第056話
「おばちゃーん。初等部一年鉛クラスのナターシャの部屋ってどこー?」
女子寮。それは男子禁制の花園。男がその花園に足を踏み入れることは決して許されない。入ったが最後、袋叩きに合い、変態のレッテルを貼られ、卒業まで女生徒全員から白い目で見られるのである。
そんな花園の寮母に、ユーリはあろうことか普通に話しかけていた。
「ん? お友達かい? あんまり個人の部屋を教えるのは良くないんだけど、まぁお嬢ちゃんならいいかな。えっとねぇ、二階の一番奥から一個手前の部屋だよ。今度からちゃんとお友達に部屋を聞いてから遊びに行くんだよ?」
「はーい、ありがと!」
笑顔で礼を言い走り去るユーリに、笑顔を返す寮母。
「はて、あんな子、学園にいたかしらねぇ。歳を取ると忘れっぽくなるもんだねぇ」
あーやだやだ。歳は取りたくないねぇとぼやく寮母であった。
ユーリはナターシャの部屋の扉をノックする。
「……はい」
ガチャリと扉が開くと、ネグリジェ姿の気だるそうなナターシャが扉を開き、そして驚きの顔になる。
「あなたっ! どうして……っ!?」
「約束したから。持ってきたよ、ナイアードの泉の水」
「そうじゃなくてっ! あぁもう、いいから入って、早く!」
ナターシャはキョロキョロと周りを見回してからユーリを部屋に引き入れる。ナターシャの部屋は質素ながらも、おいてある品はどれも高級品だ。
机や椅子は備え付けのものは学園に返却し、オークの木の机と革張りの椅子になっているし、置いてあるランタンはひと目見ただけで高級品と分かる細工が施してある。
水差しも、茶器も、革でできたポーチも。全部が全部高級品である。
「とりあえずそこ、座って」
「ありがと。うわっ!」
ユーリが座ったベッドも、信じられないほどふかふかだ。さぞかしよく眠れることだろう。
しかしよく寝ているはずのナターシャは目の隈が濃く疲れているように見える。
「あなた、よく私の部屋がわかったわね。誰に聞いたの?」
「寮母のおばさんだよ」
「あなた寮母に話しかけたの!? なのにどうして……」
言いながらナターシャはユーリを見る。
「あ、いえ、まぁ当然ね……」
どこから見ても美幼女である。身体中に重たそうな水筒をぶら下げているという妙ちくりんな格好でも、美幼女である。
制服だったら流石に男だと分かっただろうが、幸か不幸かユーリは男女兼用の運動着であった。
「あのねユーリ。一応警告しておくけれど、女子寮は男子禁制なの。本来なら寮母に見つかった時点で懲罰物なのよ?」
「でも僕は大丈夫だったよ?」
「それはあなたが女の子にしかみえないからよ」
「え、僕男の子なのに?」
「ああもう、ややこしいわねぇ」
ナターシャは額に手を当てて項を垂れた。
「もういいわ。それで、今日はどうしたの? そしてその妙な格好は何?」
「そうそう、ナターシャが欲しがってたナイアードの住む泉の水、持って帰ってきたよ」
「え、泉の水って……」
ユーリは机の上に水筒をドン、ドンと置いていく。途中一つの水筒を置いて、気がついたようにそれは自分の足元に置き直す。
良かった。事故は起こらなかった。
「はい、とりあえずこれだけ持ってきたけど、足りそう?」
「これだけって……」
ナターシャは絶句する。ナイアードの泉の水は、そんなに入手難易度が低い訳では無い。入手が難しいという訳では無いが、液体なので重たい上に、ナイアードが森の奥に住んでいるので運搬が困難なのである。
それをこんなにたくさん。しかもこんなに小さな少年が。
本来であればまっさきに嘘をついていると考えるだろう。しかしナターシャは知っている。目の前の可愛らしい少年が、嘘をつくどころかそんなことを思いつきもしない程に純粋であることを。
「一応長持ちするように錬金術をかけた水筒だけど、効果を確かめたわけじゃないから早めに使ってね」
「え、えぇ……」
