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龍神弁護士  作者: 玄妙
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終章 虹の向こうの未来

《静寂の虹浜》


 風が、やさしく吹いていた。

 打ち寄せる波が、砂をさらいながら静かに引いていく音が、まるでこの世界そのものの呼吸のように響いていた。

 虹浜は、かつての騒乱がまるで幻だったかのように、静かだった。

 九頭龍財団の本部が解体されてから、すでに数週間が経過していた。

 法的には「資産凍結および解体命令に基づく措置」として処理されたが、

 その背後で起こった記憶裁判や神の封印解除といった出来事は、どこにも記録として残らなかった。

 記録なき真実。証明なき勝利。

 それでもこの街には、確かに何かが変わった空気が流れていた。

 七瀬梓は、オフィスの窓辺に腰をかけ、穏やかな表情で海を見下ろしていた。

 元は九頭龍財団が所有していたテナントビルを買い取り、彼女はそこに自らの法律事務所を立ち上げていた。

 看板には金属製のプレートが掲げられている。

「七瀬法律事務所 ─ Memory for Justice」

 法とは、記憶を裁くもの。

 記憶とは、法を照らすもの。

 それは、蓮司と共に歩んだ旅の中で、彼女が手に入れた一つの確信だった。

「静かすぎて、逆に落ち着かないわね……」

 梓は自分の声に笑って、コーヒーを一口すする。

 彼女の耳元で揺れる、龍のピアスが陽の光を受けて小さくきらめいた。

 そのとき、静かなオフィスの扉がノックされた。

「……蓮司?」

 扉の向こうからは返事がなかった。

 だが彼女にはわかっていた。あの、妙に間の抜けた無音の気配は、彼しか持たない。

 梓がドアを開けると、そこには長い旅を終えたような表情の男が立っていた。

 龍ノ宮 蓮。

 法の外に生き、龍神の力と契約を結び直した、もう一人の裁く者。

「ちょっと散歩していたら、足が勝手にここに向かっていた」

「嘘つき。絶対来るって思っていたわ」

 再会を飾るにはあまりに素朴で、不器用な会話。

 でも、それが二人にとってはちょうど良い。

 蓮司はオフィスの中に入り、窓から虹浜を見下ろした。

「変わったな、この街も」

「ええ、でも……まだ全部じゃない。今度は、私たちがこの街を守る番よ」

「記録されない真実っていうのは、厄介だ。けど……それでも伝える価値があるなら、残すべきだろ」

 そして蓮司は、懐から一冊のノートを取り出す。

 黒革の表紙に、かすれた銀色の文字が刻まれていた。

《龍神記録──蓮司私信録》

「誰が読むかわからないけど、誰かに届くなら、それでいい。何があったのかを、なかったことにはしたくない」

 彼の手が震えていたのを、梓は気づいていた。

 それが寒さではなく、記憶の重みによるものであることも。

 梓は、静かに蓮司の隣に立ち、同じ景色を見つめた。

「大丈夫よ。あなたがそう決めたなら、私が証人になる」

 海の向こうに、うっすらと光の筋が伸びる。

 それは、まるで目に見えない虹が空へと架かりはじめたかのように。

 静寂の中、再び物語が動き出す音が、確かに聞こえた。


《蓮司、最後の依頼》


「なあ梓――俺に、最後の仕事をくれないか」

 コーヒーの湯気が静かに消えていく午後、

 龍ノ宮 蓮は、窓辺から顔を背けて言った。

 彼の瞳は、もうかつてのような闇を湛えてはいない。

 龍神との契約を果たし、封印の記憶を背負ったまま、それでもなお“生きる”ことを選んだ男の、澄んだ光。

「最後ってどういう意味? まさか、また姿を消すつもりじゃないでしょうね」

 梓は目を細め、少しだけ声を強めて返した。

