40、慰めているのかえぐっているのか
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演奏は、素晴らしかった。
きちんとした服に着替えて髪を撫で付けたローレンツ様は、演奏前とは大違いだった。
翼と名付けられた特注のピアノの前に座り、鍵盤に手を置くと、最初の一音から聴衆を魅了した。
——本当に羽ばたいているみたい。
それほど体の大きな方ではないのに、ピアノに向かって前屈みに手を広げている様子は、大きな鳥の羽ばたきを連想させた。
——大成功だわ。よかった。
誇らしげに舞台の上で一礼するローレンツ様に、全員が惜しみない拍手を送った。
しかし、ほっとしている暇はない。
演奏会が終わるとすぐに、晩餐会の手順の確認に移る。
ローレンツ様が今夜宮廷で過ごすことは、グロウリー伯爵には伝えていた。その分、晩餐会で伯爵がローレンツ様とお話できる時間が多く取れるように気を回さなくてはいけない。私は移動しながらあれこれ考えた。
そんなわけで晩餐会が済み、軽食と会話を楽しむ頃には、私は笑顔でぐったりしていた。決して態度には出さなかったけれど。
だから、
「やあやあ、妹よ、お招きありがとう」
シェイマスお兄様が明らかに浮かれて現れたことに、イラッとしたことくらいは許してほしい。
「随分お早いご到着ですこと」
「嫌味を言うなよ。アカデミーが終わってから急いできたんだぜ?」
「それはそれは」
「機嫌悪いな?」
「いいえ」
それでも、所在なさげに飲み物を手にしているグレーテ様を見つけた私は、
「お兄様」
「ん?」
即座にお兄様の背中を押してあげるくらい、優しい妹なのだ。
「あちらのグレーテ様が、お兄様がおっしゃっていた方なんでしょう?」
「あっ!? うん、まあ」
「でしたら、お兄様、申し訳ないですけど、私の代わりにお話してきてくださいませ。本当ならお誘いした私がそうするべきなんですが、あれこれと用事が」
「僕が行くからクリスティナは気にするなじゃあ」
お兄様はグレーテ様のところにすっ飛んでいった。
——後はご自分でがんばってくださいませ。
お兄様とグレーテ様が楽しそうに話し出したのを見たローレンツ様は、自分もそちらに行こうとしたが、今日の演奏に感極まったグロウリー伯爵に捕まって離れられないようだ。
伯爵以外も大勢がローレンツ様を囲んでおり、しばらくは大丈夫だろう。
目を配らなくてはいけないことが多すぎる。
しかし、フレイア様はさすがの風格で、国内の主たる貴族の奥様たちに孤児の保護政策の必要性について話していた。話を聞いた奥様たちは、家庭内でその話を繰り返すだろう。
そこは順調に行っているようで私は胸を撫で下ろす。
と、遠くにリザ様がいらっしゃるのが見えた。
——後でご挨拶に伺おう。買い物の約束、グレーテ様もお誘いしてもいいかもしれない。
そこまで考えて、私はふと思う。
——私、今、すごく楽しい。
「淑女の鑑」であろうとしていた「前回」も晩餐会ではきちんと役割を果たしていた。
でも、前はとても息苦しかったのを覚えている。やっていることは同じなのに。
——それだけ以前の私の「淑女」の仮面が厚かったのかもしれない。
今は皆様のことも、自分のことも身近に感じられる。
肩の力を抜いた私は、自分も飲み物を貰おうと視線を移した。
そのとき、グレーテとお兄様がこっそり会場を抜け出すのが目に入った。
あら、お兄様がんばっているわ。
そう思っていると、
「あ、少し水分を摂りすぎたようだ。席を外すよ」
露骨に言い訳したローレンツ様も外に出たので、私は思わず後を追いかけた。
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「今日は君に会えると思ってなかったよ、グレーテ」
「私もですわ、シェイマス様」
「こ、この間貸してくれた本、とても面白かった」
「それはよかったですわ」
宮廷の中庭の入り口で、害のない会話をしているお兄様とグレーテ様の後を追いかける天才ピアニスト——の肩を私はそっと叩いた。
「ひっ!?」
怯えた顔でローレンツ様が振り返る。
「そこまで驚かなくても」
