夜が明ける
「どこに行く気だ」
こっそりと小屋を離れようとしたリリアの耳に、やや不機嫌そうなフィリップの声が聞こえた。
「……てへ」
振り向き、笑ってごまかす彼女に、フィリップは深くため息をつく。
「森の中は迷うぞ。一緒に行ってやる」
「…………」
これから、自分がしようとしていることは完全にフィリップにはばれているようだ。それでも、付き合ってくれるということは、彼も完全な解決を望んでいるのだろう。
(……でも、これは心臓に悪いんですってば!)
先に歩き出したフィリップにふわりと右手を握られる。早朝のしんと冷えた森の空気にさらされていた指先からは、しっかりとした熱が伝わってきて、じんわりと体全体が暖かさに包まれる。口から心臓が出そうになるのをどうにか耐えながら、リリアもその背について歩き出した。
「まったく、無茶をする」
まだ少し薄暗い森の中を歩きながら、フィリップはやや苛立ちを滲ませる声で言う。
「あんなに多くの人間がいるところで、〝力〟を使うなど」
彼女は巫女だった。類まれなる力を秘めた巫女だった。
その歌は自然の摂理さえ左右する〝力〟を宿し、その威力により、天候はもちろん火山の噴火や、思いがけない天災を防いだこともある。それだけでなく、清浄すぎる歌声のために聞いた人の魂は抜かれたようになってしまうこともあった。今回のベネディクトのように。
「……お前が傷つく。それだけは避けたかった」
自分や部下たちの命を救ってくれたのは彼女だが、あれほど周囲に影響を与える〝力〟の使用を極力避けているのを、フィリップは知っている。
「……殿下を、みんなを守れたから。それでいいんです。だから、大丈夫」
静かな声に後ろを振り返ると、リリアは微笑んでいた。
「…………」
その微笑みに何も言えなくなったフィリップは、少しだけ、彼女の手を握る自分の左手に力をこめた。
結局、ベネディクトに振り回された。
これまで優秀だともてはやされ、何の疑問もなく生きてきたのだろう。確かに文武に秀で、ブレマンの将来を担う重要な役職をこなすにも十分な才を持ち合わせていたのだと思う。そうでなければ、あの若さでウラールとの戦役の長という重役を任せられるわけもない。いくら小競り合いという程度とはいえ。
しかし、優秀であればあるだけ、周囲との“差”が目についたのだろう。自分ができることができない相手。自分が瞬時に理解できることに、数倍の時間を要して理解に至る思考。ベネディクトがずっとそれを感じていたとして。
一番目についたのは、家族だろう。父親である辺境伯の浅慮が若いころからのものであれば、幼い息子の目にそれはどのように映ったのだろう。
アルプレヒトとて、その対象になった。弟が同じ年齢だった頃の自分のように振る舞えないこと、理解が及ばないことが、きっと彼には理解できなかったのだ。
そして、その理解不能な存在に対する思いは、憐みですらなく、侮蔑へと変化した。明らかに『無能』と判断を下し、自分の良い手駒とみなしたに違いない。
しかし、そんな彼が『負け』を思い知らされる相手ができた。初めて劣等感を刺激されたのだろう。そして、その劣等感をどう処理してよいか分からなかった。
(今まで『自分こそが一番』だったんだ。突然そうではないと気づいて、混乱したんだろうな)
せめて少年時代にでもそのような経験をしていれば、乗り越える方法も気の持ち方もいくらでも学べただろうに、良いか悪いか、これまでそんな挫折なく来てしまったために、衝撃も大きくなったのだろう。その結果が、『力』を手に入れ、フィリップに対抗することにつながった。
こちらにしてみれば、とばっちり以外の何物でもない。
フィリップは歩きながら、ベネディクトの処断についてブレマン国王への対応をどう迫るべきか頭を巡らせる。辺境伯、実の父親までも手にかけて、他国への侵略騒動など、首がいくつでも飛ばせる事態だ。しかし、当の本人は、現状まったく正気だとは言い難い状態だ。部下たちに見張らせてはいるものの、そんなものがなくとも逃げ出したりはしないだろう。
