表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍神弁護士  作者: 玄妙
1/10

序章 龍の夢と裁かれぬ罪

《虹浜の異変》


 その夜、虹浜では雨も風もなかった。

 だが、空気には何かがズレている感覚があった。地元の警備員たちはそれを「妙に静かすぎる」と表現し、ドローンもなぜか一帯の上空を迂回していた。

 午後十一時五十三分、湾岸再開発区域の第七コンテナヤードで、一人の青年が突然炎に包まれた。

 目撃者によれば、彼は全裸で地面に膝をつき、虚空を見上げながら叫んでいたという。

「来たんだ、また……空に龍がいる……見ている……俺を見ている!!」

 その言葉と同時に、彼の身体から炎のような光が噴き出した。

しかし、その光には熱がなかった。火災報知器も作動しなかった。

通報を受けて現場に急行した消防と警察が見たのは、焼け焦げたはずの青年の遺体と、無傷の地面だった。

 巡査の一人が唾を飲む。

「これは……発火点が、ない?」

 もう一人が呟く。

「どう見ても……燃えてない。なのに、焼けた匂いだけが……」

 検視官は黙って死体に近づき、そっと手袋越しに触れた。

肌は炭のように黒いが、焦げた布が一切ない。

コンテナの床もコンクリートの壁も、煤ひとつついていない。

「ここで何が起きたんだ……?」

その場の誰もがそう思った瞬間、足元に水音が響いた。

 見下ろすと――そこには、濡れた足跡が一列、真新しくついていた。

 死体のあった位置から、まっすぐコンテナの外へ向かって、大小の“龍の足”のような輪郭が刻まれている。

 しかも、それはまだ乾いていなかった。

 パトライトの赤が濡れたコンクリートを照らす。誰かが震える声で叫ぶ。

「これ……誰の足跡だ!?」

 静寂が戻る。空からは、虹がひとすじ――音もなく、夜空に浮かび始めていた。

 だがその虹は、七色ではなかった。

 青と金の、二色だけの虹。しかも、真下に“影”を落としていた――龍のような。


《七瀬梓の登場》


「――弁護人、今の発言を撤回してください」

 裁判長の冷静な声が、重く響いた。

 だが、七瀬梓は怯まなかった。

 弁護士バッジのついた紺色のスーツの袖を直しながら、凛とした口調で言い返した。

「撤回はいたしません。なぜなら、この裁判が最初から破綻しているからです」

 傍聴席がざわめく。

 東京地裁・第六法廷。夜間審理という異例の設定にしては、傍聴者はやけに多かった。社会部記者、地元メディア、正体不明の男たち。皆が、彼女の言葉に息を呑んでいた。

「弁護人、冷静に。証拠はすでに開示されています」

 検察側が口を挟む。

「開示されたように見せかけて、都合の悪い部分だけを除いている。防犯カメラの映像、前後五分が切られている。しかも、削除履歴が偽装されていた」

「証拠隠滅とでも?」

「――証拠の“操作”です」

 梓の声は冷たいが、決して感情的ではない。理路整然、だが内側には、怒りが燃えている。

 この事件――彼女が担当する被告は、虹浜地区で清掃員として働いていた青年。殺人容疑で起訴されたが、目撃証言も指紋もなく、あるのは“偶然そこにいた”というだけの状況証拠だけだった。

「彼はそこにいただけだ。何もしていない。だが、彼の人生はもう潰された」

「状況証拠が十分――」

「では聞きます。“状況”が誰かの手によって作られたものだったとしたら?

