一話 根菜うどん
じっとりとした生暖かさが肌に絡みついてくる6月中旬。中小企業の広告代理店に勤める私、大山いずみは人もまばらな終電に揺られ窓の外を眺めている。明日のために何か胃に詰め込まなきゃ。とも思うけど、どうも食欲が沸かない。どうしても忙しさにかまけて昼食が雑になってしまう分、夜に栄養があるものを食べなければ。と思っているが、毎日この時間に帰ってくるからか、疲れからか食事を作る気にならない。コンビニで食事を買うならまだましな方。それすらも面倒な時は何も食べずに寝てしまう。
ふと、流れる車窓に座っている自分の姿を見つめる。ボサボサの手入れをしていない黒髪に日に焼けていない白い肌はカサカサと乾燥していた。大きな丸眼鏡の下にはここ数年で親友になった隈が居座っている。大学時代のおしゃれを素直に楽しんでいた自分が懐かしくなりため息を付く。そんなことを考えていると最寄りについた。最近会社へ行きやすいからと引っ越した繁華街を抜けた先の寂れた住宅街が私の家だ。ネオンの明かりで昼間のようにまぶしい町並みを抜けようと足早で歩いていると不意にスマホが震える。何ごとかと画面を見ると地元の母からだった。何か緊急の用事があるのかと電話を取る。
「あんた、しばらく連絡も寄越さないで。最近はどうなのよ、彼氏の一人でもできたの?」
電話口の母の底抜けに明るい声に脱力する。そして、いつものように彼氏だなんだとまくし立てるおしゃべりな彼女に眉間を揉む。
「いないよ。お仕事が忙しくて作る時間も気力もないんだって」
「またそんなこと言って。婚期逃すわよ。お母さんなんて、あんたの年の時には子供が二人いたんだから…」
「はいはい、その話は聞き飽きたよ。今のところそっちに戻って生活するつもりはないから」
まだ話そうとしてくる母の声を遮るように通話を切ってため息を一つこぼす。田舎から出たことない母は女の幸せは結婚をして子供を育てることだと本気で思っている。それを否定するつもりはない。でも、私はこの仕事にやりがいがあるし、クライアントからお礼の言葉や満足だといった声を聞けることが幸せになっている。
最近、いい出会いがないのなら田舎まで帰ってきて見合いをしてこっちで生活をしろと言われたばかりだ。きっと、気の弱い私の心をすり減らす生活になってしまう。そんなのごめんだ。
明かりもまばらな寂れた町の中、裏路地に優しいオレンジ色の光を見つけた。今まで気が付かなかったけど、喫茶店のようなアンティーク調のレトロモダンな店内が見えて吸い込まれるようにそちらへ歩き出す。大きな窓から覗く店内は木製の椅子と机に本棚の中にはどこかで見たことあるような年季の入った漫画が所狭しと肩を並べている。
絵に描いたような喫茶店に見惚れているとひょこりと視界の端に茶色いふわふわが映る。なんだとチラリとそちらに目をやると、背の高い茶髪の青年がこちらをニコニコと見ていた。目が合うとさらに笑みを浮かべた口元には深いえくぼが刻まれていた。おいでおいで、とばかり手招きをされるがままに店内に入る。
「す、すみませんっ。つい素敵な店内で見とれちゃって…」
「いらっしゃいませ。気になさらないでください。素敵なんて言われてうれしくないなんてことはありませんから。」
見た目よりも落ち着いた声音が迎え入れてくれた店内は、優しいだしの香りとちょうどいい室温でまぶしくない程度の照明。とても居心地がよさそうな空間だった。なぜ、だしの香りがするのか少し不思議に思うが、勧められるがままにカウンターへ座る。
「当店は日中は普通の喫茶店ですが、金曜の夜から朝方にかけてだけ深夜営業をしてるんです。こちらメニューです。」
渡された手書きであろうメニュー表には、『本日のうどん 根菜うどん』とでかでかと書いていた。そのほかはドリンクメニューしかないが、こちらはカモミールティーやラベンダーティーなどのハーブティーが効能とともに書かれていた。
どうしよう、うどんとハーブティーって合うのかな。と悩んでいると頭上から声が聞こえる。
「うどんだけでもいいですし、ドリンクだけ注文されても大丈夫ですよ。それに、ドリンクを食後にって注文も可能ですよ」
考えていることを見抜かれ、恥ずかしくなる。その様子が面白いのか喉仏を上下させながらクスクス笑う彼に戸惑うが、とりあえず注文しなきゃ待たせるのもよくないと注文をする。
「と、とりあえずうどんだけっ」
「承りました。少々お待ちください」
まだコロコロと笑う彼がキッチンに引っ込むと、店内を見回す。古びた漫画たちは実家にいた頃夢見がちな母が愛読していた少女漫画がちらほら。少年漫画も置いてあり昔から連載をしている有名なものがあった。ここのお店の店主の趣味かな?と思いながら本棚を見ていると目の前に湯気が立ち上るどんぶりが置かれる。
「漫画、お好きなんですか?」
「あ、いえ…。母が読んでいたのがあって懐かしくなってきちゃって…」
カウンター越しに納得したようにうなずく彼を横目にお腹が空いたと鳴き声を上げる。いただきます。と手を合わせうどんを一口すする。甘めの優しいお出汁につるつるもちもちとしたうどんが良く合っている。…最近食べた食事の中でダントツにおいしい。つゆに鶏肉の甘みと根菜の出汁が溶けて複雑ながらも素朴なうまみがしみ出している。麺の上に乗っている大根をつまみ、一口。つゆがしみた大根は舌で押すだけでほろほろと崩れる。店員さんのことなんて忘れていると、嬉しそうに声が聞こえる。
「お気に召していただけたようでよかった。栄養一杯なのでたくさん食べてください」
「夢中で食べちゃってお恥ずかしい…」
「いえ、おいしそうに食べていただいて嬉しい限りです。」
お言葉に甘えて一気に全て食べきってしまう。久方ぶりに感じた満腹感に腹を撫でながらお会計をして店を出る。そういえば、お店の名前を見ていなかったと振り返るとそこには、『純喫茶 うつつ』と書いてあった。金曜日のこの時間にお店を開いてるって言ってたけ。ほかの日は日中に営業してるみたいだし、営業をしてるのを見かけたら寄ってみようかな。とオレンジ色の明かりを背に帰路へ付いた。