49、もっと難しくしてもいいのよ
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数日後。
「坊っちゃん! シェイマス坊っちゃん!」
養殖池に到着したシェイマスは、トマシュの叫び声に思わず駆け出した。
「どうした?」
「やりました!! シェイマス坊ちゃん! 魚が元気よく餌を食べています!」
「本当か!」
トマシュが泣きそうな顔で池を指差している。
「見てください」
荒い息を整えながら覗き込むと、この間まで水底にじっとしていた魚たちがスイスイと泳いで餌を食べていた。
「よかった……」
心底安堵してシェイマスは言った。
魚さえ育てば、無茶な増税はしなくてすむ。
「坊っちゃまのおかげです」
トマシュがぐいっと涙を拭った。
「僕だけじゃないさ。みんなのおかげだ」
そう、こんな広い池、一人の力ではどうにもできない。
「父に報告しなくてはいけないな」
「旦那様も安心なさるでしょう」
そうだね、と答えながらシェイマスは、それで安心するような謙虚な父親だったらどんなによかったかと思った。
切り替えるように、また水中を覗き込む。
「それにしても本当に勢いよく食べているね。よっぽど餌がよかったのかな」
トマシュが笑う。
「まるで今まで食べたいのに食べられなかったみたいながっつきですな」
確かに、押さえられたものが外れたようなその食いっぷりに、シェイマスは首を捻った。餌や水以外にも要因があるのだろうか。
池からの風に、シェイマスのブレスレットがわずかに揺れた。シェイマスはふと、思ったことを口にする。
「トマシュ、僕が小さい頃、この地方では収穫を祝うお祭りをしていたけど、最近はどうなのかな」
トマシュは気まずそうに答えた。
「旦那様があまり気が進まないようで。ひっそりと継続はしているんですが」
興味のないことには冷淡な態度をとるオーウィンだ。シェイマスはきっぱりと告げた。
「収穫を感謝するのは当然のことだ。それをおろそかにするからこんなことになるんじゃないかな。今年からきちんとしよう。僕が手配するから、みんなにそう言ってくれないか」
「はい!」
トマシュが嬉しそうに顔を上げる。
オーウィンが素直に賛成するとは思えないが、シェイマスはやり通すつもりだった。
「今日、王都に戻るよ」
「お気をつけて」
オーウィンの不機嫌な顔が浮かぶ。シェイマスは無意識にブレスレットに手をやった。
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その日、勉強を終えたミュリエルは、サーシャとお茶を楽しんでいた。
初夏の風が気持ちいい。窓を開け放した。
「ミュリエル様は、本当に賢くていらっしゃる。どこまで伸びるか楽しみです」
カップを手にサーシャは微笑んだ。褒め言葉は何度聞いてもいいものだ。
サーシャとの時間はいつもおしゃべり半分、勉強半分だった。他を知らないミュリエルはそういうものだと思っていた。
「本当にそう思う?」
「もちろんですよ」
ただ、最近のミュリエルは少しだけ勉強に飽きを感じていた。サーシャはいつも同じような問題ばかりさせるのだ。これではいい点を取って当たり前だろう。
「だったら、もっと難しくしてもいいのよ?」
しかし、サーシャは笑って首を振る。
「ミュリエル様はお美しいもの。勉強などしなくても良いところに結婚できます。必要以上に学ばなくてよろしいかと」
「でも、お姉様はもっとしていたわ」
サーシャが、常にクリスティナを引き合いに出して褒めるせいで、ミュリエルはクリスティナへの対抗意識をさらに強めていた。
どうせなら、あの姉以上になりたい。なってやる。そしてそれは不可能ではない気がしていた。
——今でこれだけできるのなら、もう少し頑張れば追い越せるんじゃないかしら。
もし私がお姉様も解けない問題を解いたら、お姉様はどんな顔をするかしら。あの澄ました顔を崩して悔しがるでしょうね。それ見たいわ!
