居場所
翌日、アルプレヒトは自宅で父親の帰りを今か今かと待ち構えていた。夜が更けてもなかなか父が帰宅しないため、落ち着かない様子で、広い屋敷の中をうろうろしては何度も首を伸ばして窓の外を覗いている。
その時、きらりと光る明かりを見つけたかとアルプレヒトは一目散に踵を返して駆け出した。馬車の明かりだ。
「おっ、…はえ?」
玄関に駆け下りたアルプレヒトは、父親に呼びかけるために口を開いたが、出てきたのは間の抜けた声だった。
邸内に入ってきた父親の隣にディアーヌもいたのだ。金色の豊かな髪の毛を緩く結い上げ、白く細い指は辺境伯の腕にそっと沿うように触れていた。その光景に、思わずアルプレヒトは顔をそむけた。
あからさまに抱きついている場面のほうが、まだ平静を装えたかもしれない。むしろ、人前で堂々とはしたない、と非難することもできた。しかし、目の前の彼女の様子は、接触範囲は狭いにもかかわらず艶めかしさで溢れ、思わず視線を逸らさずにいられなかった。
「なんだ、こんな遅くに」
眉間にしわを寄せる父親の声に、アルプレヒトは我に返った。
「町の人間に何をやらせようとしてるんだよ!? 警備隊だっているのに、そっちは使わずに危ないことさせるつもりか!?」
「何の話だ」
「ごろつき連中が話していたんだよ。グリムデル辺境伯が絡む話で、危険だけど実入りのいい仕事があるって」
「お前はまだそんな連中と付き合っているのか!?」
アルプレヒトはある疑惑を父親にぶつけるが、反対に自分の行動を叱責された。
「付き合ってるわけじゃない! たまたま話を聞いただけだ」
「そんな連中からの話が耳に入るような場所をうろついているだけで十分だ。まったく、辺境伯家の一員としての自覚があるのか? いつになったら成長するんだ」
そのまま次男に背を向け、自室へと歩を進める辺境伯に付き従うディアーヌは、目の端でアルプレヒトの表情を観察していた。質問の内容は曖昧にされたまま、苦虫を噛み潰したような顔を向けられ、まったく相手にされていないアルプレヒトはうつむいたままだ。ちらりと見えた顔は、唇を噛みしめ、泣きそうに歪んでいた。
「よろしいんですの?」
「ああ、構わない。いつまでたっても、貴族の一員としての自覚がない。困ったものだ」
自室に用意されていた酒をあおりながら、グリムデル辺境伯は苦々しげな表情を浮かべた。
「あれやこれやと口を出して来るが、実質的なことは何もできん。兄のベネディクトは責務を果たしているが、その分、弟だからと甘えているのか、アルプレヒトときたら町の良からぬ連中と問題を起こしたり、みだりに平民どもと付き合ったり、家の名前に泥を塗るつもりでいるとしか思えん」
「彼なりにお父様の役に立ちたいと思っているのでは? 農地まで行かれたって伺いましたわ」
「行ったからなんだ!? 収穫の少ない農地に一体何をしに行ったんだか。農地に残っている小麦を回収してくるくらいできるだろうに、それすらせずに『雨乞いの使者をシルウァス島に送れ』なんていう世迷言を言い出す始末だぞ!?」
伯が空にした杯にディアーヌは黙って酒を継ぎ足す。
「剣を習わせてもすぐに投げ出す、勉強をさせても理解は不十分、家のことよりも平民どもの都合ばかり気にするという体たらくだ。まったく役に立たないどころか、貴族としての矜恃すらないとは、情けない限りだ」
イラつきを隠そうとせずに、注がれるがままに杯を空にしていく伯にディアーヌは嘆息した。
これは、今までの人生すべてを否定されているようなものだ。優秀な兄と比べられていただけかと思っていたのだが。武を磨いても、知を積み重ねても、努力や才が不足していると侮られ、人のために心を砕けば卑しい振る舞いだと蔑まれる。実の親からそのような扱いを受けてきた彼は、それでも自分の立場でできることを精一杯考えてきたのだろう。
(本当に、“藁にもすがる思い”、だったのね)
いくら『リドル・ラム』が名の知れた集団であるとはいえ、得体のしれない流浪の身である彼らに頼みごとをするなど、賭けでしかなかっただろう。相手が悪ければ、騙され、法外な金銭を要求され、トンずらされていてもおかしくなかった。運が良かった、としか言いようがない。
(それよりも、よくぐれなかったものだわ)
あれだけ父親から見下されて育てば、反抗して、無法者に成り下がっていてもおかしくはない。
ひたむきに領民たちを救おうと必死になる姿を思い出し、ディアーヌは口の端に笑みを浮かべた。
部屋に戻ったアルプレヒトは後ろ手に扉を閉めると唇を噛み締めた。
いつもそうだ。まともに話を聞いてもらえたことなどなかった。頭ごなしに否定され、兄と比べられた。
(出来が悪いことなんか、俺が一番わかってるさ!)
