第一章 法廷に舞う龍の気配
《再審請求された虹浜事件》
東京地裁・第八刑事法廷。
冷房が効きすぎた室内に、規則正しく裁判官のハンマー音が響いた。
「これより、令和七年 虹浜殺人事件における再審請求審理を開始する」
被告人席に座るのは、無精髭を剃り残した青年・柴田一真。
当時十九歳、虹浜の港湾作業員として働いていた彼は、ある晩、コンテナ群の一角で起きた“焼死事件”の容疑者として逮捕され、第一審で懲役十二年の判決を受けていた。
だが、控訴審で証言した目撃者の“記憶の曖昧さ”や、“火傷のない焼死体”という物理的矛盾が注目を集め、七瀬梓の弁護により、再審が認められるに至った。
梓は黒のパンツスーツに身を包み、起立して一礼する。
「弁護人、七瀬梓です。本件は、証拠の不整合と証人の虚偽、そして何よりも、不可解な記憶改竄の疑いに満ちた、極めて異常な案件です」
傍聴席にいる観衆の中から、ざわめきが起きる。
検察官は顔色ひとつ変えずに応じる。
「異常なのはあなたの主張のほうでしょう。被告が被害者の近くにいたことは事実であり、当日の映像にもそれははっきり映っている。 しかも、被告は“何かが燃える光”を見たと発言し、その直後、通報もせず現場から離れています。これは自白に等しい」
梓はテーブルの上に置かれた紙束を手に取り、ゆっくりと開く。
それは、再審にあたって新たに提出された「元目撃者」の供述調書だった。
「検察側証人の山名良介氏は、第一審では、被告が火を放ったのを見たと証言しました。
ところが再尋問では、彼自身が、当時の記憶が曖昧だ、夢を見ていたようだった、と証言を翻しています」
「それは証人の記憶違いか、精神的ショックによる錯乱では?」
「いいえ」
梓は、語気を強めることなく続ける。
「問題は、目撃者が全員、同じ夢を見ているという点です。彼らは、空に龍がいたと口を揃えて証言している。これは偶然ではない。――記憶そのものが、作り変えられていると考えるべきです」
沈黙。
裁判官が小さく咳払いをする。
「弁護人、それはオカルト的な主張ではありませんか?」
梓は一歩、前に出て言う。
「もし現実に、人間の記憶が、外部から干渉を受けているとすれば――それは法の適用そのものを無効にする現代の神話犯罪です。そして、その背景に、九頭龍財団の影があることも、見逃せません」
その名が出た瞬間、空気が凍りついた。
書記官がボールペンを止め、傍聴席の記者たちがざわめく。
誰もが、財団の名前を口にすることを避けてきた。だが、梓は恐れない。
被告人・柴田は、椅子の上で肩を震わせていた。
彼の視線は、なぜか天井の隅――暗がりに向けられていた。
「……先生、見えるんです。……また……あれが、見える……」
「落ち着いて」
梓が手を伸ばすと、彼の目が潤んでいた。
「……龍が見ているんです。空に……でっかいやつが、ずっと俺を……」
裁判長が木槌を鳴らす。
被告人、供述は後ほど。今は弁護人の主張を――」
「違うんだ! 俺はやってない! ……だけど、あいつが……焼いたんだよ……!」
その叫びが、法廷を一瞬の沈黙で包み込む。
その時――
傍聴席の後方、黒いコートを着た一人の男が静かに席を立った。
その男の瞳は、梓がふと見た瞬間、金色に光っていた気がした。
だが次の瞬間にはもう、男の姿は群衆の中に溶け込んでいた。
(誰?)
