1-6 女神降臨
ドミニクがマリアンヌの耳に「ある言葉」を囁いたその瞬間。
ギャアッ! という尾を踏まれた猫のような叫び声が礼拝堂に響いた。
同時に、「何か」が抜け出したマリアンヌの体がぐったりとドミニクに寄りかかるようにして倒れ込む。失神してしまったようだ。
叫び声の主は、目に見えない何かの力で押さえつけられているように、女神ルシダの祭壇にへばりついている。
ドミニクは椅子にマリアンヌを横たえ、女体に触れたことを神に許しを請うてから、その叫び声の主に近づいた。
「あなたですね、ルシダ島の『悪霊』は」
マリアンヌの体から飛び出し、石の祭壇に釘付けになっている「悪霊」をドミニクは見下ろす。
「『悪霊』、ですってえ……?」
女神ルシダの像をそのまま実体化させたような長い銀髪、ルシダ島の海と同じ水色の瞳、美しい象牙色のローブに身を包んだ「悪霊」は悔しそうな声を上げた。
「この私を悪霊呼ばわりするなんてどいつもこいつも人間は生意気だわ! 恩知らずで図々しいったらありゃしない! あなた、私を誰だと思っているの?! 誰だかわかってるんでしょうね?!」
押さえつける力から逃れるようにじたばたしている「悪霊」に、ドミニクは頷く。
「私は崇聖省調査局より参りました修道士のドミニク・クルスと申します。何があってどうしてこんなことをしているのか私にはわかりませんが、あなたは女神ルシダですね?」
そう、この「悪霊」こそが女神ルシダなのだ――というのがドミニクが導き出した答えだった。
先ほど、女神ルシダに憑依されたであろうマリアンヌに囁いたのは、悪霊祓いではなく「神格化した精霊を強制的に顕現させる」祝詞だった。
その結果は間違いなく目の前に現象として現れている。
「もお~~! おいしそうだったからちょっとかじろうとしただけなのに。いいじゃない、減るもんじゃないでしょっ」
女神のもの言いとは思えない言葉である。
「そういうわけにはいきません。私は修道士です。女性と情交を結ぶことは固く禁じられています」
「こんのクソマジメ! カタブツ! 据え膳食わぬはなんとやらって言葉知ってる?!」
「……念のためもう一度お伺いしますが、あなたは本当に女神ルシダですか?」
「そうよ! 他に誰がいるっていうのよ。いい加減この縛りを解きなさい人間!」
ドミニクは額に手を当てて思い悩んだ。
ルシダ島の女神は予想外に「予想外」だった。
しかし、ドミニク・クルスは聖国教会の修道士である。
国家と教会と神と民のため、身を捧げるのが彼の使命であり宿命である。
「女神ルシダ」
「何よ!」
女神は非常にお冠であった。
「あなたが仰るように、我々人間はあなたに対して図々しい恩知らずな存在なのかもしれません。しかし人々の信仰を集めてきた女神たるあなたがそういった考えを持つようになったのには何らかの理由があるのではありませんか? マルタを始めとする、あなたが本来慈しむべきこの島の人間たちをなぜ悪行に陥れたのか、教えてくださいますか」
ドミニクは微笑みながら、女神に真摯に尋ねた。
すると女神は口を尖らせた。
「教えて欲しい?」
「ええ」
「どうしても?」
「はい」
「ふうん、どうしよっかな~~」
そうねえと、女神は少し考え何かを思いついたらしい。
「キスしてくれたら教えてあげるわ!」
ふふん、と女神ルシダは得意げに言う。
「それは出来ません」
ドミニクはきっぱりと断った。
「はあ?! つまんない人間ね。じゃあ、教えてあげなーい」
そう言ってぷん、と横を向く。
――仕方ない。
ドミニクは神に許しを請うてから女神ルシダの元にひざまずき、彼女の右手を取りその甲に口づけした。
「これでよろしいですか」
女神を見上げてドミニクは言ったが、女神は「駄目」と言う。
「駄目よ、そんなの。ちゃんと唇にして。舌も入れるのよ舌も! うふふふ!」
ひとりで楽しそうな女神から離れ、ドミニクは両手の平を組み、静かに祝詞を唱えた。
すると、祭壇に押しつけられているルシダの体が稲妻のような強い光で覆われる。
「あだだだだ! 痛い痛いいったあい! 何これ?! ちょっとやめなさい人間!」
「もう一度お尋ねします。どうしてこの島の人々に悪行を働いたのか教えてくださいますね?」
「教える! 教えるからこのビリビリするのやめてッ!」
ドミニクが祝詞を唱えるのを止めると、光は消えた。
「何なのあなた。どこでそういうの覚えてくるのよ……。私、女神なんだけど」
「精霊を神格化させるのは我々人間です。ですから制御する力も当然備えております」
はあはあと息を乱している女神に説明する。もちろん、その力は霊力の高い者にしか扱えない代物だが。
「……わかったわよ、教えてあげるわ、下等生物。よく聞きなさい」
女神とは思えぬ舌打ちをしてから、女神ルシダは語り始める。
マルタは幼い頃より女神ルシダの礼拝堂によく通っていたのだという。