「不意打ちに弱いんだ」
「こちらでお話しません?」
「いや、俺は」
「カール、見張りをお願いね」
無言のカールに押し負ける形で、ローレンツ様は私と二人で東屋に落ち着いた。
お兄様のためというより、先ほどのグレーテ様の表情を思い出して私は言う。
「本当に余計なお世話だと自覚はしておりますが、ローレンツ様、いい加減諦めたらどうですか? どう見てもグレーテ様は、恋の始まりに胸を膨らませた乙女の顔をしていらっしゃいます」
お兄様のことがなくても、これ以上近付くと嫌がられるだけのように思えたのだ。
ローレンツ様は拗ねたように下を向いた。
「君に言われなくても知ってる」
「あら」
私が意外に思っていると、ローレンツ様は付け加えた。
「しつこくつきまとえばつきまとうほど、グレーテが嫌がっているのもわかってる」
「じゃあ、なぜそんなことを繰り返すのですか?」
相手が嫌がっているのに同じことをする気持ちがわからなくて、私は聞いた。
ローレンツ様は悪びれずに答える。
「いつか根負けしてくれるかと思ってさ」
「呆れた」
「君にはわからないさ。天才ピアニストになる前も、なった後も、グレーテだけは俺に何も求めない。そんな女はグレーテだけなんだ」
私は少し考えてから言った。
「それって、今のグレーテ様がローレンツ様にとって都合のいい存在だからですよね?」
「え」
「もし、グレーテ様がローレンツ様の婚約者なり恋人になって、他の女性たちと同じようにいろいろ求め出したらどうするんですか? また他の何も求めない人を好きになる?」
「君、若いのに嫌なことを言うなあ」
「素朴な疑問です」
ローレンツ様はため息をついた。
「グレーテも同じことを言ったよ。あなたは私が決して手に入らないとわかっているから求めているだけって。でも手に入ってないんだから、まだわからないじゃないか。後のことは、後で考えればいい」
情熱的なようでいて、無責任に聞こえる。
「大事なのは今のグレーテ様が、ローレンツ様と一緒にいたいと思っていないことではないでしょうか」
「君……容赦ないな」
「すみません。あまりにも駄々をこねていらっしゃるようなので、つい」
ローレンツ様はかなり落ち込んだ様子で呟いた。
「大勢の人に求められても、たった一人に求められないなんて馬鹿げている。もう、がっかりだ。今回の演奏会、何もいい思い出がない」
私は大きな鳥のようにのびのびと演奏していたローレンツ様を思い出した。
あの演奏は本当に素晴らしかった。失恋は仕方ないとしても、少しだけでもいい気持ちで帰ってもらえたら。
私はグレーテ様に後で差し上げようと思っていたブレスレットを取り出した。
「あの、なんの慰めにもなりませんが、これいかがですか?」
「前回」の記憶では、ローレンツ様はこういうアクセサリーが好きだったと聞いていたことを思い出したのだ。
「なんだこれ」
案の定、言葉とは裏腹にすんなり受け取る。私は説明した。
「ブレスレットです。演奏のときは外すでしょうけど、ふとしたときに光に透かして見たりしたら、とても綺麗で、なんだか気分がよくなるんですよ。失恋の痛手におすすめです」
「慰めてるのかえぐっているのか……そんな子供騙しな……」
そう言いつつ、ローレンツ様は早速手首に通した。私は目だけで笑いながら説明する。
「全体をまとめた青いビーズは、健康を祈って作ってみました。演奏旅行では体調管理が重要でしょう」
「作ったって君が?」
「あ、はい」
「それは、まあ、見事かもしれない」
「ローレンツ様に褒めてもらえたらちょっと自信が出ますね」
心からほっとして私は言った。そして立ち上がる。
「戻りましょう。ローレンツ様を待っている人が大勢いますよ」
はあ、と大きなため息をついてローレンツ様は立ち上がった。そして私をじっと見つめた。
「君は確か、第二王子の婚約者だっけ」
先を歩きながら私は答える。
「はい、そうです」
「自覚した。俺は自分を好きじゃない女性が好きなのかもしれない」
「そうなんですか」
芸術家はやはり変わっていると思いながら、私は相槌を打った。カールに護られながら、私とローレンツ様は広間に戻る。
演奏会はそんなふうに、無事、終了した。