77、くそじじい
‡
ミュリエルと話せたのは一週間ほど経ってからだった。私の微熱がなかなか引かないせいで、イリルが首を縦に振らなかったのだ。やっと平熱になった今日もお茶を一緒に飲むだけの間と言われている。
「大丈夫、そんなに長くならないわ」
元よりそんなに話が弾む姉妹ではない。自信を持ってそう言ったが、イリルは子犬のように濡れた瞳で心配そうに私を見つめた。安心させるように私は小さく笑う。
謹慎中のミュリエルの部屋の扉を叩くと、中からどうぞ、と返事がした。入ると、普通の客室だ。待遇は悪くないとイリルが言っていた通りだった。テーブルにはすでにお茶と焼き菓子が用意されている。だけどミュリエルの表情は固かった。
「お姉様、熱があったと聞いたけど」
「大したことはなかったんだけど、下がりきらなかったの。お待たせして悪かったわ」
「待ってなんかないわ」
ミュリエルは頬を膨らませて横を向く。私は苦笑した。
「座ってもいいかしら?」
「……どうぞ」
しばらくはどちらも喋らなかった。ニナがお茶を淹れる音だけが静かな部屋に響く。
「いい香りね」
恐れ入ります、とニナは頭を下げた。それをきっかけに控えていた者たちが全員、失礼しますと部屋を出て行った。あらかじめ言っておいたのだ。ミュリエルと二人になれるように。
しかし皆が出て行った途端、ミュリエルの瞳が揺れるのがわかった。
「どうしたの?」
聞いても答えはないが、探るように何度か瞬きをした。やがて、テーブルの向こうから上目遣いに口を開いた。
「お姉様」
「何かしら?」
「……お姉様も、あれ、見えた?」
なんのことかはすぐにわかった。私はカップを置いて頷く。
「あなたも見たのね」
ミュリエルはほっとしたように息を吐く。
「やっぱり……見間違いじゃなかったんだ」
「じゃあ、あれはやはり」
「お母様よ」
ミュリエルは自慢の金髪をくしゃくしゃとかきあげた。そして呻くように言う。
「ていうことは、お母様、ずっとお父様のそばにいたのかしら。私じゃなくてお父様のそばに? そしてやっと独り占めできて満足? ねえ、そういういうことかしら?」
私は何も言ってあげられなかった。その質問に答えられるのはエヴァ様だけだ。ミュリエルの口調は段々強くなる。
「なんなの? 私ってなんなの? ずっと会いたいって祈っていたのに、私なんて目もくれずにお父様のところに行くわけ? なんなのよ、ほんと。結局、みんな私のことなんてどうでもいいんだわ。お姉様はいいわよね。『聖なる者』だっけ? イリル様とも結婚するんでしょう? 私にはなんにもない。なんもないまま追い出されるんだ」
「待ってミュリエル」
私はミュリエルの言葉を遮った。
「あなたの処遇はまだ決まってないけど、追い出したりしないわよ。どこに行ってもあなたはオフラハーティの娘よ」
ミュリエルは私を睨むようにして言い返した。
「綺麗事はもうたくさん! 厄介払いが出来てちょうどいいじゃない! 前から思ってた通りよ」
「落ち着いてミュリエル」
私はミュリエルの目を見て問いかけた。
「思ってた通りってなに?」
ミュリエルは不貞腐れた顔をする。
「公爵家に引き取られたときから、どうせいつか追い出されるんだろうって思ってた。その通りになるだけよ」
「いつか追い出される? どうして?」
「平民の愛人の子なんて一番いらないでしょう? 予想以上にいい生活はさせてもらっていたけど、お父様の気が変わったら明日にでも追い出される。ずっとそう思ってた」
「ずっと? ずっとそんなふうに思ってたの?」
「知らなかった?」
「だってあなた、ずっとお父様に可愛がられてきたじゃない」
「それはお父様が私を『聖なる者』だと思ってたからでしょう? ねえ、お姉様」
今度はミュリエルが私の目を見て問いかけた。
「ーーお父様は本当に私を可愛がっていたと思う?」
私は答えに詰まる。ミュリエルは大人びた笑いを浮かべた。
「お姉様はいいわね、なんでも持っていて。ほんと、ずるいわ。羨ましい」
いつものミュリエルの言葉が、いつもとは違って聞こえた。私は思わず叫んだ。
「ああっ! もう!!」
「なによ?!」
気付いたら私は、ミュリエルのように髪をくしゃくしゃにかきあげていた。腹が立って仕方なかった。勢いのまま叫ぶ。
「お父様は見事に自分のことしか考えていなかったのね、引き取ったならちゃんと寄り添いなさいよ、父親のくせに! くそじじい!」
ミュリエルがぎょっとしたような顔で私を見たが、気にせず続けた。どうせここにはミュリエルと私の二人しかいないのだ。
