宿屋の雑談
一方、『リドル・ラム』の逗留先である宿屋では、朝の混雑も落ち着く時間となっていた。一階の食堂は、旅立つ人間を順次送り出し、今いる客は数えるほどだ。
「女将さーん、おはよう! 今日の朝ごはんも美味しかった」
リリアが明るく女将に挨拶すると、笑顔が返ってきた。
「こちらこそ、おいしそうに食べてくれてありがたいよ。昨夜も盛り上げてくれてありがとうね。旅芸人なんて久しぶりだったし、楽しかったよ。また今度頼むね」
そう言いながら昼の営業用に仕込みをしている女将の手元を覗き込みながら、リリアは尋ねた。
「何作ってるの?」
「これかい? ……ちょいとお待ちよ」
女将は手を止め、奥の貯蔵庫らしき部屋に引っ込むと、なにやら黒っぽい塊を手に現れた。それを小指の関節程度の厚さに切り取ると、リリアに一枚差し出した。手のひらほどの大きさのそれはパンで、中にはところどころ緑の草のようなものが練りこまれていた。触った感じはかなり固そうだ。
リリアは思い切って、口に入れた。思ったとおりに固く、歯に力を入れると、がりっと音がした。口の中でポロポロと崩れるので、さほど咀嚼に力は要さなかった。が。
「すっぱーい!」
味の方は、かなり酸味の強く独特の風味だ。リリアのあげた声に、近くにいた客が笑っている。
「そりゃあそうさ。そのパンは、レイズル麦とグレモンの薬草を混ぜ合わせて焼いたものだからね。ブレマン国じゃ、それを大量に保存して冬期に食べるんだよ」
その客の言葉に、女将も笑って頷く。パンに入れるための薬草の下準備をしていたらしい。
「普通は、スープに入れたり、クリームをつけたりして食べるからね。さすがに、そのままだとすっぱいさ」
リリアはヴァレールに一かけらを差し出し食べるか尋ねたが、その表情を見ていたヴァレールは首を横に振り、女将や客に尋ねた。
「こういうパンはかなり大量に用意しておくのか?」
「ああ、そうだね。いつも今ぐらいの時期から作り始めて、保存を始めるのさ。ただね、今の麦の値段じゃ、冬期までに十分な量を保存できるか……」
女将も客も心配顔である。ヴァレールは、麦や市場の状態について彼らに質問したが、得られた答えは、アルプレヒトの語っていたことと大差はなかった。その間に、リリアは薬草入りのパンを何とか食べ終える。水が欲しい。口の中の水分がすべて持っていかれる上に、口の中にまだ薬草味が残っている気がする。
「女将さん、アルプレヒトって常連なの?」
「ああ、あの子かい? そうだね、ちょくちょく顔を見せるよ」
女将は準備の手を休めることなく答えた。隣の客も頷いている。
「優しい子だよ。困っているところを見かけたら、必ず手を貸してくれるしね」
「単純で、よく喧嘩してるところも見るけどな」
そう言って、別の客も話に加わってきた。
「お人よしで、ヌケてるところもある。でも、人間味があって好きだぜ」
町の人間にはかなり好かれているようだ。女将も客たちも一様に、優しい表情で語っていた。
「そういや、あんたたち『リドル・ラム』って、グリムデル家の宴会のために呼ばれたんだろ? 元々、知り合いだったのか?」
唐突に辺境伯家の話が出てきたことに、リリアとヴァレールは顔を見合わせる。
「確かに、辺境伯家から依頼は受けたが……。会ったのは今回初めてだな」
「シャルルマーニュからブレマンに入る関所で依頼書を受け取ったのよ。特に予定も入ってなかったから引き受けたけど、どうして?」
客の男は、はっとしたように目を泳がせた。その向かいのカウンターの中では、女将が男に向けて渋い顔をしている。
貴族から依頼を受けることはたびたびあるが、別に全員と知り合いなわけではない。噂を聞いて使いを寄こして来ることがほとんどだ。
「いや、いくらなんでも、この食糧難の時期にやらなくてもなあって思ってさ」
「こんなところで、お貴族様の批判なんてしないでおくれよ。ご当主さまも嫡男様も、この辺に来るようなことはしないけどさ」
「まあまあ、この町はまだ流通も多いから、食い物もそこまで困るってことはないからマシだろう。ちょっとした宴くらいなら、人も金も動くから商売もしやすくなってありがたいだろ」
