第085話
「お姉ちゃん、魔法をお願い!」
「……」
ユーリは姉に声をかけるも返事がない。
「……お姉ちゃん?」
ユーリの言葉がようやく届いたのか、フィオレは顔を……青白い顔を上げてユーリを見て、言った。
「……気持ち悪い」
そう、船酔いである。
海が初めてのフィオレ。当然波に揺れる舟も初めてである。
そして揺れる舟の上で飽きもせずに水中スコープで水中を覗き続けていたのだ。酔わないわけが無い。
「お姉ちゃん、大丈夫……?」
「だ、大丈夫……いま、魔法、使うから……」
フィオレは数回深呼吸をし息を整えてから、その美しい唇から祝詞を紡ぎ始める。
「水の、精霊、水脈と、なりて、舟ヲロロロロロ……」
残念ながらその美しい唇から出てきたのは吐瀉物であった。
キラキラと光る水面に流れる吐瀉物。色とりどりの魚たちが寄ってきた。美しいか判断に迷う光景である。
「お、お姉ちゃん!?」
「ケホッ……ごめんなさい、ちょっと、休ませて……」
海水で口をすすぐフィオレ。
息荒く肩で息をしている美少女の姿に、レイは変な扉を開きそうになる。
「レイ!」
「は、はいっ!」
ヘリングの鋭い声に我に返る。
「このままだと不味い! とりあえず全力で漕ぐぞ!」
重たい網にニメートル級のダイオウクラゲが掛かっているのだ。水の抵抗はそれはそれは大きい。
海流に押し流され、舟は沖の方へと動き始める。
レイも状況の悪さに気がついて慌てて櫂を手に取り船を漕ぎ始めた。
ヘリングとレイで必死に漕ぐも、中々陸に近づかない。ジリ貧状態だ。
もし今この瞬間に色無鮫に襲われたらひとたまりもないだろう。いっそ網を捨てて陸に戻ろうか。ヘリングがそう考え始めた時、
「水の精霊、水脈と、なりて、舟を、導け……」
グンと、舟が動き始めた。
フィオレ、ようやくの復活である。
「す、すっげぇ!」
「これが、魔法の力か……」
「がはは! 漕ぐ必要がないな! こりゃいいぜ!」
「お姉ちゃん、すごーい!」
四人からの称賛の声に、フィオレは青白い顔に少しだけ笑みを浮かべた。
腐っても魔法使い、吐いても美少女なフィオレであった。実際のところ、この体調不良でこれだけの魔法を発動できる魔法使いはそうはいない。
「よし! レイとヘリングは周囲の警戒、ユーリは色無鮫の襲撃に備えて網をしっかりと握っておけ!」
カッドが檄を飛ばす。多少トラブルはあったものの、何とか体制を立て直した。
これで色無鮫を向い打つ体制は整った。色無鮫が来なくてもそれはそれで良しだ。
「お姉ちゃん、僕にしっかり捕まっててね」
「ありがとう」
色無鮫の体長はニメートルにも及ぶ。力の弱いフィオレでは、鮫が網に食らいついた衝撃で舟から投げ出されてしまう可能性もある。
ユーリに抱きつくことで癒やし効果があったのか、フィオレの船酔いも少しマシになり、舟は順調に進んでゆく。このまま浜まで戻れるか、そう思った時、
「……来た! 下からだ!」
レイが叫び、皆が身体に力を入れた瞬間、
ズバシャアッ!!
激しい水音ともに網にかかったダイオウクラゲの一部が食い千切られる。クリスタルのようにキラキラしたとした透明な魚の形が一瞬だけ見えた。色無鮫だ。
「ウワッ!」
ユーリは中に浮きそうな身体を、身体強化の出力を上げてこらえる。
カッドの舟ではカッドとヘリングの二人がかりで何とか抑え込んでいる様だ。鮫は歯とエラが網に引っかかった様で、バシャバシャともがいている。
「すごい! 本当に透明だ!」
ユーリはそのニメートルほどの魚影を見て感嘆の声をあげる。たしかにそこにいて藻掻いている筈なのに、実態が殆ど見えないのだ。
しかし感動ばかりしている場合ではない。鮫の勢に負けて、舟はまた徐々に沖へと流されていく。
予定ではレイとヘリングの二人で銛による攻撃で鮫の体力を奪いたいところだが……
「レイ! こっちは二人で抑えるので精一杯だ! 銛はお前に任せた!」
「う、うん!」
カッドとヘリングは網を抑えるので精一杯のようだ。
鮫が暴れて揺れる舟の上で、レイは銛を持って器用に立ち上がる。
背ビレに見える黒い点。昔父がつけた傷跡を目印に、頭と思しき所に狙いを定め、思い切り銛を投擲する。
しかし……
「くそっ!」
傷を与えはしたものの、浅い。致命傷にはほど遠く、透明な肌から多少血が流れる程度だ。
二本三本と投げるも、結果は同じである。
「レイじゃ腕力が足りねえか……」
狙いは外してないものの、まだ十歳に満たないレイでは威力が足りないようだ。
己の力不足に歯噛みするレイではあるが、その年齢を考えると十分な成果ではある。鮫の勢いを少し削ぐことには成功した。
「お姉ちゃん!」
「ま、任せて……」
フィオレはより魔力を込める。本調子では無いが、今できる限界まで高める。
時折抵抗する鮫に戻されながらも、それでも舟は浜へと向かって動き出す。
「いいぞ嬢ちゃん! ここまま浜に乗り上げればこっちのもんだ!」
