施しと惨殺
しまった、この服…寒い。
朝六時。夏用のデニムパンツにモコモコのセーター、ベンチコートといういで立ちでウォーキングに出た私は、薄暗い小道のど真ん中で冷え込みに身を震わせた。
秋に旅行に行った時に洗い替え用に持って行ったデニムパンツを、一度も穿かずに洗濯し直してしまうのももったいないなという貧乏人根性が災いした。微妙に丈が短いこともあり、足首までのソックスと裾の間に生足部分が露出していて…早朝の冷たい風のダイレクトアタックが身に染みるのなんの…。
着替えようか、しかし今から戻るとなると6:30からの公園のラジオ体操に間に合わなくなる。……まあ、歩いてるうちに気にならなくなるだろ。
気持ち早歩きで腿を高めに上げつつ、運動負荷を高めにして…凍える身体を暖めながら公園に向かう。
若干いつもより疲労感多めで毎朝ラジオ体操をしている池の前に到着した私は、いつものように上着を木の枝に引っ掛けて、両手をブンブン振り回しながら公園内の放送が始まるのを待つ。
時折顔なじみの近隣住民たちとあいさつを交わしつつ辺りを見渡すも…、まだ日は昇っていない。
吐く息は白く、公園内の街灯も光っている。
……もうすっかり冬なのだな。
真夏に眩しい太陽の光を浴びながら体操をしていた頃が懐かしい。
このあたりは藪蚊がすごくて、毎朝虫よけスプレーをしても刺されまくって大変だったのに、今はその影かたちもなく……。
うん?
かすかな違和感が気になって足元を見ると、一匹の蚊が…足首にはりついている。
一心不乱に血を吸う蚊は、私の視線には気がつかないようだ。
…いつ潰されるかわからないというのに、貪欲なことで。
こんなクソ寒い時期なのに、まだ蚊がいるのか。
もしかしたら、この公園内の、最後の一匹なのかもしれないな。
……さて、どうしたものか。
叩いて潰すもよし、見逃すもよし。
叩こうとして逃げられるかもしれない。
…この日も当たらぬ微塵も温もりのない空間で、孤独に人の足首に齧り付いた功績を認めてやるのもいいかもしれない。
……おそらく、この寒空の下では長く生き延びる事はできまい。
あと僅かの命だ、せめて最後の餞として、私の血を分け与えてしんぜよう。
戯れに慈悲の心を出しつつ、始まったラジオ体操の放送にあわせて…体をのばす。
腹がはちきれる前に寒空へと飛び立てよ…。
欲張りすぎて失墜したりするなよ…。
誰もお前の捕食を邪魔などしない、ゆっくり心ゆくまで吸うがいい…。
そんなことを思いながら、ラジオ体操を続ける。
寒空の下縮こまっていた身体が伸びて、血流が勢いを増していくのを感じる。
今、私の血液は…この上なく活きが良く、さぞかしうま味にあふれているに違いない。
両手を伸ばしグルグル回し!
膝を曲げて伸ばし!
身体を反らせ前に折り!
……パンッ!
手の平に衝撃、脛に刺激。
手の平と脛に挟まれて、破裂したものが一匹……。
しまった、つい…いつものクセで!
つい先程見逃すと、施すと決めたはずの蚊を…思いっきり、潰しちゃったじゃん!
ホントこのあたりの藪蚊はね、叩いても叩いても湧いて出てきて、いつの間にか前屈するときは足全体をバチンバチンと叩くクセがね!?
クソ寒くなったのに、真夏の条件反射が抜けなくてですね?!
…なんか、たっぷりぬか喜びさせて、すまんかった。
せめて立派に成仏して、来世で私の血をたんまり吸えよ……。
少々の罪悪感を胸に、いつも通りに体操を終え。
蚊に刺されたあとをボリボリかきながら、私は帰路についたという、お話。