 それでも、あなたは“法”の名で裁けますか?」

 沈黙。

 裁判長がため息をつき、議事録担当に目配せをする。

「弁護人、これ以上の発言は遺憾ながら、裁判官の品位を問う懲戒対象と……」

「どうぞ、懲戒でも除名でも」

 梓は静かに頭を下げた。

「ただし、その前に……誰かがやらなきゃいけないんです。この国の“法”が壊れているという現実を、ちゃんと口に出すことを」

 彼女の目がまっすぐ前を見据える。

 その瞳は黒曜石のように深く、そしてわずかに濡れていた。だがその涙は、依頼人のために流れるものだった。

 法廷を後にした梓は、駐車場に向かう途中、スマホを確認する。

「虹浜でまた異常死体発見」というニュース速報が飛び込む。

「あの場所……また?」

 彼女の眉間に皺が寄る。

 不審死が続く湾岸の再開発地区――虹浜。その影には、巨大な“何か”がいる。

 既に警察も司法も、どこかの力に蝕まれている感覚がある。

「もう一度、現場を見るしかない」

 誰に言うでもなく呟き、梓はコートの裾を翻した。

 ヒールの音が、夜の静寂を小さく断つ。

 その足取りの先に、彼女はまだ知らない――“龍神”が待っている。


《龍ノ宮 蓮の登場》


 虹浜第七ヤード――。

 警察の規制線が張られ、事件現場は封鎖されていた。深夜零時を回ってなお、青白いライトが無人のコンテナ群を不気味に照らしている。

 その隙間を縫うように、七瀬梓は一人、足を踏み入れた。

 ――何かが、ある。

 論理ではない。勘でもない。体のどこか、“法”とは別の感覚が彼女を動かしていた。

 現場は静まり返っていた。

 だが、風のない場所で、彼女の髪がふと、揺れた。

 (……風?)

 そのときだった。

 コンテナの影から、ひとりの男が現れた。

 黒のロングコート。

 夜の中に溶け込むような佇まい。

 切れ長の目は、どこか異国のようでもあり、東洋の神像のようにも見えた。だが最も印象的だったのは――

 その瞳の色。

 月明かりに照らされて浮かび上がったのは、金色。

 それは、灯りでも反射でもなく、内から光っているように見えた。

「……誰?」

 梓が問いかける。手はジャケットの内側、銃のホルスターに添えていた。

 だが、男は答えない。ただ一歩、こちらに歩み寄る。足音は――ない。

 梓の視界に“濡れた足跡”が映る。そう、さっきの現場と同じ、水の気配。

「関係者なの? 警察か、報道か……それとも、九頭龍財団?」

 男は立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。

「この場所は、記憶を焼くには静かすぎる」

「だが……魂は、まだ焦げている」

「……は?」

 梓の眉が跳ねる。意味不明だ。だがその声には、不思議な説得力があった。

 男は目を細め、ゆっくりと足元の水たまりに視線を落とす。

「炎は、何も残さなかった」

「だが、“龍”は見ていたよ。今日もまた……ひとつ、忘れられた記憶が燃えた」

「……あなた、誰?」

 その問いに、男は初めて微笑んだ。

「龍ノ宮 りゅうのみや・れん。ただの――目撃者さ」

 空を見上げる蓮の背後に、ほんの一瞬――

 淡い金と青の“虹”のような光が浮かび上がった。

 梓がまばたきをした瞬間、光は消え、男の姿もそこにはなかった。

 (消えた……?)

