呪いの沼
二人が案内された場所は村長宅だった。他の村人の家よりは大きく離れもあるため、その一部を改装したような作りとなっていて、数少ない旅人の滞在場所となっているらしい。
「普段は麦の買い付けに来る商人さん方が泊まっていくんだが、今年はねえ」
人のよさそうな村長は曇り顔のまま、ため息をついている。村人の食料は備蓄分の麦や他の野菜類でどうにかしのいでいるようだが、それもいつまで持つか心元ないという。
「ずっと雨が降らない状態が続くようなら、この土地を捨てなきゃいけないかもしれない」
そういう村長にアルプレヒトは何も言えず、うつむいてしまった。
領地の民が困窮に喘いでいるのに何もできない。せめて、シルウァス島へ行くことができれば、星巫の力で解決方法がわかるのではないかとは思うが、やはり時間が足りない。
案内された部屋で一息つくが、じっとしていても同じ考えがぐるぐると頭の中を巡るだけで、天候不良の解決の手立てなどまったく思い浮かばなかった。
リリアはずっと村長やその夫人と話をしているようだ。そういえば、昨日までも宿の女将とかなり仲良くなっていたことを思い出す。ジョングルールとして各地を旅していると、そういうものなのだろうか。
夜になり、窓の外は暗く、宵闇に包まれ始めた。濃紺の空には星が瞬いているのが良く見えた。
(シルウァス島の星巫は、あの星の配列を読んで吉凶を占うんだよな)
昼間、土の民の話が出た時には“昔話”と言ったが、別にそれが真っ赤なウソやおとぎ話だと思っていたわけではない。現に、ブレマン国はその恩恵を背景に発展した。おかげで、職人たちの力が他の国よりも強い。シルウァス島の星巫を頼ろうとしたのだって、 “星の民”の力が本物であることを無意識に信じているからだ。
国の大事から明日の天気まで、大小にかかわらず予測できるという星見。その星を読む力を持った巫女たちは総じて“星巫”と呼ばれる。島の女性に代々受け継がれる力は、祖先である“星の民”に発するもので、その恩恵を真っ黒な黒髪黒瞳に蓄えているという。
そう考えると、黒一色ではない色の持ち主のリリアが疎外されたのは無理からぬことなのだろうか。
(でも、それっておかしくないか?)
星見の力があろうとなかろうと、同じ土地で生まれ育った仲間ではないのか。
モヤモヤがずっと晴れない頭をすっきりさせようと、アルプレヒトは窓から顔を出した。夜気の中でふと、人影が目に入る。
(リリア!? えっ?)
宿を抜け出し、林の方向へ足を向けている。アルプレヒトは、玄関に回るのももどかしく、窓枠に足をかけて飛び出した。
少女の背を追いかけていくと、昼間に見つけた沼にたどり着いた。昼間やけにあっさりと離れたと思ったら、人目を避けてもう一度訪れるつもりだったということか。
迷わずに進むリリアは、木々や岩に印をつけていたようだ。一人で動くと迷子になることは彼女も理解していたのだろう。その行動から、やはり沼に近づくことを昼間から決めていたのだと確信する。
「おい、入ってもいいのか?」
ブーツを脱ぎ棄て、水に足を浸したリリアに思わず声をかけると、パチャンと水音を響かせてリリアが振り返った。
「ビックリしたあ。でも大丈夫よ、そんなに深いわけじゃないらしいの」
リリアは、事前に村長夫妻から話を聞いていた。確かにもともとは、澄んだ水を湛えており、子供たちが言うように雨が降らなくなった時期を境に、突如として濁ってしまったのだという。
しかし、その原因は誰もわからず、対処のしようもないのだという。
「『せっかく辺境伯様が視察に来てくださったのに』って、残念そうに言ってたけど、何か聞いてる?」
