三木の籠城
この物語は、フィクションであり、実在の、人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
播磨三木城の籠城は、一年が過ぎた。城内では、武士、百姓の別なく、廊下や土間、地面の上にまで、人々が寝ていた。彼らは、痩せ衰え、体力も衰えて、意欲も落ち、ただ、粗末な食事と排泄の他は、何も動かず、屍のようになっていた。
「丹生山が取られましたな。」
「そうだな。」
本丸の奥で、城主、別所長治と弟の友之がそう言っていた頃、納戸の脇に一人の武者が立っていた。
「どうなされました?」
「うむ…。ああ、何でもない。」
武者の名は、別所吉親。彼も別所の一族で、城主の長治の叔父にあたる。彼は、人々からは、賀相と呼ばれていた。
「叔父上が如何したか?」
「不思議なことに、毎日、昼過ぎになると、納戸の奥で、壁に向かって、立っているのでござる。」
「何かしているのであろう。」
籠城に於いて、猜疑心は人を毒する。友之から、吉親のことを相談された長治は、必要以上に、人を疑わないように、自分を戒めていた。
実を言うと、納戸で、吉親は、骨をしゃぶっていた。先日、廓の周りを歩いていたときに、吉親はそれを拾った。親指程の大きさのそれは、馬の骨か人の骨か獣の骨か、何の骨かは分からない。当てもなく、ふらふらと歩いていた吉親は、それを見つけたとき、最初、白檀か何か香木の枯木かと思った。そして、持ち帰って、焚いて見ようと思ったとき、木ではないことに気付いた。試しに噛んでみると、妙に甘く感じて、こりこりとした。
「(まだか…。)」
納戸の格子窓の隙間から、昼日が差し込むとき、彼は、そこにいて、こりこりと骨を齧る。自分自身で決めた、その毎日の習慣が、彼にとっては、病みつきで、生きがいになっていた。
「(甘い…。)」
吉親は、噛むだけではなく、たまにそれをしゃぶってみる。吉親の歯形と唾液に満ちた骨は、吉親の脳内に過剰なドパミンを放出させていた。吉親は、それに依存した。
「叔父上…。」
長治であった。彼は、友之に、口では、素っ気なく言ったが、実のところは、吉親のことが、気になっていた。彼もまた、籠城中の猜疑心に毒されていた。
「うむ…。ああ、おぬしか。」
「かような所で何を…?」
「いや…。何でもない。」
吉親は骨を懐に隠したまま、長治の前から姿を消した。
「叔父上は、何か咥えておった…。」
友之に、長治はそう告げた。
「何かとは、何でござろうか。城内に食べ物は、ほとんど、ございませぬ。」
三木城を包囲している羽柴秀吉の部隊が丹生山を攻め取り、三木城は、完全に孤立した。もちろん、それ以前から、城内の食糧は尽き始めていた。
「摂津の荒木も行方をくらませ、有岡の城も落ちたと申します。」
「うむ…。もはや、これまでかも知れぬな。」
長治と友之の話は、吉親のことから離れていった。というのも、三木城への援軍も、補給の望みも、既に無くなっている。もう、彼らにできることは、ひとつしかなかった。
「待て。敵に降るなど、俺は許さぬぞ。」
「叔父上、いつからござった。」
「俺は、最後の一兵になっても、戦う。」
どかっと、吉親はその場に腰を下ろした。
「然れど、もはや、戦う兵もおりませぬ。百姓やその身内らに、これ以上、無理強いはできませぬ。」
「俺は知らぬ。俺はここに残る。骨の髄まで、武者振り付いてやる。」
「何を言うておられます?」
「分からなくて良い。」
そう言って、吉親は、座を離れようとした。が、最後に一言、言った。
「他の者には、地獄でも、俺にとっては、ここは極楽よ。」
それ以降、長治と友之は、吉親を避けるようになった。
「(美味い…。)」
相変わらず、吉親は、飽きることなく、毎昼、納戸の奥で、骨をしゃぶっていた。いつから、彼がこのようになってしまったのかは分からない。絶望と空腹の内にも、吉親は他の者たちとは、違った別の苦しみを抱えていたのであろうか。そして、ただ、このような得体のしれない奇怪な行動によってしか、それから逃避する術はなかったのかもしれない。
正月になり、長治と友之は、吉親を差し置いて、降伏を決めた。
「せめて、敵に一矢なりとも、報いたく存じまする。」
「ええい!!かようなこと俺に申すな。知ったことか!好きにしろ。」
「有難く存じまする。」
吉親の妻、波は、夫にそう言って、物の具に身を包み、痩せた馬を連れて行った。彼女は、討ち死にをしようと、城外に単騎駆けして、秀吉の陣中に矢を射かけた。
「名のある武者共、畠山が娘、波、推参なり。最期の暇乞いに、矢を一矢、参らすべし。」
馬上、弓を射て、羽柴の楯を汚したが、功名にもならぬ女と侮られ、相手にされず、鉄砲を撃ちかけられて、波は、為す術なく、城内へ撤退した。
「(今日は、いつにも増して、甘い…。)」
そのときも、吉親は、納戸の奥で、骨をしゃぶっていた。もはや、彼は、この骨をしゃぶるために、意味のない籠城をしているようなものであった。そして、吉親のこの行為を生み出す飢え殺しの状態こそが、彼の人生であり、住み処に他ならなかった。逆に、それらを邪魔するものは、彼にとっての悪であり、異常な事態であった。
「何がなんでも、俺は許さぬ。認めぬ。」
そんな吉親であるから、彼が、降伏と一族の切腹のことを聞いたときは、激怒し、叫び、暴れ、刀を抜き、人を斬った。
「渡さぬぞ!認めぬぞ!俺は、認めぬぞ!!」
「早よう誰か!!この痴れ者を何とかせい!!」
槍と刀が持って来られて、林のように列ねられた金属片に、吉親は、その身を貫かれた。幾本もの金属が刺さり、その背中からは、針山のように、刃が突き出された。
「何だ、これは…?」
血に塗れた板の間の上に、吉親の懐から、一片の骨の欠片が落ちた。その表面には、彼の歯形により、無数の刻印が成されて、また、彼の唾液により、骨からは、異臭が放たれていた。
「かような汚き物、どこで手に入れたのか…。」
長治は、着物の端で、それをひょいと掴むと、庭の雑木の積もったところに投げ捨てた。
「早く、それを始末して参れ。」
侮蔑するかのように、長治は吉親の遺体を示した。
「この者さえ、いなければ、こんな目には遭わなかったのかもしれぬな…。」
長治を説得し、織田に反旗を翻すことを決断させたのは、吉親であった。そんな彼が、最期の場に於いて、このような醜態を晒している。そんな彼を見る長治は、自分が叔父の後始末として、これから切腹しようとしているのではないかという陰鬱な気持ちになった。
「今はただ恨みもあらじ諸人の、命にかはる我身と思へば。」
1年10ヶ月に渡る籠城の末、別所長治は、そう言い残して、この世を去った。そんな彼は、どこか、自らに、そう言い聞かせることによって、やるせない我が身に、慰みを求めようとしていたのかもしれなかった。