ひとまずはコップ一杯分でも飲んでみて確かめてみよう。そう思ったエレノアは水筒からコップに水を注ぎ、粉末の薬とともに飲み飲む。
「……すごい」
スゥッとナターシャの身体から気だるさが抜けた。流石に完全回復とは行かないが、それでもかなり正常な状態に近づいた。
「どう?」
「初めて飲んだけれど、本物ね、これ。ここまで効果があるとは思わなかったわ」
「ほんとに!? よかったー!」
ナターシャに喜んでもらえたので、ユーリも頑張った甲斐があったというものだ。
「でも、こんなにたくさん貰っていいの? 運ぶの大変だったでしょうに」
「ナターシャの為にがんばったんだもん、貰ってくれないと困るよ!」
そう言って屈託なく笑うユーリに、つられてナターシャも笑ってしまう。
いつぶりだろうか、こんなに自然と笑みが出たのは。
「そういえばナターシャの部屋のものって、何か立派だよね。ベッドもフカフカだし。僕の部屋のとは全然ちがうや」
キョロキョロと見回しながらユーリが言う。
「当たり前よ。学園の備品じゃないもの」
「え? もしかして私物?」
「そうよ」
「へー! すごい! お金持ちなんだ!」
すごいなーと素直に感心するユーリに、ナターシャはもしかして、と気がつく。
この純粋な少年は、私が何者なのかさえ知らないのではないか、と。
「ユーリ。あなた、私が誰だか知ってる?」
「え? ナターシャでしょ? 違うの?」
ナターシャの考えは的中する。
知らないのだ、この少年は。ナターシャがベルベット領主の娘であることを。
「一応、自己紹介しておくわ。私は……」
ナターシャはそこまで言って言葉を止めた。もし自分の生まれを知ったら、ユーリはどう思うだろうか。
今までのように砕けた態度ではなくなってしまうのではないか。
私に笑いかけてくれることはなくなるのでは無いか。そんな不安がよぎる。
ナターシャは自分の浅ましさに自嘲する。出会った当初は自分からユーリのことを邪険に扱っていたくせに、少し優しくされたらこれだ。
ため息を一つ。
「私は、ナターシャ・ベルベット。ベルベット領主の娘よ」
さて、どんな反応が返ってくるだろうか。ナターシャは横目でユーリを伺い見る。
税ばかりを取り豪奢な暮らしをしている貴族は嫌われる。笑顔ですり寄ってくる領民たちの心内など、畏怖と嫌悪、または媚態のどれかである。
果たしてユーリの反応は……
「へー、そうなんだ。あ、領主様ってさ、やっぱり身体がすごく大きいの?」
「えっと……どうしてそんなことを聞くのよ」
「だってさ、あーんなにおっきなお城に住んでるんだもん! 扉も大きいし! すごく体が大きいんだろうなーって思って!」
あんまりだ。あんまり過ぎるユーリの言葉に、ナターシャの思考がフリーズする。目を見開き口をぽかんと開け……
「ナターシャ?」
「ぶふっ!」
吹き出した。
笑いを抑えようとすればするほど可笑しくなってしまう。
家が大きい、つまり身体も大きいだなんて、ユーリはそんなことしか考えていなかったのだ。
「ふ……ちょ、ちょっとまって……ふふふ、ふふふふふ」
「どうしたの? ナターシャ?」
「ふぅー、ふぅー……ぐふっ……ん、ンフ……」
ツボに入ったらしく、ナターシャは細い体を抱きしめながら、しばらく笑っていた。
ようやく落ち着いたナターシャが目尻の涙を拭いながら答える。
「あー、可笑しかった。父は別にそんなに大きくないわよ。普通よ」
「え、そうなんだ……」
どこか残念そうに言うユーリである。
ナターシャは笑い出しそうになるのをこらえるために自身の腿を抓りながら話す。
「あなたって不思議な人ね。妙に意志が強かったり妙に世間知らずだったり……」
「そうかな?」
「そうよ……ふふっ」
ナターシャはまたしても思い出し笑いしてしまう。
少しずつ、この不思議な少年に惹かれていくナターシャであった。




