響く声
フィリップの声が響き渡ると同時に、両者の戦いが開始された。
数では完全にベネディクト側が勝っていた。彼が連れてきた兵士はゆうに百人以上。加えて、武装集団がいた。それに対し、フィリップの連れてきた護衛兵は二十五人。ビョルン、ヴァレール、ディアーヌ、フランチェスコの四人を加えたところで、相手側の三分の一にも満たなかった。しかし、能力の差は完全にフェディール側が勝っていた。
「やはり、少数精鋭だな!」
王子様自ら剣を振るいながら、フィリップは楽しそうに次々と敵をなぎ払っていく。その背中では、こちらも敵をなぎ倒しながら、ビョルンが説教していた。
「お前なぁ、何の報告もしないで勝手に動くな! しかも、小細工をしてるなら、最初からそう言え!」
「仕方ないだろう。どの程度、食いついてくるか確証がなかったんだ」
「嘘だろう! このたぬきが!」
話している間にも二人の前には、倒れた敵がどんどん積みあがっていく。これだけの人数差にも関わらず、彼らは自分たちが負けるとは決して考えてはいなかった。
先ほどまでビョルンが担いでいた辺境伯の亡骸は、戦闘の巻き添えを食わないように部下に任せて下山させていた。亡くなった人間を粗雑に扱っていいわけもないが、ベネディクト側にはそんな考えもないだろう。そして、遺体に工作を施す可能性も否定できないのだ。
さすがに罪人とはいえ、仮にもブレマンの領主だった人間だ。今回の一件は、ブレマン国王に沙汰を問わねばならない問題である。その前に、遺体を損壊されてはフェディール側としても具合の悪い事になる。
「殿下! ベネディクトが森の奥へ逃げていきます!」
「追え! 必ず捕まえろ!」
自領内で旱魃を引き起こした。本来守るべき領民たちの生活を脅かすことは許されるものではない。
それだけでなく、何とも勝手な理屈で略奪行為に手を染めた。何人の怪我人が出たことだろう。かろうじて死人が出なかったことは喜ぶべきことではあるが、ただただ幸運だったに過ぎない。商人たちが強運だったのか、ベネディクトの悪運だったのかはともかくとして。
そして、彼らが奪った荷は、どれほどの量になっただろう。近くの領主たちに高値で売り、得た益はウラール帝国からの武器の購入に充てられた。しかし、それだけではまだ奪われた荷の半分にすら満たない。
武器を得、軍を強化し、ミレー峠を越えて、フェディールに侵攻。彼がしようとしたことは立派な戦争そのものだ。
(しかし、それだけでは足りない)
明らかに彼らが貯めている麦の量は多い。それらは、確実に戦時の食料として備蓄されていると考えて間違いはないだろう。
つまりは一時の小競り合いにするつもりなどない、ということだ。先ほど、フィリップたちがこの場を引けば、領土侵犯はしないなどと嘯いていたが、それが口先だけなのは明らかだ。
(その後は、更に権力の拡大を狙うのだろうな)
フェディールの領土、しかもお互いの国にとって要所でもこの峠を一部でも押さえれば、それだけでブレマン国内の一部の権力を手中にできるだろう。軍を統括する身となれば、尚のこと得られる力は大きくなる。功績によっては、王家の内部にも口出しをできるほどになるかもしれない。
そうなっては困るのである。何と言っても、奴の勝手な理屈で迷惑をこうむるのは勘弁願いたい。フェディールの国民は穏やかに生活を送っている。いや、フェディールだけではない。グリムデル領の領民たちとて、不安におびえる日々はご免だろう。
部下の報告に指示を出しながら、フィリップは辺りを見回した。着実に部下たちが敵を倒しているが、探している姿がどうしても見当たらない。
「リリアはどうした?」
戦闘力など全くない少女。彼女は決して荒事要員ではないのだ。通常であれば周囲の邪魔にならないように動くことはできるだろうが、今は緊急事態。しかも戦闘に巻き込まれる中で適切な判断ができるわけもない。
周囲への注意が疎かになったその一瞬の隙をついて、フィリップに襲い掛かってきた兵士がいたが、横から伸びてきた拳にあっさりと崩れ落ちてしまった。剣を振るおうとしていたフィリップは、自分の身を守った相手を目にし、「ほう」と小さく感嘆の声を上げた。
兵士を拳一発で倒したアルプレヒトは、いつの間にかショックから立ち直っていたようだ。その表情は未だ強張ってはいるものの、目には確固たる意志の光が戻っていた。
「さっき兄がリリアを連れて森の中へ逃げていきました! 気づいた時には遅くて……」
「殿下! 団長、あれ!」
突然聞こえた、ディアーヌの悲鳴にも似た声に全員が顔をあげると、ヴァレールが木立の先を睨みつけていた。そこには、ベネディクトと数名の部下、また彼らに拘束されたリリアの姿があった。
