序章 龍の夢と裁かれぬ罪
《虹浜の異変》
その夜、虹浜では雨も風もなかった。
だが、空気には何かがズレている感覚があった。地元の警備員たちはそれを「妙に静かすぎる」と表現し、ドローンもなぜか一帯の上空を迂回していた。
午後十一時五十三分、湾岸再開発区域の第七コンテナヤードで、一人の青年が突然炎に包まれた。
目撃者によれば、彼は全裸で地面に膝をつき、虚空を見上げながら叫んでいたという。
「来たんだ、また……空に龍がいる……見ている……俺を見ている!!」
その言葉と同時に、彼の身体から炎のような光が噴き出した。
しかし、その光には熱がなかった。火災報知器も作動しなかった。
通報を受けて現場に急行した消防と警察が見たのは、焼け焦げたはずの青年の遺体と、無傷の地面だった。
巡査の一人が唾を飲む。
「これは……発火点が、ない?」
もう一人が呟く。
「どう見ても……燃えてない。なのに、焼けた匂いだけが……」
検視官は黙って死体に近づき、そっと手袋越しに触れた。
肌は炭のように黒いが、焦げた布が一切ない。
コンテナの床もコンクリートの壁も、煤ひとつついていない。
「ここで何が起きたんだ……?」
その場の誰もがそう思った瞬間、足元に水音が響いた。
見下ろすと――そこには、濡れた足跡が一列、真新しくついていた。
死体のあった位置から、まっすぐコンテナの外へ向かって、大小の“龍の足”のような輪郭が刻まれている。
しかも、それはまだ乾いていなかった。
パトライトの赤が濡れたコンクリートを照らす。誰かが震える声で叫ぶ。
「これ……誰の足跡だ!?」
静寂が戻る。空からは、虹がひとすじ――音もなく、夜空に浮かび始めていた。
だがその虹は、七色ではなかった。
青と金の、二色だけの虹。しかも、真下に“影”を落としていた――龍のような。
《七瀬梓の登場》
「――弁護人、今の発言を撤回してください」
裁判長の冷静な声が、重く響いた。
だが、七瀬梓は怯まなかった。
弁護士バッジのついた紺色のスーツの袖を直しながら、凛とした口調で言い返した。
「撤回はいたしません。なぜなら、この裁判が最初から破綻しているからです」
傍聴席がざわめく。
東京地裁・第六法廷。夜間審理という異例の設定にしては、傍聴者はやけに多かった。社会部記者、地元メディア、正体不明の男たち。皆が、彼女の言葉に息を呑んでいた。
「弁護人、冷静に。証拠はすでに開示されています」
検察側が口を挟む。
「開示されたように見せかけて、都合の悪い部分だけを除いている。防犯カメラの映像、前後五分が切られている。しかも、削除履歴が偽装されていた」
「証拠隠滅とでも?」
「――証拠の“操作”です」
梓の声は冷たいが、決して感情的ではない。理路整然、だが内側には、怒りが燃えている。
この事件――彼女が担当する被告は、虹浜地区で清掃員として働いていた青年。殺人容疑で起訴されたが、目撃証言も指紋もなく、あるのは“偶然そこにいた”というだけの状況証拠だけだった。
「彼はそこにいただけだ。何もしていない。だが、彼の人生はもう潰された」
「状況証拠が十分――」
「では聞きます。“状況”が誰かの手によって作られたものだったとしたら?