「私はずっと見てきたのよ、あの子のこと。小さいときからね。本当に可愛い子で、いつも一生懸命私に祈りを捧げてくれたわ。そういう子にはね、私はちゃんと幸せを授けてあげるの。でも、あの子の親父が家族の生活のためにあの子と彼氏を無理矢理別れさせて、島の外の金持ちと結婚させようとしたのは、あなたも知ってるわね?」
「ええ、もちろん」
ルシダは最後の夜に、彼女と元恋人を会わせてやったのだという。
この島を出て行くマルタへの餞別に。
「そういう人間の生活だとか金の問題だとかは私には関係ないけど、私は美しく慈悲深い女神だから、せめてマルタに良い思い出をって思って彼氏に会わせてあげただけなのに、あんのクソ親父が私のこと悪霊呼ばわりし始めて! ほんっと人間って愚かな下等生物だわ!」
キーッとルシダは怒り心頭である。
婚前に元恋人と会わせるのはやや浅慮だったかも知れないが、彼女としては厚意だったわけで、しかも「女神の加護」を「悪霊の仕業」と言ってしまうのは非常に罰当たりである。だが、これに関しては女神ルシダも自省の念はあるようだった。
「まあ、悪かったなって思うところもあるのよ。時期が良くなかったわよね。だから私もちょっと反省してたんだけど、羊飼いのクソガキのことまで私のせいにするからほんっともう頭にきたわけよ!」
「……それはどういうことでしょう」
「どうもこうも、クソガキはただ羊とヤってただけよ! 私は関係ないの! それをクソガキの親どもが悪霊の仕業だー! って騒ぎ出して」
「もしやあの時扉や窓が揺れたのは……」
「そうよ、私がやったのよ。自分たちの馬鹿息子がヤりたい盛りな馬鹿猿なだけなのに、他人のせいにするなんて図々しいったらありゃしない。それでもう私この島を守るとか人間を見守るとか加護を与えるとかどうでもよくなって、人間どもが崇めている像を出て愚かな人間どもに私の恐ろしさを知らしめてやってたのよ」
女に飽きた男どもに、新しい快楽を与えて堕落させた。
老い先短い老人に恥辱を味あわせた。
確かにそれらは破廉恥な悪霊の仕業に見えるが、本当は女神の「罰」だったのだ――一部喜んでいる者もいるが。
女神ルシダの加護は良縁、子授け、夫婦和合、子孫繁栄。
つまり、突き詰めれば単純に「性欲」なのである。
違う方向へ行っているように見えて、実は同じなのである。少々力の使い方が違うだけで。
「この島が潤っているのだって、女神たるこの私がいるからなのに。花祭りでどれだけ稼がせてやってると思ってるのかしらね。そんな私をどいつもこいつも悪霊扱い。本当に人間って図々しい下等生物だわ」
女神ルシダの言うことはもっともだった。
ドミニクは修道士として、ルシダ島の人々の浅はかさを謝罪した。
「ですが、夫と子のいる婦人を修道士にけしかけるのは女神として如何なものかと」
謝罪の最後に念のため苦言を申しておく。
「だって、あなた、私のことかぎ回って失礼な奴だなあって思って。それに、空いている穴があって余っている棒があったなら、どうしてもはめたくなっちゃうのよね~~」
女神はそう言いながらしみじみと頷く。
女神ルシダの加護は良縁、子授け、夫婦和合、子孫繁栄。
そう、力の使い方が違うだけなのだ。
しかしこれでルシダ島の「悪霊」の正体はわかった。
あとは、女神ルシダが神像に戻ってくれれば問題解決である。
「さて、女神ルシダ」
「なーにー? キスする気にでもなった?」
女神は眼を閉じて笑いながら口を尖らせる。
「しません。私は修道士です」
「チッ、固い奴ね! あのジジイみたいに起ちっぱなしにしてあげようか?!」
あはははと笑う女神に、ドミニクは先ほどの祝詞を再び唱えた。
「痛い痛い痛い! このビリビリ嫌い! やめてええ!!」
強い光に包まれた女神が叫ぶ。
「話を聞いていただけますか?」
「聞く聞く聞く!! 聞きますッ!!」
祝詞を止めると光は消えた。
「女神ルシダ」
「何よ!」
女神はぜえぜえと息を荒くしている。
「この世界には愚かで図々しい人間どもであふれています。ですが、彼らに祝福と加護を与えるのがあなたの務めです。どうかご自分の立場に誇りを持ってください」
そう、この俗世は愚かで図々しい人間でいっぱいである。
だが、そんな世界でも自らの務めに励むしかないのだ。
産まれながらに与えられた運命と宿命と共に。
「女神ルシダ」
「何よ」
ドミニクは女神ルシダの海色の瞳を見つめ語りかける。
「あなたはあなたの務めを果たしてください。私も私の務めを果たします。一緒に頑張りませんか」
そう言って女神ルシダに微笑むと、彼女は何かに気づいたような、何かを察知したかのような表情をした。
「……わかったわ。そこまで言うなら」
少し照れたように、女神ルシダは下を向く。
人間も神も女神も関係ない。
誰しもが果たさなければならない務めを持っている。
だから、一緒に頑張ろう――それぞれの場所で。