(あれを更に処断するとな)
後ろを歩くリリアの顔を想像すると、果たしてどのような対応が正解なのか、迷うばかりだった。
そんなフィリップの背中を、リリアは見つめる。暗さを秘めた森の中に浮き立つ白い甲冑の後ろ姿は、まるで道しるべのように目の前を照らす。
結局、自分は成長していない。〝役に立ちたい〟と思う対象が変わっただけ。その想いの強さが変わっただけだ。
(……しかも、動機が不純だもの。余計に始末に負えないわ)
昔は、自分の居場所を得るために。今は、自分の想いを、決して明かさぬと決めた想いを貫くため。
アルプレヒトは似ていた。居場所を求めていた自分と。だから、彼の行動を自分は何も言えなかった。自分だって、一つのことしか見えていない。それを守るために、また人を傷つけた。そして、この人をまた心配させた。
でも、わかったことがある。自分を守ってくれた仲間たち。自分の命の危険も顧みず、リリアをベネディクトの刃から守ろうとしてくれた人たちを、自分は自分にしかできない方法で守ることができた。守ることができる仲間がいる。それは何物にも換え難い。
――私はあなたの役に立ちたいと思っている。私はあなたを守ってあげられる。そのためには、想いを閉じ込めた鍵は決して開けられないけれど。
だから、こうして後ろから見つめることだけは許してください、ね……。
森の中にやや拓けた部分を見つけ、その中心にリリアは立った。朝もやに包まれる中、リリアはゆっくりと踊り始めた。
「……いい加減、出で来い」
少女が踊る様子を見守りながら、フィリップは背後に声をかけた。
「ばれてたか」
「とっくに気づいている」
悪びれずにビョルンが顔を見せた。後ろには、ヴァレールも控えている。森の反対側には、フランチェスコとディアーヌの姿もあった。
「殿下になんかあっちゃまずいしなぁ」
大して心配していないような声で、わざとらしくビョルンは言う。その彼の横顔を軽く睨みながら、しかしフィリップは何も言わなかった。
「……残党がいないことは確認済みですが、殿下とリリアだけで出歩かれるのも危険です。もう少し離れて警護した方がよろしいですか?」
ビョルンとは違って、真面目に心配そうにしているヴァレールに、フィリップは首を振った。
「ここで構わない。……黙って出てきてすまなかった」
ヴァレールはその言葉に黙って頭を下げた。
天よ 大地にその恵みを
穢れを洗う恵みを与えよ
天よ 大地にその恵みを
命を育む恵みを与えよ
リリアは踊りを終えると、歌いだした。清浄な声は空高く響いた。
「これくらいなら、いいんだけどな」
ビョルンの台詞にヴァレールも嘆息し、頷く。同じ歌声でも、今回は雨を降らせるための歌。水の恩恵を望む歌は、耳にとても心地よく響いた。
彼女が夜も明けぬうちから、動いた理由。それは〝雨乞い〟をするためだった。
農村部の旱魃は呪術のせいであり、あの蛇の屍骸を片付けたことで術は解けているはずだ。しかし、一度振りまかれた穢れは残る。次の雨を得られるまでどの程度かかるかわからない。旱魃に苦しむ農村部の人間のために、リリアは雨乞いをしたのだ。
「……これって、あいつ……」
後ろから聞こえた声に三人が振り向くと、アルプレヒトが呆然とリリアを見つめていた。 どうやら、団員たちの動きに気づき、後を付けてきたようだ。
「お前の依頼だろ?」
驚くこともなく、ヴァレールが言った。
そう、アルプレヒトの最初の〝配達屋〟への依頼は「伝説の巫女を探すこと」。伝説の巫女に雨乞いの手紙を届けることであった。
「……覚えていてくれたんだ」
ぼんやりと呟くアルプレヒト。徐々に夜明けが近づき、山の片隅に太陽がその片鱗を見せ始めていた。
歌い終わったリリアがこちらに駆けてくる。太陽の光を背に浴びるその顔は、夜明けの空のように澄んでいた。
眩しさに背けたアルプレヒトの目に、朝日とともにフィリップの姿が目に入った。
茶色の髪は金色に光り、琥珀の瞳は神々しさを宿していた。朝日を浴びる白い甲冑姿の彼は、まさに全身を黄金色に染めていた。