45、初歩の初歩
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「それで、結局、リザ様とグレーテ様に押し負ける形で、ブレスレットをヨハネス殿下に作ることになったの?」
宮廷に戻った私は、お土産を用意する暇がなかったので、そのお詫びを兼ねて、フレイア様のお部屋で一部始終を説明した。
「……はい」
ソファーに向かい合って座った私は静かに頷く。
フレイア様は独り言のように繰り返した。
「クリスティナのブレスレットをヨハネス殿下に」
やはり大それたことなのだろう。勢いに負けて引き受けたものの、私は再び重圧に押し潰されそうになって呟いた。
「こんな素人のブレスレットではやはり失礼ですよね……」
ところが、フレイア様は突然、その金髪をかき上げておっしゃった。
「やられたーっ!」
何が?
驚いた私は思わず聞き返す。
「どうしたんですか? 何にやられたんですか?」
フレイア様は腰かけたまま両手をぶんぶんと振る。
「先を越されたっ! 悔しい!」
呆気に取られて見守っていると、いつものフレイア様に戻っておっしゃった。
「出掛ける前、あなたを驚かすことを考えていると言ったでしょう?」
「あ、そうでしたね」
いろいろあって忘れていたが、それはどうなったのだろう。そんな気持ちで見つめると、フレイア様はため息をついた。
「先を越されたのはブレスレットよ」
「は?」
「ローレンツ様愛用の噂が広まって、何人もの貴族のご婦人から問い合わせがあったの。だから、王妃様と相談して、あなたのブレスレットを販売することを決めたのよ」
「え?」
決めた? 決めたって?
「もちろん報酬はあなたのものよ。事業も好きなように展開してくれて構わない。私たちは協力するだけ」
「え、あの、待ってくださ——」
「あなたの自立にもつながるし、絶対いいと思ったんだけど、先に魅力に気付いた人がいて、しかもそんな不思議な効力まで体験しているなんて! 悔しい! 先を越されたってなるじゃない?」
「なるじゃないって、そんな、待ってくださいフレイア様」
先を越されたという問題だろうか?
「そんな効力なんてあるかどうかわかりませんよ? あっても一度きりかも」
リザ様が嘘をついてるとは思わないが、全部のブレスレットに同じ効果があるとは限らないだろう。
だけどフレイア様はあっさり頷いた。
「大丈夫。こちらから明言しなければいいのよ。どうせローレンツ様ご愛用とヨハネス殿下ご愛用でかなり広まると思うし。そうだ、男性用と女性用、意匠を変えるのもいいわね。そうしたら贈り物への需要も高まるわ」
「決定なんですか?」
フレイア様はにっこりと笑った。
「最初から大量生産しなくても大丈夫よ、希少価値を出して行くのもいいもの」
「あの……フレイア様?」
流れについていけない私は呆然とするばかりだ。フレイア様は私の手を取った。
「怖気付くのはわかるわ。でもこうは考えられない? ブレスレットを通してあなたが求められているの」
「私が……そんなまさか。私なんか——」
「肝心なところで昔の癖を出しちゃだめよ」
そこだけは鋭くおっしゃる。
私は思わず背筋を伸ばす。
昔の癖。
そうかもしれない。
私は息を大きく吸って考えた。
——ブレスレットを通して私が求められている。
私を求めてくれている。
それならば。
——応えたい。
私はフレイア様を見つめ返した。
「欲しい方がいらっしゃるなら……やってみます」
「早速作戦会議ね」
フレイア様が微笑む。
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トーマスは眉間に深い皺を寄せた。
今日も扉の隙間から、ミュリエルとサーシャの笑い声が漏れている。
あれで勉強になっているのだろうか。
オフラハーティ公爵家の執事として長年仕えるトーマスは、突然採用されたミュリエルの家庭教師と侍女がなぜか気に入らなかった。
サーシャ・マクゴナー子爵令嬢と、ブリギッタ・ドムス子爵夫人。二人ともちゃんとした家の出であるし、礼儀作法も申し分ない。ミュリエルも今のところ、大人しく従っているようだ。オーウィンの機嫌もよく、こちらも助かっている。
——なのに、なぜか引っかかる。
気にしすぎかもしれない。
何度も自分にそういい聞かせたが、懸念が消えない。
今日もついつい様子を伺っていると、お茶の用意を載せたワゴンをマリーが運んでくることに気付いた。
トーマスは少し思案してから声をかける。
「マリー、それはミュリエル様のところに持っていくお茶か?」
「はい。そろそろ休憩の時間ですので」
「私が行こう」
なぜトーマスがそんなことを、と少しだけ不思議に思ったマリーだったが断る理由はなかった。
「それではお願いします」
「ああ」
ワゴンを押してミュリエルの部屋の前に来たトーマスは、扉の外でもう一度耳を澄ませた。
サーシャのあからさまにはしゃいだ声が聞こえる。
「まあっ! さすがミュリエル様ですわ。もう問題を解きました。天才ですね」
「これくらい大したことないわ」
「いいえ、クリスティナ様でもこれは無理ですわ、きっと」
「あら、そうかしら?」
「ええ。クリスティナ様は、それはそれは非の打ち所がない王子妃候補だと伺っていますけど、数字に関する問題は苦手だったようですよ?」
「ほんとに?」
「はい。それに比べるとミュリエル様は天才です」
「お姉様ったら何でもできる顔をして、結構ダメなのね」
「そうですよ、こうやって近くで伺うと、ミュリエル様の方がずっと可愛らしくて才能があることがわかります。社交界に出るようになりましたら、きっと人々の中心になるでしょうね」
「お姉様よりも?」
「比べるまでもありませんわ」
トーマスはそこで礼儀正しく扉を叩いた。
「失礼します。お茶をお持ち致しました」
会話はピタッと止まった。
「遅かったわ。喉が渇いたの。早くここへ運んで」
ミュリエルが以前よりも横柄に指示する。
「かしこまりました」
トーマスは礼儀正しい態度を崩さず、給仕する。
そのとき、ミュリエルが解いていた「クリスティナも無理」な問題が目に入り、驚いた。表情には出さないようにしたが、それは初歩の初歩だった。クリスティナはもっと上級の問題をすらすら解いていたはずだ。
「なにしてんの。終わったらさっさと出て行ってよ」
ミュリエルに言われ、トーマスは、再び頭を下げて部屋を出る。
懸念が以前より大きくなる。
表面上は何も問題はない。
しかし、あの家庭教師はミュリエルに本気で勉強を教える気があるのだろうか。
トーマスは誰にもわからないようにため息をついた。