62、境目から水が染み込むように
そこから、イリルと私はペルラの修道院に向けて急いだ。王都からペルラまで、馬車で一週間はかかる。
「この馬ならその半分の時間で行けるよ」
とイリルは安心させるように言ってくれたけど、どんな馬も休息は必要で。
「仕方ない、今日はこの村で休もう」
「……そうね」
私たちは途中で一度だけトロフェンという小さな村に立ち寄った。
「母が亡くなったんで、親類に妹を預けに行くんだ」
私たちは訳ありの兄と妹として宿屋に泊まった。早くペルラに行かねばと焦る気持ちはあったが、体が疲れていたのも本当で、屋根と壁のありがたみを噛み締めた。
「おやおや、それは大変だね」
人の良さそうなおかみさんが同情した声を出す。深く帽子を被った私は神妙に頷いた。おかみさんがパンをひとつ余分にくれた。
「ほら、これも食べな」
「ありがとうござ……ありがとう」
わざとぞんざいな言葉遣いにするに意外と苦労した。パンはとても優しい味がした。
「ところで、最近何か変わったことはないかな?」
イリルが何気なく聞いた。周りが少しざわめいたのがわかった。
「まさか、事故が多いとか?」
おかみさんが驚いたように答えた。
「あんた、なんで知ってるのさ」
「ここに来る前、ブリビートの村に行ったことがあってね。村長が亡くなったとか、大騒ぎだったよ」
なるほど、とおかみさんと常連客らしいおじさんが頷いた。ブリビートの村のことはここまで知れ渡っているようだ。
「あそこで事故が続いたって話だろ? 私らも行商人から聞いて気味悪がっていたんだけどね、この村は無事だったんだよ」
「どういうこと?」
思わず顔を上げて私は聞いた。おかみさんの安心したような笑顔が目に入る。
「この間、突然馬が暴れたんだけどね、不思議なことにルイザ様のブレスレットを着けたうちの娘は無事だったんだ」
「だからそれを言ってるのおかみさんだけだって」
「うちの娘が嘘ついてるって言うのかい?!」
「そうじゃなくて、見間違えとか」
おかみさんと常連客のおじさんの話は続いていたけれど、私は黙っていられなくて口を挟んだ。
「あの! それ、詳しく聞かせてもらえませんか?」
「おや、妹さん、興味があるのかい?」
「え……っと、はい」
おかみさんは得意気に語る。
「うちの娘、マーリーザって言うんだけどね、教会の帰り、畑の脇を歩いていたら突然馬がこちらに向かって来たって言うんだ。危ないじゃないか。そうだろ?」
「はい」
「でもね、娘が言うにはブレスレットが光って馬が驚いて、それで助かったんだよ! 本当だよ? そんなのは誰も見てないっていうんだけど、私と娘はルイザ様のおかげだと思ってるのさ」
「ルイザ様のブレスレットは……どこで手に入れたんですか?」
「ああ、慈善院が近くにあるからね、そこで特別に配られたんだ」
ああ、あのとき作ったあれだ、と私は思った。よかった。ちゃんと間に合った。私はもうひとつ、答えのわかっている質問をする。
「娘さんはおいくつですか?」
「もうすぐ16だよ」
袋の中で守り石がふるふると揺れた。
‡
なぜか最近、「あれ」がうまく行かない。
ドゥリスコル伯爵は、仕掛けた罠から獲物が逃げるような腹立たしさを立て続けに味わっていた。
それまではそうではなかった。仕掛けた『魔』は、簡単に人を捕らえ、また次の大がかりな『魔』を仕掛けることができた。
ゲームに勝ったような高揚感を味わっていた伯爵は、たまにはこうやって手順を踏むのも悪くはないと思っていた。文句があるとしたら、簡単すぎて張り合いがないことくらいか。
——これならあいつの望みもすぐに達成できるだろう。
禁じられた術を使って「ドゥリスコル伯爵」を呼んだ男のそもそもの願いは、自分を王にしてくれ、だった。馬鹿なやつだと伯爵は笑った。
——なぜお前の言うことを聞かなくてはならない? そんなことをして私に益は何もない。
善の邪魔をしてこそ『魔』。目の前の男は『善』とは程遠かった。つまらない。死の恐怖と快楽の誘いを使い分けて、人々を堕落させることこそが彼の楽しみであり使命だった。しかし、男は諦めなかった。
——それでは、カハル王国の王を殺すことはできるか。
カハル王国。その名前には聞き覚えがあった。彼が拒絶しないのを感じた男は続ける。
——あの国は『聖なる者』を生み出す国。王は何重にも守られている。『聖なる者』の邪魔をして、最終的に王を殺してくれ。
——それでも私に益はないが?
——そうしてくれたら、我が国の善良な者も差し出そう。
自分の欲望のために善良な者を差し出すということは、自分こそ悪である自覚があるということだ。面白い。そんなことを言う馬鹿は初めてだった。
何百年か前にシーラに眠らされた「私」が、もう一度あの国を蹂躙する。
——いいだろう。
彼は答えた。
——ただし、覚えておけ。「私」とお前はもう、魂の共同体だ。私に何かあればお前も滅ぶ。
男は震えていたが頷いた。
そこからすぐに「私」はこの国に来た。境目から水が染み込むように、じわじわと力を増していった。
どうやら長い年月の間に、人々の意識にも変化があったようだ。この国を守るべき『聖なる者』が目覚めていない。「守り石」と離されているのだろう。だからこそ易々と入り込めた。
馬鹿な奴らだ。
目覚める前に消してしまえと、「私」は16歳になる女性を狙って『魔』を仕掛けた。ゆくゆくはそれ以外の者たちも狙うつもりだった。なのに。
「アラナン、今聞いたのだけど、あちこちの村でブレスレットが配られているらしいわ。あなたが危険だと言ったあのブレスレットよ。どうしましょう、でも王妃様のご命令らしいし……」
「なんだと?」
「アラナン……アラ……ナン」
大分ターゲットも絞れた。そろそろ「人形」たちも壊れてくる頃だ。ここでカタをつけておこうか。
‡
オトゥール1世が倒れた宮廷で、レイナンは急遽代理として采配を振るうこととなった。
ひとまず『聖なる者』候補とされたミュリエルは賓客扱いされ、オーウィンも保護者としてそれに準じた扱いを受けている。警備という名の見張りは厳重に付けられているが、本人たちは気にしていない。
教会関係者が慌てたようにミュリエルに面会を求めたのも気に入らなかった。限られた者のみに許したが、今まで何もしなかった癖にと苛つく気持ちをレイナンは抑えられない。
憧れの宮廷でお客様扱いされたミュリエルは、最大限にわがままに暮らしていた。
「嫌よ、こんな服、もっと素敵なのないの?」
「すぐに代わりをお持ちします」
「頼むよ、うちのミュリエルは特別なんだ、わかるだろう?」
そんな会話が繰り返されていた。