「ねえ、サーシャ。私、今の問題は飽きちゃったの。別のがいいわ」
「そうですね、ですがそんなに焦らなくても……」
サーシャは、なぜか歯切れ悪く黙り込んだ。
「何よ、まどろっこしいわね——」
ミュリエルがイライラしていると、
「——父上が何と言ってもしますからね!」
窓の外からそんな言葉が聞こえた。
あの声は、とミュリエルは立ち上がる。
「お兄様?」
窓から中庭を見下ろすと、顔を真っ赤にしたオーウィンと平然と腕を組むシェイマスが見えた。
「私は許さん! そんなもの無駄だ」
「勘違いしているようですが、祭祀は神と自分をつなぐ行為です。領主でもそれを断ち切ることはできません。我々が一番土地の恵を受けているのに、感謝しないほうがおかしいですよ」
「偉そうに!」
「なんとでも」
「ふん!」
そこで声は途切れた。オーウィンはどこかに去ったようだが、シェイマスはその場に残りーーそしてこちらを見上げた。
「ミュリエルじゃないか。何してるんだ?」
「え、あ、勉強を。サーシャと」
「そうか、今日は家庭教師の日なんだな。そっちに行っていいかい?」
「え?」
お兄様がここに?
なんと返事をしたらいいのかわからないうちに、シェイマスの姿は消え、やがてノックの音がした。
「どうぞ」
仕方なく応じると、シェイマスが入ってきた。
「お兄様、どうなさったの?」
どういう顔をしていいかわからず、そんなことを言う。シェイマスは当たり前のように答えた。
「僕からも家庭教師の先生に挨拶をと思ってね……ああ、妹がいつもお世話になっています。シェイマス・リアン・オフラハーティです」
「サーシャ・マクゴナーです」
流暢なシェイマスに比べると、サーシャは困ったような顔をしていた。
気にせずシェイマスはミュリエルに向き直る。
「ミュリエル、勉強はどうだい?」
「とっても簡単よ」
「へえ、すごいじゃないか。なにが得意なんだ?」
「数学よ。もっと難しいのをしたいって今言っていたところ」
「それは頼もしいな。だとしたら、僕が前に贈った本は簡単すぎたんじゃないか? あれは初歩の解説書だから」
以前、クリスティナから渡され、ミュリエルが投げつけた本のことだ。一応本棚に置いてあるが、開いたことはなかった。だがミュリエルは臆せず言う。
「だめよあんなの。お兄様。もっと難しいのをちょうだい」
「わかった! 探しておくよ……おっと、ごめんよ、もう行かなきゃ」
突然来たくせに、突然兄は立ち去った
やっぱり変な人ね。
そう思ったが、悪い気分ではなかった。
「そうだ、せっかくだから、残りの時間はあれを解きましょう」
ミュリエルはマリーに命じてシェイマスの本を持ってこさせた。
「こちらです」
しかし、本を開いたミュリエルは驚いた。難しすぎて何が書いてあるかわからないのだ。でもお兄様はこれを初歩だと言っていた。
ミュリエルはゆっくりとサーシャを睨み付けた。
「サーシャ、どういうこと?」
サーシャは、慌てたように言った。
「ク、クリスティナ様のせいなんです!」
「お姉様?」
意外な名前に驚いていると、サーシャは一気に捲し立てた。
「クリスティナ様が、ミュリエル様にあんまり難しいのは教えるなって言ったんです! それだけじゃありません。クリスティナ様は裏ではミュリエル様の悪口をたくさん言ってるんです! 公爵家にふさわしくないと」
ーー公爵家にふさわしくない。
そう聞くと冷静ではいられなくなった。
「……それ本当? 本当にお姉様が言っていたの?」
「はい! だから私は、難しいのを教えたかったんですけど。言う通りにしないとミュリエル様の不名誉な噂を流すって脅されて」
「とんだ淑女ね」
ミュリエルは吐き捨てるように言った。
「表面では優しくして、裏ではそんなことを……最低ね!」
サーシャがぶんぶんと頷いた。