梓の胸の奥で、何かがざわめいた。
それは、理屈ではない違和感だった。
けれど確かに、龍の気配が、今、この法廷に存在していた。
《蓮司、傍聴席に現れる》
昼休憩を告げるチャイムが鳴り、法廷が一時閉廷となる。
七瀬梓は一人、資料を鞄に収めながら深く息を吐いた。
被告人の異常な発言、証人たちの曖昧な記憶、そして傍聴席にいた金色の瞳の男。
彼女の中で、理屈では処理しきれない、ひずみが膨らみ始めていた。
「七瀬先生、ちょっといいですか」
声をかけてきたのは、司法修習同期の後輩、岡部翔太だった。
いつもの軽い調子で言葉を続ける。
「例の虹浜事件、興味ある人がいるんです。法学界隈じゃちょっとした有名人。俺のゼミの特別講師で、判例の記憶構造とかマニアックな研究していて……」
「その人が何?」
「今日、傍聴に来ていたんですよ。ちょっと引き合わせようと思って」
控室のドアを開けた瞬間、
梓の視線が、一人の男に吸い寄せられた。
黒のロングコートに身を包み、背筋を伸ばして立つ姿。
髪は無造作に後ろで結ばれ、切れ長の目元には知性と冷徹さが混在している。
何よりも印象的だったのは――彼の“沈黙”だった。
「紹介します、龍ノ宮 蓮先生。元・慶応法の研究員で、今は独立してフリーで事件分析とかしてるらしくて……」
梓が言葉を発する前に、蓮司が静かに一礼した。
「本日のご弁論、拝見しました。論理構成と追及姿勢、いずれも高く評価できます。ただし――記憶の干渉という仮説の立証には、法的ではなく構造的な補強が必要です」
「構造的、とは?」
梓が一歩前に出る。
蓮司は、ふっと目線を上げた。
金色ではなく黒――だが、それでもどこか奥行きが異常だった。
「法とは、言語化された記憶の集積です。もし、その記憶そのものが歪んでいるのだとしたら――その先にあるのは、法ではなく信仰です」
その言葉に、梓は沈黙した。
意味はすぐには理解できなかった。だが、心のどこかで「正しい」と感じていた。
蓮司は椅子に座り、資料を眺めながらポツリと呟く。
「目撃証言は曖昧。記録映像は途切れている。供述は、全て“龍を見た”と共通する――これは偶然ではない。むしろ、何かが記憶そのものを規定していると考えるべきです」
「……それが誰なのか、あなたは知ってる?」
「誰ではなく、何か、です」
梓が資料を閉じた。
「……もしよければ、裁判補佐に入ってもらえませんか?」
「……」
蓮司は、短く目を伏せる。
そして言った。
「私は裁く者ではない。裁かれぬものを見届ける者です」
梓は、彼の言葉が何を意味するのか分からなかった。
だが、その背中には龍のような孤独が見えた気がした。
部屋の外、廊下を歩く蓮司の足元――
乾いた床に、一瞬だけ水の足跡が浮かんでは消えた。
《証言者の異常》
午後の法廷。
再審第二日目の証人尋問に、目撃者のひとりである山名良介が呼び出された。
梓は前夜から何度も証言録を読み返していた。
彼の証言には、不可解な“削除と追加”が重ねられている。第一審で「火を見た」「犯人は黒い服」と述べたはずが、再審では「夢の中にいたような気がする」「誰だったか曖昧」と揺れている。
証言台に立った山名は、どこか視線が定まらなかった。
「それでは証人、事件当日の状況を、できるだけ詳細に説明してください」
梓の問いかけに、山名は何度かまばたきをしてから答えた。
「……港の方から、光が見えた気がして……気づいたら、男が立っていて。……でも、顔は、見えなかった。いや、そもそも……見たのかどうか、わからない……」
傍聴席で静かに膝を組む蓮司の目が、山名に向けられる。
その瞬間、法廷の空気がわずかに揺れ”ように感じた。
梓は目を細める。
「証人、あなたは第一審で、犯人の顔を見た、と証言しています。今は、見ていないと仰るのですか?」
「……すみません。夢と現実が……混ざってしまって……あの日、“龍”が、空に……いたような、いなかったような……」
「龍、ですか?」
「はい……青くて、でかくて……でも、今となっては、よく思い出せなくて……」
山名が額を押さえた。
次の瞬間、鼻から一筋の血がつっと流れた。
「証人、だいじょうぶですか?」
裁判官の声と同時に、証人の身体がぐらりと傾く。
「……っ……熱い……誰かが……中を見ている……!」
山名はその場に崩れ落ちた。
法廷が一斉にざわつく。書記官と傍聴席の警備員が駆け寄る。
梓の目が咄嗟に蓮司を捉えた。
彼は立ち上がることも、声を上げることもなかった。
ただ、じっと、静かに――証人の脈を見ていた。
廊下に運び出された山名は、医師の診断で「神経性のショック」「ストレス性一過性健忘」とされ、証言の継続は不可能となる。
その夜、控室。
梓は蓮司を睨むように見つめた。
「……あなた、何かした?」
「何もしていません」
「なら、どうしてあの人は中を見ているなんて……?」
蓮司は小さく息を吐き、答えた。
「人は、嘘をつくとき、“音”が変わります。心臓の脈、声帯の振動、瞳孔の開閉――すべてが微細にズレる。私は、それを聴いただけです」
梓は言葉を失った。
論理ではない。証明もできない。だが、この男が普通ではないことだけは、はっきりと感じられた。