それでも、あなたは“法”の名で裁けますか?」
沈黙。
裁判長がため息をつき、議事録担当に目配せをする。
「弁護人、これ以上の発言は遺憾ながら、裁判官の品位を問う懲戒対象と……」
「どうぞ、懲戒でも除名でも」
梓は静かに頭を下げた。
「ただし、その前に……誰かがやらなきゃいけないんです。この国の“法”が壊れているという現実を、ちゃんと口に出すことを」
彼女の目がまっすぐ前を見据える。
その瞳は黒曜石のように深く、そしてわずかに濡れていた。だがその涙は、依頼人のために流れるものだった。
法廷を後にした梓は、駐車場に向かう途中、スマホを確認する。
「虹浜でまた異常死体発見」というニュース速報が飛び込む。
「あの場所……また?」
彼女の眉間に皺が寄る。
不審死が続く湾岸の再開発地区――虹浜。その影には、巨大な“何か”がいる。
既に警察も司法も、どこかの力に蝕まれている感覚がある。
「もう一度、現場を見るしかない」
誰に言うでもなく呟き、梓はコートの裾を翻した。
ヒールの音が、夜の静寂を小さく断つ。
その足取りの先に、彼女はまだ知らない――“龍神”が待っている。
《龍ノ宮 蓮の登場》
虹浜第七ヤード――。
警察の規制線が張られ、事件現場は封鎖されていた。深夜零時を回ってなお、青白いライトが無人のコンテナ群を不気味に照らしている。
その隙間を縫うように、七瀬梓は一人、足を踏み入れた。
――何かが、ある。
論理ではない。勘でもない。体のどこか、“法”とは別の感覚が彼女を動かしていた。
現場は静まり返っていた。
だが、風のない場所で、彼女の髪がふと、揺れた。
(……風?)
そのときだった。
コンテナの影から、ひとりの男が現れた。
黒のロングコート。
夜の中に溶け込むような佇まい。
切れ長の目は、どこか異国のようでもあり、東洋の神像のようにも見えた。だが最も印象的だったのは――
その瞳の色。
月明かりに照らされて浮かび上がったのは、金色。
それは、灯りでも反射でもなく、内から光っているように見えた。
「……誰?」
梓が問いかける。手はジャケットの内側、銃のホルスターに添えていた。
だが、男は答えない。ただ一歩、こちらに歩み寄る。足音は――ない。
梓の視界に“濡れた足跡”が映る。そう、さっきの現場と同じ、水の気配。
「関係者なの? 警察か、報道か……それとも、九頭龍財団?」
男は立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。
「この場所は、記憶を焼くには静かすぎる」
「だが……魂は、まだ焦げている」
「……は?」
梓の眉が跳ねる。意味不明だ。だがその声には、不思議な説得力があった。
男は目を細め、ゆっくりと足元の水たまりに視線を落とす。
「炎は、何も残さなかった」
「だが、“龍”は見ていたよ。今日もまた……ひとつ、忘れられた記憶が燃えた」
「……あなた、誰?」
その問いに、男は初めて微笑んだ。
「龍ノ宮 蓮。ただの――目撃者さ」
空を見上げる蓮の背後に、ほんの一瞬――
淡い金と青の“虹”のような光が浮かび上がった。
梓がまばたきをした瞬間、光は消え、男の姿もそこにはなかった。
(消えた……?)
梓が立ち尽くしていると、耳元で風が囁いた。
「また、会うだろう。あなたは……“忘れていない人”だから」
その夜、七瀬梓の夢には――一匹の龍が現れた。
彼女はまだ知らない。
あの男こそが、“裁かれぬ罪”を巡る最も深い闇と繋がっている存在であることを。
《不自然な圧力》
翌朝。
七瀬梓は眠れぬまま、事務所の資料棚をあさっていた。
「虹浜地区で起きた“焼死体事件”、これで七件目……どれも証拠が曖昧、関係者が沈黙。なのに、全部不起訴で処理されている」
その手が止まる。
一件だけ、供述調書に“龍”という言葉があった。だが、その一節は黒塗りになっていた。
彼女は資料を持って、東京地検の担当検事に直談判へ向かう。
だが、そこで耳にしたのは、あまりにも不自然な返答だった。
「――もうこの件に関しては、これ以上の調査は不要と判断された。上からの指示だ」