そこからは地元の者たち特有のペースで、グリムデル辺境伯家の話から、自分たちの商売の売り上げやら家庭の事情がどうの、という話へ移行し始めた。
リリアとヴァレールは女将や客たちに礼を言い、町中へと出かけることにした。
賑わう商業地区を抜け、住宅街を横目に歩きながら神殿を目指していた。途中、大きめの広場とその横に教会を見つける。
「教会の前に噴水の設備があるわ。さすがブレマン国」
「泉のあった場所を噴水設備に利用したんだろう。平時には使用しないが、祝祭では実際に水が噴き出すみたいだ。建築に関しては、やはりブレマンの職人たちが一番だからな。あの手の設備整備もお手の物だろう。シャマーニュとの国境にほど近い地域では、ガラス細工や陶器が工芸品として名を馳せている」
ヴァレールの声に耳を傾けながら、リリアはなかなか目にすることができない町の様子に興味津々だ。
煉瓦と石の町並みそのものは珍しいものではないが、そこかしこに見られる井戸や水くみ場の設備、ちょっとした曲がり角に見られる煉瓦細工など、細かいところは独特の雰囲気が漂う。
住宅街のはずれまで来ると午前中にはすっきり晴れ渡っていた空も、今はどんよりとした曇り空へと表情を変え、周囲は薄暗くなっていた。空模様のせいか、神殿周辺に人の姿は少ない。
リリアは白石と巨木で築かれた神殿を見上げ、そして祭壇のほうへ近寄って行った。シルウァスの神殿を模した祭壇は民衆が供物を捧げるために設置されており、その上には大量の祈りの札が重ねられていた。その大半には、豊穣祈願や食物の安定供給、盗賊討伐などの祈りが書かれていた。
祭壇を拝しその場に佇むリリアだったが、同じように礼拝の姿勢を取っていたヴァレールに目を丸くした。
立場的には、生まれた時から聖輝教徒として生活しているはずだが、そういったことを抜きにその場に見合った振る舞いを自然とできるヴァレールの柔軟さには毎回感嘆させられる。
(普段はめちゃくちゃ細かいのに)
「何か失礼なことを考えていないか」
寄せられる半眼に作り笑いを返し、リリアは神殿周囲を回る。後ろからヴァレールが付いてくるが、特に何も言うでもない。神殿の様子、というよりも雰囲気の方に何か感じるところがある様子だ。
「面白い?」
「面白いというか、興味深いな」
普段なかなか眺める機会もない建築物だ。聖輝教の教会とは、また違った趣がある。
「そっちは見たいものは見れたのか?」
「祈願内容は確認したし、神殿の供物が途切れたり、周囲が汚れてる様子もない。反対に、過剰に神殿が清められてる様子もない。この神殿はいつも、こんな感じなんでしょう?」
なにか社会的に不安を煽る出来事が起こった時、人々は神に異常に傾倒するか、もしくは神の存在も忘れて精神的に荒むか。そのような人々の心の有様は、神殿の供物や周囲の清掃状態として表れやすい。シルウァス島の巫女たちへ祈りを届けるための神殿は、聖輝教の教会とは異なり、専任の管理者がいるわけではない。各地域の住人たちが自主的に参拝し、清掃し、維持のための管理を行っているのだ。
この神殿には、過剰に人々が参拝している様子も、荒廃の様子も見られない。食糧不足や盗賊被害に関して、町の人々がまだそれほど追い詰められているわけではないと、リリアは神殿の様子から判断していた。
「農村部の旱魃だが、そこまで深刻なのか? 気候変動なんてたまに起こるし、たまたまじゃないのか?」
わざわざ〝伝説の巫女〟を探してまで、雨乞いの祈祷をしなければならないほどの事態なのか。アルプレヒトの話だけでは、ヴァレールはいまいち納得しきれていなかった。
「たまに旱魃だの豪雨だの起こるのは仕方ないことだとは思うわよ。自然のことなんて、人が完全に把握できるわけじゃないもの。でも、今年に入って農村部だけ一滴の雨も降っていないっていうのは、あまりにも異常よ」
一時期だけならともかく、それほど長い期間、しかも地域限定で雨が降らない。理由はさておき、異常な事態であることは確かだ。
「町には雨が降るっていうのに……。これは急いで帰ったほうがよさそうだな」
曇り空はさらに雲の層を厚くしており、今にでも雨が降り出しそうな様相だ。空を見上げたヴァレールの言葉に、勢いよく首を縦に振ってリリアは歩き出したが、「そっちじゃない!」と方向転換させられたのは言うまでもない。