彼は、人の心の奥を覗いている――まるで、“神”のように。
《蓮司の力の片鱗》
午後十時――
法廷の照明が落とされ、関係者控室にも誰もいない。
だがその空間に、梓の声だけが低く響いていた。
「ねえ、どうして……さっき証人が倒れたとき、あなたは一歩も動かなかったの?」
机に両肘をつき、視線をぶつけるようにして、七瀬梓は問うた。
その向かいにいる男――龍ノ宮蓮は、静かに眼差しを返した。
「彼は嘘をついていた。そして、自分の嘘がどこから始まったか、もう分からなくなっていた」
「嘘をつく人なんて、法廷にはいくらでもいる」
「……だが、彼はそれを“信じていた”」
蓮司の言葉は、まるで“神託”のようだった。
冷たくもなく、暖かくもなく。ただ、絶対の調子で語られる真実。
梓は立ち上がり、声を低くした。
「……あなたは、何を見ているの? 人間の“内側”を覗いているみたいに」
蓮司は少しだけ目を伏せた。そして、自身の左手の甲をまくり上げて見せた。
そこには――
うっすらと浮かぶ鱗のような紋様が、微かに光っていた。
「これは……?」
「印です。心を視る力を持つ者が、かつて契約した証」
梓は息をのんだ。
目の前の男が、自分の知るどんな論理体系にも属さない存在であることを、直感で理解した。
蓮司は、低い声で続けた。
「人が言葉にしない感情――恐れ、嘘、欺瞞、信念。それはすべて“音”として滲み出る。私は、それを聴くことができる。……だが、代償もある。真実に近づきすぎると、記憶が燃える」
「記憶が……燃える?」
蓮司は静かにうなずいた。
「この国のある一部では、記憶は“供物”と呼ばれている。龍に近づいた者が払うべき、最初の代償だ。忘却とは、守るための呪いでもある」
梓の中で何かが結びついた。
目撃者たちの曖昧な記憶、同じ夢の共有、消えた証言、そして龍という共通の幻視。
「あなた、龍神なの?」
唐突な問いに、蓮司はわずかに微笑を浮かべた。
だが、すぐに消える。
「……私は、龍神だった何か、かもしれません。ただの男かもしれない。けれど一つだけ確かなのは、この世界には、法では裁けない罪が存在するということ」
部屋の空気がわずかに澄んだ気がした。
言葉にはならないが、覚悟が、そこに生まれていた。
梓は机越しに手を差し出す。
「龍ノ宮蓮。……法廷補佐として、私のチームに入って。あなたが見える“何か”が、今、必要だから」
蓮司はその手を一瞬見つめてから、そっと重ねた。
その瞬間、どこからか――
風の音と、水の音が同時に重なって聴こえた。
《法の外からの圧力》
翌朝。
七瀬梓が事務所に出勤すると、机の上に奇妙な封筒が置かれていた。
差出人不明。ロゴも印刷もない、ただの黒い封筒。
中に入っていたのは一枚の写真と、短い一行の手書きメモだった。
「これ以上踏み込めば、次はあなたです」
写真には、前夜の控室から出る梓と蓮司の姿が鮮明に写っていた。
盗撮というレベルではない。
まるで、見ていた者が、至近距離から記憶を抜き取ったかのような精密さだった。
その日、裁判所の技術担当から連絡が入る。
「七瀬先生、提出予定だった監視映像のファイルですが……なぜか、開けなくなりまして」
「なぜ?」
「破損というより、書き換えられた形跡があります。復旧も不可能との報告です。データベースそのものが、書式ごと変わっていまして……」
まるで、誰かがデジタルの裏側から記憶を削除したような痕跡。
そんなことが現実に可能なのか――だが、現に起きている。
「……法の中に“敵”がいる」
梓はつぶやいた。
その日の夕刻、蓮司は一人、虹浜の湾岸地区へと足を運んでいた。
コンテナの奥に隠されるようにして、今も朽ちた鳥居と祠が残っている。
地元の開発資料にも、行政の地図にも載っていない――封印の跡地。
彼は、苔むした祠の前に静かに膝をついた。
そして、掌を地に当てる。
その瞬間、空気が変わった。
音が消え、風が止まり、遠くで海が“ひと呼吸”するような震動が伝わってくる。
「……まだ残っている。忘れられた龍の棲脈が、この下に眠っている」
蓮司は目を閉じる。
かつて、自身が何をしたのか、を思い出そうとするかのように。
「君はまだ、ここにいるのか。……九頭龍」
一方そのころ、九頭龍財団本部――
最上階にある応接室で、銀縁のメガネが月光を反射していた。
九頭龍玄明は、椅子にもたれたまま、静かに地図を見つめていた。
地図には、東京都内にある古い地名と断層線が記されている。
「――ついに、彼が触れたか。封印の地に」
「始めますか、計画を?」
部下の問いに、玄明はわずかに首を振る。
「まだだ。龍神は、裁かれる日を自ら選ぶ。今はただ、外から記憶を削り、証拠を消していけばいい」
梓の事務所に戻ると、クライアントが全員キャンセルの連絡を入れていた。
まるで誰かが、水の中で糸を引きちぎるように、彼女の“足場”を崩しはじめていた。
夜。
蓮司は空を見上げる。
青と金の、二色の虹が再び浮かんでいた。
だがそれは、誰の目にも映らない。
ただ、彼と――彼に“選ばれた者”だけが、見ることを許されていた。