おかえりとはじめまして
太陽が昇り、白い雲と青空のコントラストが鮮やかに頭上を彩る頃、リリアとアルプレヒトが戻ってきた。
宿にいた団員たちは思いのほか早い到着と、彼らの格好に驚いた。リリアは全身、とは言わないもののスカートもストールも元の色が分からないほど汚れ、乾燥した土のようなものがこびりついている。シャツはスカートほど汚れているわけではないが、袖口から肘辺りまでは似たような惨状だ。アルプレヒトも似たような汚れがついてはいるが、こちらはリリアほどではない。
泥の中からはい出した後、宿にしていた村長宅に戻り、手や足の汚れを簡単に落としたリリアは、服の汚れはそのままにアルプレヒトに頼み込んで夜通し馬を駆けてもらったのだ。
馬上の二人をみて、全員が心の中で(あーあ……)と声を揃えたのは言うまでもない。
「お帰り」
馬から降りたところで聞こえてきた声に、リリアは動きを止める。見慣れた団員たちの後ろに、久方ぶりに見る、明るい茶の輝きに一瞬思考が停止した。
「いやあーーー!!」
思わず絶叫し、走り去るリリアの後ろを、ため息をついたディアーヌが追いかける。その時にマリスの横顔を睨みつけるのを忘れはしなかった。
「……化け物か、俺は」
口元を引くつかせるマリスは、アルプレヒトに目を向けた。
アルプレヒトはといえば、初めて見るリリアの狼狽っぷりに唖然としていた。風体の良くない男たちに絡まれた時も、蛇の死骸を見つけた時も、あんなに慌てふためくことはなかったし、辺境伯邸で濡れたリリアに着替えを貸した時も堂々と気おくれすることなく振る舞っていた。
(ずっと冷静なもんだと思ってたけど)
あんな叫び声をあげるとは。一連の流れに呆気に取られていたが、背後から視線を感じ、振り返った。
そこで、初めて見る男の眼差しにアルプレヒトはたじろぐ。気圧される、という感覚とはこういうものなのだと、初めて実感した。
「はじめまして。アルプレヒト・カイ・フォン・グリムデル様ですね。グリムデル家次男の。どうぞ、お見知りおきを」
オラール商会の人間だと名乗る青年の声を聞きながら、久しぶりに自分のフルネームを聞いたな、などと見当違いの感想をアルプレヒトは抱いた。フルネームを聞くと、否応なしに自分がブレマン国の貴族の一員であることが自覚される。
窓から差し込む日の光を受けて、男の茶色の髪がまばゆく輝きを放つ。目の前にいる商人のほうが、自分などよりもよほど貴族然として見えるのは、卑屈な心持ちのせいだろうか。
商会とは、地方貴族が自治領の特産品を取り扱うために立ち上げられたものがほとんどだ。なので、商人とはいえ、ある程度の規模の商会の代表であるならば、貴族の血縁であることも珍しくない。オラール商会、ということは、フェディール王国のオランデル地方にある商会に違いない。オランデルの姓を名乗っていたし、目の前の青年はオランデル伯の血縁になのだろう。
「どうぞ、マリスとお呼びください」
「では、俺のこともアルプレヒトと呼んでくれ」
「いえいえ、私は一介の商人ですから。アルプレヒト様と呼ばせてください」
「どういう関係なんだ?」
明らかにジョングルールではない風体の男にアルプレヒトは首を傾げ、ヴァレールに問いかける。到着するなり駆け出したリリアから薄汚れた箱を押し付けられていたヴァレールはしぶしぶ答える。
「…パトロンだ」
「彼らの支援をしているんですよ。主に金銭面のサポートが多いですが、知り合いの商人や貴族の要望を聞いて、彼らに興行先として紹介もしています」
「じゃあ、もしかして今日来たのも新しい興行先を紹介しに!?」
アルプレヒトは焦った。彼らに雨乞いをするために“伝説の巫女”探しを頼んだが、それは芳しくない結果となった。しかし、農村部へ行ってから、更にシルウァスへの要請を諦めきれなくなっていた。なんとか『リドル・ラム』に手紙を届けるだけでもして欲しいと考えていたのだ。
(金は、借金でも出世払いでも、どんな方法でもいいから何とか用意する)
手紙が島へ届き、巫女に読んでもらえるまでにそもそも時間がかかる。その間に何とか必要な資金を工面する方法を考えれば、一縷の望みをつなぐこともできるのだ。それなのに、肝心要の『リドル・ラム』がいなくなってしまっては、そんな計画もご破算だ。
