『リドル・ラム』、始動
(愛しい子、大好きよ。あなたは私の宝物)
――でも、母様。私、みんなとちがうもの。母様みたいに美しくないもの。
(あなたには〝特別な力〟があるわ。あなただけの大事な力)
微笑む母の暖かな手に、癒されながら涙が出そうになる。
――私は本当に母様にとって必要? じゃあ、父様は私が必要?
その問いは、いつも母に悲しそうな表情をさせる。だから、いつの間にかしなくなった。
自分は本当に必要なのか。母と似ていない自分、周囲とは異なる自分を、誰かが必要としてくれるのか。
(手を離すな! 離したら絶対許さないぞ!)
(危ないですから早く逃げてください! 私は、もういいんです……これでみんなの役に立てるなら……)
(俺の目の前からいなくなるな! そんなこと絶対許さない! お前の望みを諦めるな!)
――私の望み……? みんなの役に、必要とされるなら……。……本当にそれだけ?
(本当にもう危ないですから……。早く手を……)
(俺は絶対諦めない! お前を失うくらいなら、一緒に落ちてやる)
――熱い、もう危険なのに、この人は……。絶対、この人だけは失いたくない……!
そう思った瞬間に、光が爆発したように溢れた。
「……あー、久しぶりに見た」
目を覚ますとそこは宿屋のベッドの上であった。寝返りをうつと、ベッドに広がる黒髪が朝日を浴びて濡れたように光っていた。
「昔の夢なんて、もう久しく見てなかったのになぁ……」
ベッドの上に身を起こした少女は膝に顔をうずめた。
空はすっきりと晴れ、朝の市場は活気づいている。
「やっぱり、ブレマンの市場はいい布がそろってるわね。衣装用に少し購入したいわ」
市場の商品を物色しながら歩き、フランと交渉ね、とディアーヌは呟いた。フランチェスコの姿が見えないのは、町の中でも興行ができそうな場所を探しているためだ。昨夜のビョルンの発言でこの町での逗留が長引くと踏んだため、『リドル・ラム』は滞在中の資金を稼ぐために、町中でも小規模なショーを行うことにしたのだ。適当な場所が見つかれば、役場に届け出をして、今日からでも短時間ずつ稼ぐことができる。
ジョングルールを始め、旅の商人たちなど自国以外で商売を行う者は、その所在を役場へ報告しておく義務が課せられていた。一番の理由は、何か問題が起こった時に対処するためである。しかし、届出をしておくことにより、他の人間が何かの依頼をする際に、円滑に話が進められるという利点もあった。
役場の前には、すでに手続きを終わらせた様子のフランチェスコとビョルンの姿があった。
「思った以上に、きな臭い事態になっているようですよ」
町中での興行の申請の際に、役場の人間から心配されたと言う。なんでも、最近町中では昼日中から人相の悪い男たちがうろついているらしい。
「からまれないように気を付けて、と。教会前の広場なら、ごろつき共も近寄らないのでそちらで活動することを勧められましたよ」
「教会前、って大丈夫なの?」
「天に唾吐く行為をするわけでもないですし、“主の光”を汚すものでもないですから。子供たちが集まれば、教会の教司たちにとっては説法を説くいい機会になるでしょう」
問題ないとあっけらかんと笑うフランチェスコだが、教会に属する教司によっては、大道芸人は卑しいものとして眉をひそめる者も少なくない。明らかな差別は教会の良しとするところではないため、あからさまな侮蔑はないであろうが、グリムデル領に赴任している教司が偏見のない人物であることを祈るしかない。
教会は、聖輝教が各地方における祈りの場として作る場所だ。
聖輝教は、『光は神であり、その輝きをもって力を顕現させ、世界を照らす』という教義のもと、広く大陸に布教している。聖シャマーニュはその総本山であり、教皇が治める一つの国家として成立していた。
シルウァス島に比べれば未だ歴史は浅いものの、各地に点在する教会の数はシルウァスの神殿に比べて非常に多い。数百年の歴史しか持たない教えであるからこそ、数でカバーしている、というのはフランチェスコがたまに吐く毒だが、それでも人々の生活に根付いており、暴漢もわざわざ教会の敷地内で騒ぎは起こさない。
「無法者にミレー峠の盗賊か。軍部統括のグリムデル家のお膝元で物騒なことだ」
「ねえ、フラン。布がね、やっぱりいいのよ。すごく。衣装を作るのにも必要だし」
「滞在が長引くから町中でも興行をしようとしているのに、どうしてまた出費のかさむ話をするんですかねえ」
「必要経費よ。先行投資。無駄遣いするわけじゃないんだし、ね」
「あなたもちゃんと働いてくださいよ。予算的には、大体、アルギフ銀貨五枚とタッシル銅貨四十枚くらいでしょうか」
「んー、銀貨をもう二枚くらい上乗せして頂戴」
「お前らー、少しは俺の話を聞けよ」
そんなに使い込むなら一日に二時間は働いてくださーい、だの、日に焼けるからそんなに外にいるのはちょっと嫌かも、だの、呑気に話をしている二人はビョルンの抗議に耳を貸す気はないようだ。
片方だけならまだしも、二人揃うといつも肝心の本題からずれていく。おかげで深刻にならずに済むこともあるのだが、せめて本題を終わらせてからにして欲しい。
天を仰いで、「さてどうすっか」と嘆息しかけたビョルンの目の端に、赤茶の線が走った。
「おい! アルプレヒト!」
「えっと、団長さん?」
「朝から見回りか? ご苦労さん」
呼ばれたアルプレヒトは、目を丸くしている。朝早くからすでに警備隊の制服を着て、二人連れで巡回をしていたようだ。
相方と一言二言かわし、二手に分かれたようだ。
「三人で集まってどうしたの? 興行のための準備?」
「ちょうど良かったです。聞きたいことがあったんですよ」
大人三人に囲まれ、アルプレヒトはたじろぐ。がっしりとしたビョルンに肩を組まれると、身動きが取れなくなる。しかし、目の前のフランチェスコからは別の圧を感じる。まるで獲物を逃がさんと言わんばかりの――。
「ねえ、どの布屋が一番いいかしら?」
目の前にずいと顔を寄せてきたディアーヌに、アルプレヒトは思わず一歩後ずさる。ふわりとした甘い香りに、思わず顔が赤らむ。
「ディアーヌ」
「だって、いい生地が並んでるんだもの。地元の人なら絶対お勧めのお店の情報何か持ってるでしょ」
言うが早いが、アルプレヒトの腕に手をまわし、有無を言わさず市場の方へと向かっていく。その後ろ姿にフランチェスコは深いため息をついた。隣を伺うと、無言のまま顎をしゃくられる。
軽く頷き返し、二人の後を追いかけ始めたフランチェスコは、懐の温度具合を確かめた。