「リリア!」
思わず声をあげたフィリップに、ベネディクトは大声で告げた。
「この女の命が惜しければ、フェディール側は全員武器を捨てろ!」
団員たちは息を呑んで動きを止めた。リリアに見たところ怪我はないようだが、その喉元には長剣が突きつけてられている。
「完全に立場逆転ね……」
言うなりディアーヌはすぐに武器を捨てていた。他の団員たちも、ベネディクトの言葉通りに武器を置いている。フィリップの護衛兵たちは一瞬迷いをみせたものの、彼女が仲間であると知っているためか、同じように武器を置いた。フィリップでさえも、武器を捨てることに迷いは見せなかった。しかし、その表情は怒りに満ち溢れていた。
「おやおや、大変美しい愛情ですね。たかが、こんな踊り子一人のために。団員だけでなく、殿下まで! でもこれで勝負はついた! 私の勝ちだ!!」
ベネディクトの配下は、既にその数を三分の一以下に減らしていたが、フェディール側が全員投降すれば、問題はない。
「これで私の勝ちですよ! このままフェディール領を手中に収めれば、フィリップ殿下よりも有能だと誰もが認めるでしょう! 私はお前に勝ったんだ!」
狂気のような表情で高らかに笑うベネディクトに、リリアは冷たい声を出した。
「あなたの負け。民の幸せを願わない人に、人の気持ちを理解しようとしない人が殿下に勝てるわけがないわ」
その言葉にベネディクトは反応した。
「卑しい身分の小娘が! 何を知った口を!」
「あなたは自分の願いを叶えるために行動したのよね? じゃあ、私もそうさせてもらう」
最後は笑顔になったリリアに怪訝な顔をするベネディクト。この娘は何を言っているのだ?
しゃんと背を伸ばし、前を向いたリリアは、一呼吸置いてからすっと息を吸い込んだ。
それを見た瞬間、フィリップは叫んだ。
「全員耳を塞げ! アルプレヒト!」
突然自分の名前を呼ばれたアルプレヒトはきょとんとしたが、フィリップの指示よりも先に耳を塞いでいた団員たちの様子とその表情を見て、反射的に耳を塞いだ。
その途端、あまりにも清浄な声が辺りに満ちあふれた。
我は望む 汝の愛を
我が最大の望みなり
汝が光を思うように
汝が闇をも厭ぬように
汝が汝を愛する如く
我は望む 汝の愛を得ることを
大地を創りし如く
水を生み出す如く
生まれし愛こそ 世のすべて
汝は何を欲するか
汝の幸福こそが、我が最大の幸福なり
リリアの歌声は天にまで届くかのように、周囲に響き渡った。闇に包まれていた空は、いつの間にか雲が晴れ、瞬きを忘れそうなほどの星の輝きが頭上を覆っていた。小さな、しかし明瞭な白い輝きにアルプレヒトは惚けたように見入っていた。
リリアの声が聴こえた者は、心奪われずにはいられなかった。特にベネディクトや彼の部下たちは、耳を塞ぐこともなく、もろにその歌声を耳にしていた。
「相変わらず、すげぇ声だな」
ビョルンの声に、はっとしてアルプレヒトが振り返ると、敵対していた男たちの顔からは荒々しさが抜け落ち、ほとんどは陶酔した表情で座り込んでいた。中には、空を見上げぶつぶつ呟いている者や、幸せそうな表情で倒れている者もいる。
「耳を塞いでても、完全には遮断できませんね。頭がくらくらしますよ」
こめかみを指で押さえながら、フランチェスコが近づいてきた。ヴァレールも同様の顔をしている。
「アルプレヒト、大丈夫だった?」
ディアーヌはアルプレヒトの顔を覗き込んだが、その表情から、心配はないと判断したようで、良かったと言って笑った。
リリアの元にはすぐさまフィリップが駆けつけ、全身を拘束していた縄を断ち切り、彼女を解放していた。
ベネディクトは一番近くでリリアの歌を聴いていたため、影響を誰よりも強く受けていたようだ。その場に座り込み、その顔からは一切の感情が拭い取られていた。そして、その口からは呟きが漏れていた。
「私の願い……私の願い……私……」
それを聞いたリリアは、悲しそうな表情で唇を噛み締めた。その場に佇み、ベネディクトのつむじを見下ろすが、彼はまったくこちらの気配には気が付いていない。
そんな彼女の顔をフィリップは覗き込む。突然、近くから覗き込まれて驚くリリアに、フィリップはいたずらっ子のように笑った。
「怪我はないか?」
優しく問われた声に、リリアは首を振った。
「大丈夫です。……私のせいで、みんなを危険な目にあわせちゃった。ごめんなさい……」
「お前のおかげで、みんな助かった。ありがとう」
微笑みとともに告げられたその言葉に、リリアは泣き笑いの表情を浮かべた。
「そろそろ夜明けだ。夜が完全に明ける前にこの一帯を片付けるぞ!」