それでも昨日耳にした話をどうしても確認しないといけないと思ったのだ。
昨夜の『リドル・ラム』とごろつきたちの勝負は食堂全体を巻き込み、深夜遅くまで盛り上がった。アルプレヒトは早々に熱気と酒香に呑まれ、テーブルの上に伸びていた。
ふと目が覚めてみると、いつの間にやら喧騒は止み、数名のぼそぼそ話す声しか聞こえない。
きっとフランチェスコが男たちの有り金を巻き上げ、ビョルンに潰された男たちはその辺に転がっているんだろうな、などと思いながら、再び訪れた睡魔に身をゆだねかけた。
「本当においしい話なんだって。あんたも乗ってくれよ」
「おいしい話ったってなあ。突然絡んできたあんたらを簡単に信用しろってのは、無理があるだろ」
「俺らのことを信用できなくても、“グリムデル辺境伯”の名前なら信用できるだろ」
突然聞こえてきた名前にアルプレヒトははっと身を強張らせた。ぼんやりしていた頭からは睡魔は消え去っていた。
声からするとごろつきの話し相手はビョルンだろうか。アルプレヒトは声を出すことも身動きを取ることも忘れ、話の続きを待った。
「山の中での仕事だ。なに、簡単なもんさ。仲間もいるから割り当てられる仕事量は多くもないし、そのうえ賃金も支払われる。夜仕事だが、別にそれさえ苦でなければいい稼ぎになるぜ」
「仕事の内容は?」
「そりゃあ、話を引き受けるって決まりゃ教えるさ。大事な仕事だから、みだりに数を増やしたり、訳の分からん奴は引き入れるなってお達しでよ」
「俺は旅芸人だ。簡単に誘っていいのか?」
「あんた、辺境伯家で興行もしたんだろ。なら別に素性がまったく知れないわけでもないしな。腕っぷしも強そうだし、そういう奴は大歓迎だ」
戦力を求められているということは、荒仕事なのだろうか。しかも山の中でとなると、盗賊絡みであることは間違いなさそうだ。辺境伯家の騎士たちとは別に、自警団でも組織したのかもしれなかった。
(なんで、俺には全く一言もないんだよ)
父親の顔が目の裏に浮かぶ。町の警備兵として動いている自分なら、適切な人材も揃えられるのに、そんなことなど全くあてにされていないのだ。
しかし、あんな素行不良どもでも領民であることには変わりない。下手をすれば大怪我を負いかねず、この地域を治める者として、避けないといけないのではないだろうか。
そんなことから、とにかく事の経緯を確認しないといけないと思い、父親の帰りを待っていたのだ。しかし、結果はこれだ。結局自分はいつも蚊帳の外。いないものとして扱われている。それがどうしようもなく、歯がゆく、そして情けなかった。
明くる日の朝、父親と顔を合わせることもなく、アルプレヒトは早々に家を出た。使用人たちはいつも通り、何も言うわけでもなく、見て見ぬふりだ。彼が家にいるほうがむしろ、辺境伯の不機嫌さが増すため、使用人たちとしても次男はいないほうが無駄に気を遣わずに済むのだろう。そんな空気を常に感じているため、アルプレヒトにとって家は心休まる場所とはなっていなかった。
(かと言って、町の中に居場所があるわけでもないんだけどな)
その時々によって、領民たちの困りごとは異なるし、問題も持ち上がる場所も様々だ。貴族のお膝元の町であるから、規模もそれなりに大きく、人の行き来も多い。もちろん物資もだ。そのため、旅人や商人たちを支える施設が多く存在し、そこで働く人間も大勢いる。地元の人間と、異邦の人間。新しい空気が流れ込む町では、それだけたくさんの情報が入り混じる。異文化に触れる機会が多い分、人々は寛容さも持ち合わせているが、同時に変化にも敏感になる。変化は時に不安を引き起こし、その不安は放っておくといつしか厄の種となる。
父はそのことに気づいているのだろうか。
街を歩いていると、活気と共に、人々の不安を感じる。特にこの数か月で、その憂いの濃度は増しつつある。だからこそ、荒唐無稽とはいえ、その解決策を自分なりに考えてみたのだが、結局聞き入れてはもらえなかった。
こんな時の解決方法はどうすればよいのだろう。父や兄はどう対策をとるのだろう。近くで二人の支えとなり、その手腕を学びたいと思うのに、いつも蚊帳の外に置かれてしまう。ため息をつくが、それが何の解決にもならないことは、もう十分すぎるほどに経験していた。ため息の重さとは反比例するかのように、空は青く澄んでいる。
頭をふったアルプレヒトは、宿屋の先にリリアが待っているのを見つけた。
「よう! 準備は大丈夫か?」
ビョルンから旱魃が起きている場所へ、リリアの案内を頼まれた。今日これから向かう農村部は馬で半日ほどかかる。さすがに二人なので、全速力で駆けるのは、馬の体力的にも後ろに乗るリリアにも負担が大きい。そのため、村には一泊してこないとならない。
「大丈夫なんだろうな」
信頼しきれていないことが存分に伝わってくる目で、ヴァレールが見てくる。むしろ、一緒に行くリリアの方があっけらかんとしている。
「気を付けて行けよ」
「任せて! ちゃんとリリアの面倒は見るからさ!」
「……面倒みられるの、私?」
せめて、「身の安全を守る」とは言ってくれないものか。
リリアは釈然としないものを感じつつ、馬の背にまたがる。アルプレヒトの後ろから顔を出すと不安そうなヴァレールと目が合う。付き合いの長さもあり、何も言わなくても考えていることが何となくわかってしまう。
(心配性なんだから)
行って帰ってくるだけの、旅とすら言えない行程だ。盗賊が出ている地方に行くわけでもない。だからこそ、ビョルンも許可を出したのだ。
「行ってくるね!」