52、俺ばかり苦労している
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部屋で一人ワインを飲み、ボトルがすぐに空になる。そんなことでさえ、今のオーウィンにとっては不機嫌の種だった。
「酒だ! 酒を持ってこい!」
「旦那様、もうそのくらいにしておいた方が」
「うるさい! 執事の分際で俺に指図するな!」
トーマスが諦めたように頭を下げる。
愛人のダニエラ・イローヴァーが、芝居の練習で忙しいなどと理由をつけては呼び出しに応じないのもイライラに拍車をかけていた。
——どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。
練習なんて嘘に決まっている、とオーウィンは考える。俺が呼んでいるのに来ない理由なんてあるもんか。
何もかも気に入らなかった。
領地の不漁が回復し、聖誕祭の出荷に間に合う見込みが出たという、本来なら喜ぶべきことも今のオーウィンには面白くない。そのせいで周りがやたらシェイマスを褒めるのだ。
——何がさすが坊っちゃまですね、だ。
領地からの報告で、いい知らせにはすべてシェイマスの賞賛がついてくる。
——若いうちはもっと苦労すべきだ。
調子に乗ったシェイマスは、オーウィンの反対を押し切り、規模を縮小していた祭祀を復活させるなどと言う。領民のご機嫌を取るつもりなのだろうが、そんなことをしてもつけあがらすだけだとわかっていないところが子供だ。
「大体、この謹慎はいつ解けるんだ」
酔いの深まったオーウィンはグラスを傾けながら、独り言を言う。宮廷からはなんの沙汰もない。
——まったく俺ばかり苦労している。
ボトルがまた空になった。
「トーマス、お代わりだ」
「旦那様、もう本当にその辺で——」
「うるさい!」
ガシャン!
トーマスの足元目がけてグラスを投げたが、そこまでは届かず手前で落ちた。
「片付けておけ!」
黙って欠片を拾うトーマスを尻目に、オーウィンは寝室に引き上げた。寝台に倒れ込む前に、ふと思いついて、肌身離さず身につけている天鵞絨の小袋を懐から取り出す。
袋の口を緩めて逆さまにすると、手のひらに、ころんと、ベリーほどの大きさの真っ黒の石が転がる。
楕円形でツヤのあるその石は、小さいながら見つめるものを吸い込むような存在感があった。
ふふっとオーウィンは笑った。
「まあいい。俺にはこれがある」
出産後のエヴァが差し出した「守り石」だ。ミュリエルが生まれたときに握りしめていたらしい。でかした、と叫んだあの日の自分を覚えている。
……アルバニーナ様が出来ないことをしましたか?
そう言って微笑むエヴァの顔はおぼろげだが。
「そうだ、俺は特別なんだ」
守り石を袋に戻して、オーウィンはニヤつく。「特別な子供」であるミュリエルを今まで大事に育ててきた俺こそが、特別な存在なのだ。そう思いながら眠りについた。
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オーウィンの部屋を片付けて廊下に出たトーマスは、ブリギッタが自分の部屋ではない扉を開けようとしているのを見て眉をひそめた。
もちろん鍵がかかっている。ブリギッタは諦めたように、次の扉に手をかけた。
「何をしているのですか」
びく、と肩を揺らしたブリギッタはゆっくりと振り返った。
「部屋を間違えてしまいました」
もうとっくに休んでいるはずの時間だ。
「貴方の部屋から随分と遠いですが」
ブリギッタは悪びれず答える。
「考え事をしていたもので」
「お送りしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。おやすみなさいませ」
ブリギッタは踵を返した。
トーマスはその背中が見えなくなるまで、そこを動かなかった。
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「ブリギッタとサーシャから、まだ何もわからないと報告があったわ」
以前に比べるとすっかり面やつれしたギャラハー伯爵夫人が、ドゥリスコル伯爵に向かって言った。
ギャラハー伯爵の別邸で過ごすドゥリスコル伯爵だが、いつの間にかギャラハー伯爵夫人もそこで一緒に暮らすようになっていた。
夫であるギャラハー伯爵は領地と本邸を往復するばかりで、何も言わない。夫婦仲はとっくに破綻していたが、今のギャラハー伯爵夫人にとっては重要なことではなかった。
それよりも、目の前の男の反応が気になった。
「役に立ちませんね、貴方も彼女たちも」
ドゥリスコル伯爵の声は穏やかだったが、ギャラハー伯爵夫人は怯えたような目を向けた。
「……めんなさ……」
ドゥリスコル伯爵は、ふふ、と微笑んでギャラハー伯爵夫人の肩を抱いた。
「そんな怖がらなくても大丈夫です、ケイトリン。さあ、私の目を見て」
「……あ……アラナ……」
ギャラハー伯爵夫人の声がさらにか細くなる。ドゥリスコル伯爵は、満足そうに頷いた。簡単なものだ。他の者も、みなこうだったら楽なのだが。
ドゥリスコル伯爵は、先日会った生意気な公爵令嬢を思い出して苦笑した。
——仕方ない、まずは確実なところからいきましょうか。
「ケイトリン、以前言っていた、陛下付きの侍女のポリーですが」
「……はい」
「そろそろ会わせてもらえますか?」
「でも……」
「ケイトリン、目を見て。私は誰?」
「アラナン……はい……アラナン……手紙を書きますわ……」
「絶対ですよ?」
「ええ……アラナン……」
ギャラハー伯爵夫人はうっとりと呟いて、ドゥリスコル伯爵の肩に頭をもたせかけた。
「ケイトリン、可愛い人」
ここまでくるのに時間がかかったが、こうなると話が早い。ドゥリスコル伯爵は満足そうに頷いた。