2キロほど離れていた砂浜がグイグイと近づいてくる。残り三百メートル。朧気ながら漁師達の姿が目に入った。
「……ふぅ」
ずっと気張ってきたフィオレは、そこまで来て安堵の息を吐いた。
肩の力が抜ける。
「お姉ちゃん! だめっ!」
気が緩むということは込める魔力量も少なくなるということだ。
フッと網が緩んだ瞬間、好機とばかりに鮫が大暴れする。最後の力を振り絞っているのであろう。
舟は大きく傾き、フィオレが海に投げ飛ばされた。
「キャアアァァァァ!!」
悲鳴とともに海に投げ出されるフィオレ。海など数日前に初めて見たのだ、泳げるはずもない。
バシャバシャと水しぶきを上げてもがくフィオレ。溺れるのも時間の問題である。
当然そんな状態で魔法が継続できるわけもない。舟は推力を失いサメに主導権を取られる。
色無鮫の向かう先は……フィオレである。厄介な魔法使いを先に食い殺そうという魂胆だろうか。
「ど、どうしよう……!」
ユーリが焦る。助けに行くには網を手放さなければならない。しかし網を手放せば鮫はすぐにフィオレの元へ行きその牙をつきたてるであろう。デッドロック状態である。
ユーリ、カッド、ヘリングは網を持つので精一杯、動けるのは、
「俺が行くっ!」
レイだけである。
レイは何時も持っている銛……自分用に短く加工した銛を手に舟の縁に足をかける。
フィオレがいる方ではない、暴れる鮫の方の縁に。
「レイ、お前っ!」
「父ちゃんの腕のお返しだっ!!」
腕力が足りないのなら、別の要素で力を加えればいい。まだ子供とはいえ、レイの体重は三十キロ程だ。全体重を乗せた攻撃を喰らえば色無鮫とて相当の深手を負うだろう。
決死の攻撃の結果は……
ズムン
見事。敵が透明であるゆえ何処に刺さったのかはよくわからないが、それでもかなり手応えのある攻撃だったことに間違いない。
銛を手放しすぐに離脱しようとするレイ。しかし相手は海を生業とする強者。タダでは返してくれない。
不可視の攻撃がレイを強く打ち付けた。おそらく尾ビレで叩かれたのだろう。
「ガアッ!!」
ゴキリという鈍い音とレイのうめき声。幸い致命傷では無さそうだが、右腕があらぬ方向へとへし曲がっている。
弾かれた勢いのまま、幸いにもフィオレの近くへと飛ばされたレイ。
片腕と足だけで器用に水面に浮かんだレイの目に、今まさに水面下に沈んで行くフィオレが見えた。
「フィオレっ!」
普通なら片腕が折れた状態で潜水など出来ないだろう。しかし一目惚れした相手が今まさに沈んで行こうとしていれば話は別だ。
レイは痛む腕のことなど構いもせずにフィオレを追いかけた。
目をつむりガムシャラにもがくフィオレ。その手を何とか掴み、グンと水面に引き上げる。
「こなくそおぉぉぉぉぉぉぉ!!」
フィオレの襟を掴み舟へと泳ぎ、折れた腕に構うことなく渾身の力で舟へと押し上げる。
ドッと背中から舟の中に落ちたフィオレ。その衝撃で咳き込み、海水を吐き出した。
「お姉ちゃん! 大丈夫!?」
「ゲホッ……ゴホッ……ゆ、ユーリ? わ、私、溺れて……」
「レイが助けてくれたんだよ!」
フィオレは慌てて周囲を見回して、舟に片腕をかけぐったりとしているレイを見つけた。
「レイ君! 今助けるからっ!」
細腕で何とかレイを引き上げようとするも、水を吸った服をまとう子供を持ち上げることなど出来ようもない。
「俺は、いいから。魔法を……」
「レイ君……」
「大丈夫。浜まで捕まっておく力くらいあるから」
アドレナリンが切れ腕に激痛を覚えながらも、レイは脂汗の浮いた顔を笑顔の形にして言う。
「……分かった」
フィオレ、再度の詠唱。より強く、より大きく。
「水の精霊、大海原を流れる運河となりて、私達を推し進めよっ!!」
より大きな魔力、大きなイメージ。フィオレは渾身の魔力を注ぎ込む。
「動けええええええぇぇぇぇぇぇ!!」
先ほどとは比べ物にならない水量、水圧。舟、色無鮫、レイもろとも推し進める。
「は、はは。こりゃすげぇや……」
舟に捕まるレイは呆然と呟いた。自身を背中から推し進める水。ただ浮いているだけなのに、グングンと視界が進んでいく。あっという間にもう浜が見えてきた。
浜から大声で手をふる漁師達とニコラ。ずっと見守っていてくれたのだろう。
笑顔で手をふる彼らに向けて、フィオレが叫んだ。
「ど、退いてええええぇぇぇぇ!!」
魔法は止めた。しかしだからといって水の勢いが急に止まるわけもない。
とんでもない速度で向かってくる舟にようやく危機感を抱き、ニコラたちが慌てて散り散りになる。
ドバシャアッ
高波もかくやと言った勢いで舟と水が浜に打ち上げられる。
舟から放り出されるも、幸いみな無事だ。
とんでもない勢いで乗り上げてきた舟を呆然と眺める漁師達。
しばしの間の後、立ち上がったカッドが高く腕を突き上げて宣言した。
「色無鮫、討ち取ったりいいぃぃぃぃ!!」
一呼吸おいて、大歓声が響いた。