秘めた思い
「いきなり叫んで、逃げてきて良かったの?」
「だって・・・! 突然だったし、こんな格好だし」
二階の部屋まで駆け込んだリリアを追ってきたディアーヌだが、軽いパニック状態のリリアを見て、その内心を思いため息をつくと同時に、原因の男に対してもため息をつきたくなった。時々、彼は、周りが慌てふためく姿をみたいがために、わざといろいろやらかすのではないかと思うことがある。あながち的を外してはいないだろう。それをみて楽しむような性格の悪さをしている奴だ。
リリアにしてみれば、村で見つけた箱をどう処理するかで頭がいっぱいになっていたところなのだ。そこに、まさか、出立時にはいなかったマリスがいるという、全く予想もしていなかった状況。慌てるなという方がおかしい。
(しかも、こんな泥まみれだし)
見た目が普通以上に整っているマリスと、今更見た目を比べようとは思わないが、それでも一応乙女心としては、きちんと身なりを整えていたいと思うのだ。
「それで、村の方はどうだったの? 持ち帰ってきたあれは何?」
その一言でリリアはぱっと思考を切り替えた。その変わり身の速さにディアーヌはいつも感心する。
「土の民に由来する呪いなの」
「呪い?」
ブレマン国。土の民が住まう土地。彼らは土をよく知っていた。どの土を使えば、どんなものを作り出すことができるか、驚くほどに熟知していた。土の恩恵を受ける彼らは、水を大切にしていた。彼らが仕事を成すには、水の力が不可欠だったからだ。そんな彼らが住まう土地には、清らかな水がたゆたう場所が存在する。
土の民の住まう湖や泉のある場所は、神聖なるものとして崇められていたという。そこに、殺した動物の遺骸を沈める。その行為は水そのものを穢し、恩恵を受けられなくするという呪いなのだ。
リリアが持ち帰ってきたあの木箱には蛇の死骸が何体も詰まっていたという。
「……よくそんな箱、抱えて持って帰って来れたわね」
「確かに気持ち悪い、けど……」
話を聞いただけでも身震いしたくなっているディアーヌに、リリアも同意を示す。よくよく思い返すと、鳥肌が立つ。遺骸そのものに対してもそうだのだが、目に飛び込んできた蛇たちよりも、そこまで執拗に遺骸を求めた執念の方が恐ろしかった。
しかし、あの箱の中身を見た瞬間、それが引き起こした事態をどうにかしないといけないという思いに突き動かされた。
旱魃という異常事態は人々を苦しめる。しかし、苦しむ人々を生み出しても旱魃をおこしたいと願う気持ちなど、自分には決して理解できなかった。あれだけの蛇の死骸によってもたらされた穢れだ。あの場から持ち去っただけでは、穢れを祓えるわけではないだろう。それでも、置き続けるよりは幾分かマシだと思ったのだ。
ディアーヌは、リリアが握りしめる指の先、爪の間にも泥がこびりついているのを見つけた。昨日の今日で戻ってきたことからも、馬を相当飛ばしたに違いない。体も夜気に晒され、風邪でもひいては一大事だ。湯の準備をしようと、ディアーヌは部屋の扉を開けた。
「話は一段落ついたか?」
「……なんでいるのよ」
廊下の壁によりかかるマリスを目にした途端、ディアーヌは半眼になる。気配をまったく気取られないように動くのはやめていただきたいところだ。
「少し話しても?」
本当なら、一度きちんと身なりを整えてから、と言いたいところであるが、時間の余裕もさほどないことや、一応断りを入れてきたことを考慮して、ディアーヌは黙って扉に半身を寄せた。
「元気だったか? 久々に会ったのに、まさか目の前で叫ばれるとは思わなかった」
笑顔のマリスとは対照的に、リリアは固まった。先ほど態度がだいぶ失礼であったことは明白だが、思い返したところでやり直しがきくわけでもない。
「違うんです。まさか、お会いするとは思わなかったから! びっくりしたっていうか、驚いたっていうか……」
手をいろいろ動かしながら何とか言い訳するリリアは、顔はうつむいたままでマリスと目を合わせられない。
あまりにも落ち着かなくて動かす手指の汚れが目に入る。うつむくと否応なく、制服の泥染みも視界を埋める。 沼にどっぷり浸かった拍子に、泥が跳ねて顔や髪も汚れが付いていることだろう。
対して正面にいる人は、いつも通り上等な布地の服に身を包み、一部の隙もなく佇んでいる。ふわりと香る上質の香水は、胸を締め付けるように、しかし柔らかく鼻腔をくすぐる。
「気にしてないさ。とりあえず、顔を上げてくれないか」
(さっきから心臓がうるさいー。早く落ち着けー)
きゅっと目を瞑り、そう心の中で念じるリリアの耳に、マリスの悲しそうな声が届いた。
「……顔も見たくないほど嫌われてしまったということか……」
「違います!」
瞬時に否定して思わず顔を上げると、マリスが優しくこちらを見ていた。
「やっと、顔を合わせられた」
嬉しさをにじませる声と柔らかな笑みに、リリアの心臓は余計に切なさで溢れた。
そんな思いが表情に出ていることにはリリアは気づいていないのだろう、切なげに自分を見つめる少女の顔を見ながら、マリスはずいっと近づいた。顔を覗き込まれ、ついっと頬を親指でなぞられるまでの一連の流れの間、リリアは一瞬たりとも息を付けずにいた。
親指についた泥は指でこすると砂状になり、簡単に落ちた。伝わる冷たさと柔らかな感触に、マリスは己の指を拳の中に収めた。
「大体のことは、聞いている。あの箱の中身についても、今聞かせてもらった。旱魃の原因はとりあえず、取り除けたと考えていいか?」
「はい」
「あまり、無茶をしないでくれ」
静かな声が聞こえてきた。見上げると、マリスの思案顔が目に入る。
「相手の動機がまだ完全にはっきりとしない。それに証拠も不十分だ。それに関しては、こちらでなんとか手を打つ予定だが……。お前はたぶん、団員たちの中で一番〝強い〟だろう。でも、そのぶん無防備だ。それに、お前には巫女として類まれな〝力〟はあるが、使い方によってはおまえ自身が傷つくだろう? だから、無茶だけはするな」
いつも意志の強い光が輝くその琥珀色の瞳の中には、今は心配そうな光が宿っている。
(……この人は変わらない、いつも、いつも私を心配してくれる。だけど……)
自分はこの人に恩返しができているのだろうか、ちゃんと役に立てているのか。そう考えると、どうにも心が悲鳴をあげる。
(お願いだから、もう少し。もう少し役に立たせて。そうでないと……)
――あなたにとっての、私の存在意義がなくなる……。
「考えすぎるな。お前はちゃんと役に立ってくれている。というか、役に立ちすぎなんだ」
ため息をつくとマリスは再度、リリアの頬に軽く触れる。
「疲れただろう。ゆっくり休んでくれ」
そう優しく微笑み、部屋を後にした。
触れられた頬に残る、指先の感覚とその熱さに、再び息を止めそうになりながら、リリアは何度か深呼吸をした。それでも、心臓の音はまるで壊れた鐘のように耳元で鳴り続ける。
「……私は、巫女だもの。役に立つには〝力〟が必要なの……」
何度も自分に言い聞かせてきた。心の奥底に仕舞いこんだ想いに鍵をかけた。決して開けないと誓った。
この想いがあるから、生きていける。