夕闇の町
マリスとベネディクトが話をした翌日、アルプレヒトは町はずれに足を進めていた。
町は夕闇によって、濃紺で包まれ始めている。手元には、灯りとなるものはないが、アルプレヒトの進みには迷う様子はない。ただ、その速度は昼間、町の中を見回っているときと比べて、明らかに遅かった。
マリスは今日の朝早くに町を発ったそうで、アルプレヒトは会うことができなかった。『有意義な会談だった。ありがとう』との伝言を受け取ったが、それを話すヴァレールの様子が物凄く不承不承といった様子だったことに少し笑いそうになった。
(こっちこそ、お礼を言わなきゃいけないのに)
考えてみれば、突然予定も聞かずに『兄に会え』とは、あまりにも失礼な話だ。仕事が忙しいのに決まっているのに、彼の都合はお構いなしに無理を言ってしまった。それなのに、アルプレヒトに苦言を呈するでもなく、その無理に付き合ってくれたのだ。
マリスは魅力的だ。端正な顔立ちで、微笑みは甘い。身ごなしも洗練され、惹きつけられる。ある程度名のある貴族に連なるはずなのに、あけっぴろげで、身分の貴賤を全く気にした様子がない。あれでは、男女問わずに魅力的に感じない者はいない。
(ヴァレールもきっとそうなんだろうな)
いつも気難しそうにしているのに、マリスの前では表情が柔らかくなる。ふとそのことを思い出し、笑いそうになる。
自分が兄に抱いていた憧れと似ているのだろうか。
その兄といえば、マリスを見送った会った後から眉間にしわを寄せていた。いつも笑顔を浮かべているのに、珍しいことだ。理由を尋ねたが、『何でもない』とかわされただけだった。
どうすれば、兄のようになれるだろう。比べられるのは、もう慣れた。『出来が悪いほう』『二番目』と分類されることにも。それでも、何かできることがないか、少しでも役に立てることはないかと、探す。『憧れ』になれるわけではないけれど。それでも近くで、自分も一緒の景色を見たいだけなのに。
重いため息が口をついた。
蛇の遺骸が押し込まれていた箱のこと、町に流通する麦のこと、盗賊のこと。一体、何がどうなっているのか。自分はこれからどうするべきなのか。考えても考えても答えが出なかった。
兄にはすでに、何か検討が付いているのだろうか。マリスと二人で密談をしていた様子から、そう思ってしまう。でもそれならば、なぜ何も教えてくれないのだろう。
(俺が優秀じゃないから? 兄上には遠く及ばないから?)
すでに太陽はその身を隠し、日の残骸が空をうっすらと染める程度の薄暗さの中、視線の先に誰かのつま先が目に入る。
視線を上げた先にいたのはリリアだ。そういえば、村から一緒に戻ってきて以来、顔を合わせていたなかった。
「村に連れて行ってくれてありがとう。お礼を言いそびれていたから、挨拶に行ったのに屯所からは『もう帰った』って言われちゃった」
それで家に行こうとしたところ、アルプレヒトをちょうど見かけて追いかけてきたのだという。
追いかけてきたはずが、なぜ目の前にいるのかとか、アルプレヒトの家と屯所をつなぐ道沿いに彼が辿ってきた道はないはずだとか、そういうことは考えるだけ無駄で、きっとまた迷子になりかけていたに違いない。
ふと、アルプレヒトは気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、あの箱、どうしたんだ?」
そういえば、アルプレヒトには何の説明もしていなかったと、リリアは簡単に村にかけられていた“呪い”について伝えた。遺骸については、丁重に荼毘に付して埋葬した。
「箱はどうした?」
「箱って、湖に沈んでいたやつ? 一緒に燃やしたけど、あの箱がどうかした?」
きょとんとしたリリアだが、アルプレヒトはリリアとは別の意味であの箱が引っかかっていた。似たような箱を見たような、何となくだが既視感があったのだ。だが、いくら考えても何も思い出せなかったので、見間違いや思い違いなのだろう。木箱の一つや二つ、目にする機会はいくらでもあるのだ。
「どこに行くの?」
「峠に行ってくる」
「一人で? しかもこんな時間なのに」
アルプレヒトは体術は得意なようだが、剣の腕に長けているようにはとても見えなかった。いくらすばしっこくても、徒党を組む盗賊相手に渡り合えるわけもなく、偵察だけのつもりでも万一見つかった場合、逃げ切れる確率は高いとは言えないだろう。
「私も行く」
「は!? 何言ってんだよ! 危ないだろっ」
「そんな危ないところに一人で行くつもりなのは誰よ?
「それはっ! ……俺は男だし、辺境伯家の一員としての責任もあるし」
じっと見つめてくるリリアから、アルプレヒトは顔をそらす。
自分が力不足なのは十分理解していた。行って何ができるかもわからない。剣の腕がたてば一味の一人でも捕縛できたかもしれないが、それができるならとうにしていた。
「とにかく、他人のリリアを連れて行くわけにはいかないんだから、大人しく待っていてくれ!」
自分すらどうしたら良いかわからないのに、そんな中でリリアを連れて行けるわけもなかった。そのままリリアに背を向けて、アルプレヒトは駆け出した。
(他人、かあ)
遠くなっていく背中を見つめながら、リリアは胸に刺さった言葉を反芻した。
アルプレヒトはつい先日知り合ったばかりの他人だ。依頼主ではあるが、友人でも、ましてや家族ですらない。それでも、その懸命な姿に、どうにか力になりたいと思った。他人だったら力を貸していけない理由などないはずだ。
すでに見えなくなってしまった背中を見据えるように、リリアは目の焦点をすっと遥か前方に絞った。