目覚めた時、龍神もまた、揺り起こされる」

 足元には、淡く光る水が湛えられている。

 まるで龍の鱗を敷き詰めたかのような反射。

 岩壁には、古代文字と龍の浮き彫りがびっしりと刻まれていた。

 梓の声がレシーバーから微かに届く。

「蓮、今いる場所……封龍井ふうりゅうせいよ。

 その下にあるのは、龍神の眠る水棺――伝承ではそう呼ばれている」

「伝承……?」

「平安時代、虹浜の地下に記憶を司る龍が祀られた。民の苦しみや悲しみをすべて背負って、眠ったまま時を止める封神よ。 そして……蓮、あなたの一族――龍ノ宮家は、その封印を守る番人だったの」

 突如、洞窟全体が微かに震える。

 足元の水が、意志を持ったように波打つ。

 そして――声が、した。

〈龍ノ宮の血を継ぐ者よ……〉

〈なぜ、我を再び呼ぶ〉

 蓮は気づく。

 この場所そのものが、記憶の装置だった。

 龍神とは、ただの神話上の存在ではない。

 人の集合意識――記憶と感情の深層――にアクセスできる、情報の化身だったのだ。

「俺は……記憶を喰らう者と戦うために来た。

 お前の力が必要だ」

 蓮が水面に手を伸ばす。

 その瞬間、龍神の目が開いた。

 ――人の形をした龍影。

 全身を覆ううろこは虹色に光り、瞳の奥には無数の過去が渦を巻いていた。

「お前は、封印されていたのではない。人々が自らの記憶から逃げた結果、ここに沈んだ。だが今、記憶を盗み、操作し、欲望で他者の生を歪める者が現れた」

 蓮の声が水底に響く。

 その手に、龍神の紋章が浮かび上がる。

〈ならば、我が力を貸そう〉

〈だがその代償は、お前の記憶の核だ〉

 一瞬、蓮の瞳が迷う。

 だが、すぐに静かに頷く。

「構わない。必要ならば、俺の過去の一部くらい――くれてやる」

 次の瞬間、水が天を穿つように跳ね上がる。

 虹浜の空に、一条の虹の龍が走る。

 封印が解かれた。

 蓮は龍神の力と一体化し、新たな局面へと突入する。

 彼の背に、淡い光の鱗が浮かび上がる――

「龍神弁護士、目覚めの刻だ」


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