「ああ!! 本当にくそじじいったらくそじじいよ。一回じゃ足りない! 生きているときもっと言ってやればよかった! あんなくそじじいに馬鹿みたいよね……私もミュリエルも……」
言いながら何故か涙が出て止まらなくなった。なんの涙かはわからない。ただ、気持ちを言葉にするたびに一緒に出てきた。くそじじい、くそじじい。くそじじい。イリルが私に教えてくれたたったひとつの悪い言葉。こんなに気持ちに一致するなんて思わなかった。どうしてそれを教えるのって聞いたら、いつか言いたくなるんじゃないってイリルは笑ってた。言葉には色んな意味が込められるしね、とも言っていた。
そのときはよくわからなかったけど、今はなんとなくわかる。今このときのくそじじいとあのとき父に向かって叫んだくそじじいは、同じ単語でもちょっと違う。何が違うかはわからない。でも違う。
「これ」
いつの間にかミュリエルが私の隣に立って自分のハンカチを差し出していた。
「使いないさいよ。淑女が台無しよ」
「淑……じゃ……いもの」
涙声でお礼も言わず、私はそれを受け取る。ひとしきり涙を拭いて顔を整えてから私は言った。
「ミュリエル、ごめんなさい」
「ちゃんと洗って返してよ」
「ハンカチのことじゃないわ」
私は涙を目に溜めながら小さく笑った。
「あなたのこと何も知らずにひどいことを言ったわ」
「どのことよ?」
「お兄様の卒業パーティで」
「“私のものばかり欲しがってもあなたは幸せになれないのよ”ってやつ?」
「それはまだその通りだと思っているから謝らないわ」
ミュリエルは口をへの字に曲げた。
「じゃあなによ」
「“自分の不幸に酔って流されちゃだめよ”っていう方よ。わかったようなこと言ってごめんなさい。あなたは自分の不幸に酔って流されているんじゃなくて、ただーー怖かったのよね?」
ミュリエルは、母親を亡くして間もないときにうちに来た。ミュリエルにとって他に選択肢はなかった。
口ではどんなに強がっていても心の底では不安だったろう。今はここにいる。だけど明日もいるかわからない。
暗闇のようなその不安を埋めるためにミュリエルは私の物を欲しがって欲しがって欲しがって、安心しようとしたのだとしたら? ただただ怖かったから。
「これも違っていたらごめんなさい」
私がそう言うと、ミュリエルはその大きな瞳を潤ませた。だが、口調はいつものミュリエルで答えた。
「何よ! わかったようなことばっかり」
「そうよね、これも私の推測でしかないわ。だからもっと話しましょう」
「え?」
私はさっき借りたハンカチに目を落とす。
「刺繍が見事ね。ミュリエルが刺したの?」
「そうよ」
「そういえば、お兄様に渡したハンカチのも見事だったわ。いつ練習したの?」
「基本的なことはお母様が教えてくれたわ……たまに機嫌のいいときに」
「そうだったの。ねえ、ソファに移動しない? そっちの方がもっとゆっくり喋れるわ」
「……いいけど」
ソファで並んで座ると、不思議な気持ちになった。
「私たちこんなふうに近くにいるの、初めてじゃない?」
だがミュリエルは首を振った。
「私のお見舞いにお姉様が帰ってきたとき。あのときも近かったわ。ベッドで」
「ああ、あなたが仮病を使っていたときね。覚えていてくれたの?」
「……髪をあんなふうに集めてもらうの、お母様以外では初めてだったから」
「その割には刺々しい態度だったけど」
「何よ!」
私は笑った。そして、そうだわ、と思いついたことを口にする。
「ねえ、ミュリエル、エヴァ様はあのとき、お父様からあなたを守ったんじゃないかしら」
「は?」
「そうとも解釈できるわ。だってお父様は最後に許してくれって言ったのよ。ミュリエルにひどいことしようとして許してくれってことじゃない?」
「そんなわけ」
「ないとは言い切れないわ。うん、そんな気がしてた」
「お姉様ってほんと…」
「なによ?」
「なんでもないわ」
クリスティナがミュリエルと二人きりになって何時間も経つのに出てこないと報告を受けたイリルは、無粋だとは思ったが扉を叩いて声をかけた。
「クリスティナ、入るよ?」
しかし、何度ノックしても返事はない。ルシーンとカールを廊下に待機させたイリルは、まずは自分が部屋に入った。
「……おやおやこれは」
踏み込んだイリルが見たものは、ソファに座ったクリスティナの膝枕で眠るミュリエルと、その髪を撫でる体勢で寝息を立てるクリスティナだった。
窓からはそんな二人を見守るように、夕暮れの日差しが差し込んでいる。