アルプレヒトの様子にマリスは笑顔のまま、首を振った。
「近くまで別件の仕事があったので、ついでに寄ったんですよ。彼らの名は、遠くまで響きますからね。どこにいても居場所がわかります」
その言葉にアルプレヒトはほっと胸をなでおろした。
「その様子だと、彼らの舞台を相当気に入っていただけた様子ですね。資金援助をしている身としては、貴族の方々からそれほど好評を頂けるとは嬉しい限りです」
「もちろんすごかった! 圧巻だった! でも俺は、それだけじゃなくて、はいた――ってぇ!!」
ヴァレールに突然足を踏みつけられた痛みに、思わずアルプレヒトは悲鳴を上げた。しゃがみ込み、靴ごと足を抱え込むアルプレヒトのつむじを見下ろしながら、マリスは首を傾げる。
「お前は! どうしてそう、何でもかんでも口にするんだ!? 少しは黙っていられないのか!?」
首根っこを押さえつけるヴァレールの声は、押し殺した怒気が完全に伝わってくるもので、背筋にうすら寒さを感じたアルプレヒトは急いで話題を変えた。
「マリスは、町に滞在するのか?」
『リドル・ラム』に会うのは用事のついでだったようだが、もしかすると幾日か滞在していくのかもしれない。
「そうしたいのはやまやまなのですが、最近盗賊被害で商隊に被害が出ていまして。今回もその様子を直接調べに来たところなんですよ。なので、団員たちの顔を見たら帰路に就く予定です」
その言葉にアルプレヒトはうつむいた。他国の商人が不安に思うような状況がいつまでも続けば、外国の商人たちが不安を膨らませる。危険を冒してまで商売をしようと思う商人はごくわずかだろう。それも危険を冒しても余りある利益が見込める場合だけだ。そうなれば、グリムデル領との取引を見限る商人たちが出てくる。そうすると――。 アルプレヒトの頭の中に、領民たちの顔が次々と思い浮かんだ。
唇を噛み締めるアルプレヒトの肩に、そっと手が添えられた。見上げると、マリスの優しい瞳がそばにあった。
「大丈夫。町の住人が困るようなことにはしませんよ」
力強い声に、思わずアルプレヒトは縋り付きたくなった。初対面、しかもほんの少し話しただけの相手だが、そうさせるだけの雰囲気を備えていた。
「あのさ! 兄上と直接話してもらえないかな!?」
突然のアルプレヒトの提案にマリスは目を瞬く。
「兄も町の施政に加わっているし、商人の、しかもフェディールからの話ならきっと聞いてくれるはずだ」
しかも、相手は大手の商家だ。今後の取引のことも考えて、グリムデル領の損には決してならない。先々まで見据えることのできる兄なら、この機会を手に入れることを躊躇はしないだろう。
「お申し出は有難いのですが……」
困惑の表情を浮かべたマリスに、アルプレヒトはもどかしさを隠せない。なぜ町の領主に会える機会があるというのに、それをふいにするのだろうか。
アルプレヒトのくるくる変わる表情をマリスは面白く観察する。会ったばかりの得体のしれない商人に、貴族の次期当主を簡単に会わせようとするその危機意識のなさには、こちらの方が腰が引けてしまう。
あるいは。そういったものをすべて投げ出してでも現状を打破したいと願うほどに追い詰められているのか。
「わかりました。ですが、明日にも私は出立しなければなりません。それまでに場を整えていただくことは、できそうでしょうか」
「段取りしてくる!」
言うが早いが、アルプレヒトはその場から駆け出した。馬にひらりと乗り、去っていく背を眺めるマリスの、これまた背後ではフランチェスコがこれ見よがしのため息をついていた。
「どうするんですか、いきなり長男と面会なんて」
「どうにかするさ。これまで、直接顔を合わせたこともないし、わからないだろ。どちらにせよ、国内のいくつもの商会で商売に差し障りがで始めているのも事実だし、ついでに辺境伯様の出方も探ってくるさ」
この機会に他の商品の売り込みや、商人たちへの便宜を図るなどの対応を要請できれば、行きがけの駄賃になる。
「さて、“それ”の中身をそろそろ見せてもらおうか」
リリアが持ち帰り、ヴァレールが抱えたままの木箱を見やり、にやりとマリスは口の端を上げた。