 だが、その奥には淡い予感のようなものがあった。

 蓮司の「最後の仕事」という言葉は、別れの準備にも聞こえたからだ。

「いや、どこへも行かないさ。ただ……始末をつけにいく。俺自身と、この街の過去と、そして龍神に」

 彼は、卓上に封筒を一通差し出した。

 中には、一枚の古びた地図と、数行の手紙が入っていた。

 それは、かつて虹浜が都市になる前の地図。

 そこには、現代の地図には存在しない、赤く塗りつぶされた区域が記されていた。

「《虹の零域》――地図に載らない最後の結界。九頭龍玄明が最後に封じた場所。そこに、まだ何かが残っている」

 梓は封筒を手に取り、ゆっくりと中身を読み解いた。

「……これは?」

「記憶にすら残せなかった鍵だよ。

 九頭龍財団が人間の倫理を超えて触れようとした、最初の記録。

 おそらく、俺が龍神の封印を解いたときに目を背けた、最後の真実だ」

 梓はしばらく黙っていたが、やがて決意を込めて言った。

「わかった。私があなたの依頼人になる。この街のすべての記憶を、法と記録でつなぎ直す。あなたが行くべき場所へ、私が法を携えて同行する」

 蓮司は驚いたように微笑んだ。

「……お前って、やっぱり強いな。俺には持てないものを、たくさん持っている」

「だったら、黙って一人で背負わないで。二人で行きましょう、龍神の始まりへ」

 そして二人は並んで立ち上がる。

 記憶なき都市・虹浜。

 神と法が交わったこの街で、最後に封じられた「真実」を暴くために。

 それが、蓮司にとっての最後の裁きであり、梓にとっての最初の未来だった。

 扉が開く。

 そして二人は、その先にある静かな地獄――

 虹の零域へと、再び歩き始めた。


《龍神との別れ》


「……静かだな」

 虹浜のはずれ、かつて《記憶裁判》が行われた地下聖域の跡地。

 瓦礫の隙間から淡い光が差し込み、ひび割れた石碑に虹色の影が揺れている。

 龍ノ宮 蓮は、その場に立ち尽くしていた。

 手には、封じの結界から解放された最後の龍神の核が、鈍く青い光を宿している。

 そのとき――彼の胸奥から、低く震えるような声が響いた。

《ようやく、このときが来たか。我が宿主よ》

 龍神――かつて彼と契約を交わした、古の力の主。

「お前の声も、もうこれで……最後になるんだな」

《そうだ。もはや我の力は不要。お前は自分の力で進むことを選んだ》

「……そうかも。だけど、感謝している。お前がいなければ、俺は……ここまでたどり着けなかった」

 龍神の声は、一瞬だけ静かになり、そして微かに柔らかくなった。

《我もまた、満たされた。絶望と共に生まれた我が魂が、希望と共に還れるのならば》

 蓮は手にしていた核を、石碑の中心にそっと置いた。

 結界は再び閉じることなく、静かに龍神の魂を抱きしめるように光を放った。

《最後に、一つだけ》

「ん?」

《なぜ、お前は生きるのか――かつて我が問うたその答えを、今、持っているか?》

 蓮は少しの間、目を閉じた。そして、ぽつりと呟く。

「……もう一度、誰かを守りたいと思えた。それが、俺の……生きる理由だ」

 しばしの沈黙ののち、微かな笑い声が心の奥底で響いた。

《ならば、よかろう。龍ノ宮 蓮――汝の名と魂に、永遠の加護を》

 その瞬間、青白い光が爆ぜるように弾け、蓮の身体を温かく包み込んだ。

 龍神は、完全に眠りについた。

 その存在は彼の内側から離れ、記憶の奥底へと還っていった。

「……さよなら、相棒」

 蓮はひとり言のように呟き、聖域を背にして歩き出した。

 龍神のいない彼の歩みは、しかし、力強く、迷いがなかった。

 神話は終わった。

 これからは、ただの人間として。

 彼は、法と記憶をたずさえながら、明日へと向かう。


《梓の答え》


 静かな海辺の遊歩道。