「上って……誰ですか?」
「……九頭龍財団の名前が出てくること自体、不自然だと思わないか?」
九頭龍財団――
政治家、医療、メディア、学術団体にも多額の寄付を行う日本有数の公益法人。
名目上は伝統文化の保護・再生エネルギーの研究・地方支援などを掲げているが、実態はつかみにくい。
だが梓は知っていた。この財団が法の外側から圧力をかけられる存在だということを。
事務所に戻ると、さらに奇妙な出来事が待っていた。
依頼人の青年が、突然「弁護を辞退してほしい」と言い出したのだ。
「すまない、先生……もう、いいんだ……全部、俺のせいだったってことで……」
「何を言っているの? あなたがやってないことは――」
「――龍が見ているんだ。俺、もう……忘れるから。何も見てない、何も聞いてない……だから、もう、関わらないでくれ……!」
彼の手が震えていた。顔は土気色で、目の奥が壊れていた。
何かが彼の中で、完全に折られたようだった。
梓は静かに立ち上がる。
怒りでも恐怖でもなく、冷たい確信が胸を満たしていく。
(これは……消されている。物理的じゃない、“記憶”が)
一方そのころ――
都心の超高層ビル、九頭龍財団本部。
最上階、翡翠色の大理石が敷かれた応接室に、ひとりの男がいた。
白髪混じりの黒髪をオールバックにし、銀縁のメガネ越しに東京の空を見下ろす。
黒の三つ揃いスーツ。首元には、精巧な龍の紋章が彫られたチョーカー。
――九頭龍 玄明。
口元に静かな微笑を浮かべながら、部下の報告に耳を傾ける。
「例の“蓮”が、動き始めました」
「そうか。では、封印が揺れたな」
「――梓という女。記録にある“忘却の系譜”のひとりだ。接触すれば、龍は目覚める」
部下が問う。「計画を前倒ししますか?」
玄明は、わずかに首を横に振った。
「いや……今は、ただ観察していればいい。
神も人も、観察されていると気づいたとき、最も美しく崩れる」
そして、東京湾の空に――
誰にも見えない金と青の“龍の影”が、ゆっくりと姿を現そうとしていた。
《封じられた記憶》
深夜――蓮司は、静かなアパートの一室にいた。
六畳の畳部屋。家具は少なく、窓際に古い姿見の鏡と、和箪笥、茶器があるだけ。
だが、空間には不思議な緊張感が漂っていた。まるで時が止まっているような、あるいは、ここだけ別の世界であるかのような。
蓮司は正座の姿勢で、黙って鏡を見つめている。
鏡の向こうに、もうひとりの自分がいる。
無言で、同じ動きをなぞる“彼”――
だがその目だけが違う。
燃えるような金色。
それは、蓮司が記憶から消し去ったはずの“もう一つの存在”の瞳だった。
「また……ここに戻ったのか」
蓮司はそっと、額に手をやる。
その指先には、鱗のような紋様が浮かび始めていた。
触れるたび、記憶の奥で何かが軋む。
――水。
――火。
――血に濡れた空。
――そして、“あの声”。
「我らが災いならば、災いのままに眠るがいい。おまえの目が、真実を見ようとするかぎり――」
「龍よ、おまえは人になれぬ」
記憶が、断片的に蘇る。
それは太古の光景か、あるいは千年前の裁判か。
蓮司は、法で裁かれぬ者として、かつて“神”の座を追われたのだ。
「……それでも」
小さく、蓮司は呟く。
「それでも、俺は――もう一度、見届けたい。人が、人の手で“正しさ”を選ぶという、その姿を」
ふと、机の上のスマホが震えた。
画面には“七瀬梓”の文字。
通話には出ず、ただその名前を見つめる。
その瞬間――
姿見の鏡が、淡く揺れた。
鏡の中に映る“もうひとりの蓮司”が、唐突に、動きを止めた。
そして口元だけが動く。
「……もう時間がない。次に会うとき、おまえは全てを思い出すだろう」
鏡が、ひび割れた。
ほんのわずかな音。だが、空間全体がそれに呼応するように、微かに震える。
蓮司は目を閉じ、静かに立ち上がる。
コートを羽織り、玄関に向かいながら独り言のように言った。
「忘れたのではない。忘れさせられたのだ。あの日から、すべては……」
扉を開けると、空に浮かぶ――
金と青の“二色の虹”が、静かにゆれていた。