聞いた話では、来年の麦の生育について知りたいと、村を訪れたらしい。『来年が楽しみだ』と言って辺境伯が村を後にした翌日に、沼が濁り、以降一切の雨が降らなくなった。辺境伯が期待をかけてくれたのに、と村長は重いため息をついていた。
リリアからそんな話を聞くが、アルプレヒトはそもそも父親が視察に訪れていたことすら初耳だった。
(なんだかんだ言いながら、俺も親父のこと、全然見てないってことだよな)
父親に顧みられないと嘆きながらも、自分も関心を払っていない。そんな事実にアルプレヒトは渇いた笑いを浮かべた。
そんな様子を横目に、リリアはそろそろと沼の周辺から中心へと足を進める。
「深くなくても、蔦や苔ばっかで、どっちにしろ危ないじゃんか」
アルプレヒトはほとりをウロウロとしているが、落ちている枯れ木や苔むした岩に躓きそうになり、そっちの方が危ないと思ってしまうリリアだ。彼女の意図が分からないため、手伝いたくとも手を出せないのだろう。それでも、心配でこの場を離れられないその様子に、思わず笑ってしまう。
「きゃっ!?」
「おい!? リリア!?」
笑った拍子にバランスを崩し、足を滑らせたリリアは沼の中で尻もちをついてしまう。濃紺を湛える水を、制服がどんどん吸い上げていく。手には泥がまとわりつき、水の冷たさと相まって気持ち悪さが指先から侵食してくるかのような錯覚に陥る。
「怪我してないか!? 立てるか!?」
「え、っと?」
「いや、ぼーっとしてないで早く掴まれって! 風邪ひくってば!」
「え、手、汚れるよ?」
「気にするところ、そこじゃないって!」
アルプレヒトが手を伸ばして来るが、思わずぼけっとしてしまったリリア。怒られながらも、何とか動こうと手を泥の中から引き上げる。
(あれ?)
手を動かした際に、何かが指先に当たる。倒木やそこから水中へと伸びる枝はあるが、感覚はそれとは異なるものだ。
差し出した手を掴むことなく、泥を掻き出し始めたリリアに、アルプレヒトは呆気にとられる。月明りだけが差し込む林の中は、なんとか周囲の輪郭が判別できる程度だ。その中で、泥の中で探し物など正直効率がいいとは言えない。見咎められる可能性はあるが、日が昇ってから再度探しに来た方が良いのではないか。
アルプレヒトがそう提案しようと口を開きかけたと同時に、リリアが振り向いた。
「あった」
リリアの抱え方から一定の重量はあるのだろう。アルプレヒトはリリアを引き上げるついでに、木箱も一緒に引き上げた。
彼女が手にしていたのは、泥にまみれていたが、しっかりとした作りの木箱のようだ。さほど大きくはなく、本が一、二冊ほど収まる程度だろう。丁寧な継ぎ目が見て取れ、中身は水にさほど濡れていないのではないだろうか。
(あれ?)
アルプレヒトは首を傾げた。どこかで似たような箱を見た気がするが、気のせいだろうか。泥にまみれて、そう見えるだけなのだろうか。
ふと気になり、掛け金を外して蓋を開ける。壊れており、すでに鍵の役目は果たしていない。そこには、黒いベルベッドで何かが包まれていた。生地は柔らかさなどなく、パキパキとした音と手触りを伝えてくる。
布をめくったアルプレヒトは思わず絶句した。ぶつ切りになった動物が詰まっている。蛇だ。開かれたまま、濁った瞳がいくつもアルプレヒトと視線を交えてきた。
箱の重みが増した気がする。よくよく考えると、このベルベットの黒さは蛇の血なのだか?
じわりと、腐臭が立ち上る。最初は全く気付かなかったが、単に目に入ったものの衝撃で匂いを感じ取っていなかっただけか。こみ上げるのが吐き気だとわかったのは、口の中が酸っぱさに満たされたからだ。動物の死骸が放つ匂い、そしてその姿から感じるのは、おぞましさだ。
彼が悲鳴を上げなかったことを褒めて上げたいと、振り返ったアルプレヒトの顔を見たリリアはそう思った。