 梓が立ち尽くしていると、耳元で風が囁いた。

「また、会うだろう。あなたは……“忘れていない人”だから」

 その夜、七瀬梓の夢には――一匹の龍が現れた。

 彼女はまだ知らない。

 あの男こそが、“裁かれぬ罪”を巡る最も深い闇と繋がっている存在であることを。


《不自然な圧力》


 翌朝。

 七瀬梓は眠れぬまま、事務所の資料棚をあさっていた。

「虹浜地区で起きた“焼死体事件”、これで七件目……どれも証拠が曖昧、関係者が沈黙。なのに、全部不起訴で処理されている」

 その手が止まる。

 一件だけ、供述調書に“龍”という言葉があった。だが、その一節は黒塗りになっていた。

 彼女は資料を持って、東京地検の担当検事に直談判へ向かう。

 だが、そこで耳にしたのは、あまりにも不自然な返答だった。

「――もうこの件に関しては、これ以上の調査は不要と判断された。上からの指示だ」

「上って……誰ですか?」

「……九頭龍財団の名前が出てくること自体、不自然だと思わないか?」

 九頭龍財団――

 政治家、医療、メディア、学術団体にも多額の寄付を行う日本有数の公益法人。

 名目上は伝統文化の保護・再生エネルギーの研究・地方支援などを掲げているが、実態はつかみにくい。

 だが梓は知っていた。この財団が法の外側から圧力をかけられる存在だということを。

 事務所に戻ると、さらに奇妙な出来事が待っていた。

 依頼人の青年が、突然「弁護を辞退してほしい」と言い出したのだ。

「すまない、先生……もう、いいんだ……全部、俺のせいだったってことで……」

「何を言っているの? あなたがやってないことは――」

「――龍が見ているんだ。俺、もう……忘れるから。何も見てない、何も聞いてない……だから、もう、関わらないでくれ……!」

 彼の手が震えていた。顔は土気色で、目の奥が壊れていた。

 何かが彼の中で、完全に折られたようだった。

 梓は静かに立ち上がる。

 怒りでも恐怖でもなく、冷たい確信が胸を満たしていく。

(これは……消されている。物理的じゃない、“記憶”が)

 一方そのころ――

 都心の超高層ビル、九頭龍財団本部。

 最上階、翡翠色の大理石が敷かれた応接室に、ひとりの男がいた。

 白髪混じりの黒髪をオールバックにし、銀縁のメガネ越しに東京の空を見下ろす。

 黒の三つ揃いスーツ。首元には、精巧な龍の紋章が彫られたチョーカー。

 ――九頭龍 玄明くずりゅう・げんめい

 口元に静かな微笑を浮かべながら、部下の報告に耳を傾ける。

「例の“蓮”が、動き始めました」

「そうか。では、封印が揺れたな」

「――梓という女。記録にある“忘却の系譜”のひとりだ。接触すれば、龍は目覚める」

 部下が問う。「計画を前倒ししますか?」

 玄明は、わずかに首を横に振った。

「いや……今は、ただ観察していればいい。

 神も人も、観察されていると気づいたとき、最も美しく崩れる」

 そして、東京湾の空に――

 誰にも見えない金と青の“龍の影”が、ゆっくりと姿を現そうとしていた。


《封じられた記憶》


 深夜――蓮司は、静かなアパートの一室にいた。

 六畳の畳部屋。家具は少なく、窓際に古い姿見の鏡と、和箪笥、茶器があるだけ。

 だが、空間には不思議な緊張感が漂っていた。まるで時が止まっているような、あるいは、ここだけ別の世界であるかのような。

 蓮司は正座の姿勢で、黙って鏡を見つめている。

 鏡の向こうに、もうひとりの自分がいる。

 無言で、同じ動きをなぞる“彼”――

 だがその目だけが違う。

 燃えるような金色。

 それは、蓮司が記憶から消し去ったはずの“もう一つの存在”の瞳だった。

「また……ここに戻ったのか」

 蓮司はそっと、額に手をやる。

 その指先には、鱗のような紋様が浮かび始めていた。

 触れるたび、記憶の奥で何かが軋む。

 ――水。

 ――火。

 ――血に濡れた空。

 ――そして、“あの声”。

「我らが災いならば、災いのままに眠るがいい。おまえの目が、真実を見ようとするかぎり――」

「龍よ、おまえは人になれぬ」

 記憶が、断片的に蘇る。

 それは太古の光景か、あるいは千年前の裁判か。

 蓮司は、法で裁かれぬ者として、かつて“神”の座を追われたのだ。

「……それでも」

 小さく、蓮司は呟く。

「それでも、俺は――もう一度、見届けたい。人が、人の手で“正しさ”を選ぶという、その姿を」

 ふと、机の上のスマホが震えた。

 画面には“七瀬梓”の文字。

 通話には出ず、ただその名前を見つめる。

 その瞬間――

 姿見の鏡が、淡く揺れた。

 鏡の中に映る“もうひとりの蓮司”が、唐突に、動きを止めた。

 そして口元だけが動く。

「……もう時間がない。次に会うとき、おまえは全てを思い出すだろう」

 鏡が、ひび割れた。

 ほんのわずかな音。だが、空間全体がそれに呼応するように、微かに震える。

 蓮司は目を閉じ、静かに立ち上がる。

 コートを羽織り、玄関に向かいながら独り言のように言った。

「忘れたのではない。忘れさせられたのだ。あの日から、すべては……」

 扉を開けると、空に浮かぶ――

 金と青の“二色の虹”が、静かにゆれていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