 風に揺れる小さな風鈴の音と、波のささやきだけが響いている。

 七瀬 梓は、手帳のページをめくっていた。

 そこには蓮司が遺した最後の裁判記録――封印都市・虹浜で起こったすべての事件の記録が、細かく綴られていた。

「――やっぱり、あなたは一人じゃなかった」

 独り言のようにつぶやくと、彼女はゆっくりと立ち上がり、海の方を見つめた。

 見慣れた背中が、波打ち際を歩いていた。

 龍ノ宮 蓮。かつて龍神の宿主として、数々の裁きをくぐり抜けた男。

 今は、ただの一人の人間として、生きようとする男。

「待たせたな」

 振り返った蓮の表情には、以前にはなかった穏やかさがあった。

 だが、梓は睨むように言う。

「……あんた、また勝手に背負っていたでしょう。

 何もかも終わらせたような顔して」

「いや、もう背負ってねぇよ。今は、支えてもらう気でいる。お前に、な」

 梓は、一瞬だけ驚いた顔をしたあと、ふっと微笑んだ。

「なら、弁護士としてあなたに答えを返すわ」

 彼女は手帳の最後のページを破り、蓮に手渡す。

 そこには一行だけ、丁寧な文字で書かれていた。

《あなたは、もう一人で戦わなくていい》

「これが、私の判決文。被告・龍ノ宮蓮に対し、無罪を宣告します。  そして――今後も私があなたの弁護人を務めます。人生すべて、ね」

「……それ、口約束じゃ済まされないぞ」

「だから“契約書にしたの。ちゃんと、効力あるわよ」

 二人の笑い声が、夕暮れの虹浜に優しく溶けていった。

 神を裁いた裁判は、終わった。

 だが、人として生きる戦いは、これからも続いていく。

 その道を、二人は肩を並べて歩いていく。

 ただの弁護士と依頼人としてではなく、魂の契約者として。


《虹の向こうの未来へ》


 数ヶ月後――

 虹浜には、ゆっくりとした復興の兆しが戻ってきていた。

 かつて封印されていた聖域は立ち入りが禁止され、龍神の神話は記録なき事件として風化していこうとしていた。

 だが、その記憶は確かに、生きた人々の中に残されていた。

「虹が出ている……」

 七瀬梓が見上げた空に、弧を描くように美しい七色の光が広がっていた。

 それは龍神の封印が解けた日と同じ、雨上がりの午後だった。

「奇跡、だな」

 隣に立つ蓮司が言う。

 かつて龍神と共に生きた男も、いまはごく普通の――それでもどこか、光をまとった存在になっていた。

 梓は鞄から一通の封筒を取り出す。

 宛名は「司法省・再審特別局」。

「これ、提出してきたわ。虹浜事件に関する記録の開示請求。あんたが封印された記憶を記した、あの記録――全部、開く」

「……お前、本気か?」

「私はもう、過去を隠す側じゃなくて、照らす側に立つと決めたの。  それが、この街に生き残った私たちの義務よ」

 蓮はしばらく黙っていたが、やがて静かに笑った。

「なら、俺は……その照らされた未来のほうを見ていくよ」

「ふふ、うまいこと言ったつもりでしょ。それ、録音しておくから」

「やめろって」

 二人はゆっくり歩き出す。

 海へと続く小道の先に、虹がまるで門のようにかかっていた。

 ――龍神は眠りについた。

 だが、その意志は、確かに受け継がれている。

「虹の向こうに、まだ知らない未来があるのよ。だから、私は……行く」

「俺も、行こう。もう一度、人として生きるために」

 それは新たな物語の始まりだった。

 裁きの時代を越え、失われた記憶を乗り越えた彼らが選んだ未来。

 正義も、愛も、怒りも、哀しみも。すべてを受け入れたその先にある、ただの人生。

 彼らの歩みの先には、きっとまた虹がかかる。

 そう信じて、今、新たな一歩が踏み出された。



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