暖かい食堂
「あの子」
呟くと、青年は私にピタリと近寄ってきた。
「あれは、ユウです」
「ユウ、……アルファベット」
「そうです、彼女はいつもあそこで、じっと立っています」
「どうして?」
私は青年の横顔を見つめる。
「こんなところにいたら、風邪を引いちゃう」
「ユウは一言も話しません」
私はリビングにいた小さな少年を思い出した。
青年は少し悲しそうに見えた。
「だけど、連れて行かないと」
「無駄です、僕も試しましたから」
「試したって、」
「近寄ろうとすると、行ってしまいます」
「それじゃあ、追いかけてください」
青年は静かに首を振った。
「いつも気づけば、見えなくなって、いなくなって」
青年は、ぼんやりと少女の方を見つめる。
「もしかすると、この館は彼女の意思を尊重しているのかもしれない」
爽やかな容姿がまるで曇り空のみたいだと思った。その雲には、悲しみと優しさが乗っている。
私は言葉を選ぼうと、意識を沈めていく。だけど結局口が動かなかった。
よく意味が分からない、そんなことを言おうとして、だけど止めた。
少女がいる方をじっと見た。
「ユウがいるということは、ほら、そこが食堂ですよ」
青年の指差す先には、大きな鉄扉が見えた。それはいつの間にかそこにあった。
怪しい記号のような、由緒ある伝統のような、古びた文様が入っている。
暗い部屋で見た扉のことを思い出した。
どちらも、不思議な物語を感じさせる。
「ほら、行きましょう」
青年は一歩前に立つと、私の方を振り返る。
誘うように少し眉を持ち上げ、丸い目に健やかな光を湛えた。
外の光がしんみりと差し込んでいる。
ユウはどこか俯いたまま、じっとしている。持っているぬいぐるみを握りなおしたようにも見える。
なんとなく、私は青年の言っていることが正しいと思った。それに彼はあまりにも平然としていた。もう何度試したという彼の言葉は、そのまま真実のようにしか思えなかった。
少女に敵意はなくとも、それと同じように好意をまるで感じない。
ただ薄明かりを受けて、しんと、じっとしているだけ。それに時々、服の裾が揺れる、ただそれだけだった。
私は青年を見て軽く頷くと、彼に続いて食堂へと入った。
扉をくぐる時、もう一度振り向いて、私は瞬きをした。
「僕はいつも一人になりたい時、ここへやってきます」
青年の白い肌が柔らかな明かりをもつ。
ふわりと、自動的に壁際のライトが灯る。
「自分の部屋でも良いですけど、それだと、なんだか寂しくて」
私は彼の目を見て、こくりと頷く。
食堂は思っていたよりも小ぢんまりとしている。
小中学校の教室を何となく匂わせた。だけど実際にはもっと大きいのだろう思った。
私は学生時代なんてよく覚えていない。もし記憶が残っていたとしても、同じように感じるのだろうか。
壁のあちこちに絵画や木の装飾が掛かっている。同時に、どこか礼拝堂のようにも見えると思った。きっと、人が集まる場所として、相応しいのだろうと思う。
細長い茶色のテーブルと黒い椅子があって、座席部分は緑色のクッションになっている。
背もたれの先端の部分はくるりと丸く渦巻いている。ものによっては傷がいくつか入っていて、むしろ気品を増している。それはどこか老紳士を思わせる。
少し低い天井には、全部で四か所にシャンデリアがひっそり浮いている。
だけどまだそこには明かりが付いていない。埃が被っているようにも見える。
「なんだか、素敵」
私は思わず呟いていた。
「僕も好きです」
青年の表情がひなたになった。
「ずっと、時が止まっていたみたい」
「わかります。ここはきっと、そういう場所だと思います」
青年はすたすたと、食堂正面へ近づいていく。奥には一つの扉があった。
彼は顔を右に左に辺りを見回して、天井を向いて、何かに浸るように目を瞑る。
コツコツと、革靴が鳴る。私は、それに続いていく。
視界の端で絵画たちがこちらを見ている気がした。
それらは一定の間隔が掛けてあり、私は上階の廊下の窓を思い出した。
絵画に描かれていることは様々だった。金色の額の中へと、まるで忘れられたようにすんと収まっている。何も言わずに、ひっそりと呼吸をしているように見える。
男性が何かの穴を掘って、茶色くうずもれている。草原の上で誰かが両手を広げて、空を仰いでいる。小屋の中で家畜の世話をしている男と、それを見守る柔和な女性がいる。夜へと溶けていく淡い光の夕暮れと、その下で影になって遊ぶ子供たちが描かれている。
どの絵を見ても人々はぼろぼろの格好をしていた。全ては、数百年前に描かれたもののように思える。
私は歩きながらそれらを眺めていた、ひそかに目を瞑って、それから開いた。
壮大な歴史が胸の中へと一気に駈け込んで、それからすっと跡形もなく消えていなくなった。彼らの残像が、まだどこかで鳴っている気がした。少しも見えないけれど、何故だか大地を駆ける雄大な騎馬隊が頭に浮かんだ。どどど、どどど、と、一斉に土煙を上げて視界を覆いやってきては、晴れたころには、もう彼らの姿はないのだ。
私は名残惜しい気持ちで耳を澄ませたけれど、食堂はただ音もない平和をたおやかに震わせている――ふと、ここにも正面には暖炉がある。私が目覚めた部屋にはなかった。揺りイスで眠っているおじいさんが、意識を過った。共有部にならどこにでもあるのかもしれないと思った。レンガ造りの黒い小さな空間、銀色の支えの上に、薪がいくつか寝かせてある。
青年はその前に立って、じっと視線を沈ませているようだと、こちらに見せる背中越しに、そう感じさせる。
私よりも少し大きくて純粋な後ろ姿からは、ただ切り整えられた髪と素朴さが首元から覗くだけで、私には彼が何を考えているのかちっともわからない。
ゆっくりと近づくと、青年は手を翳していた。暖炉には火が灯っていなかった。
彼のすぐ隣に立って、その横顔を窺う。
目は閉じられていて、白い肌の上を少年のような無邪気さがちらりと跳ねた。
「何をしているの?」
青年は、ぼんやりと目を開け、ふふりと笑う。
薄い唇に、落ち着きがさざめく。
「敬語は、止めたんですね」
青年は私を見た、表情からは力が抜けていた。
「さっきから、そうだなあと思っていました」
「ああ、ごめんなさい」
「いえ、そのままいいですよ」
彼の横顔が優しく見える。
「じゃあ、あなたも」
「僕はこれで良いんです」
青年はまた暖炉の方を向く。とても、リラックスしているように見える。
「このままが、いいんです。そうさせてください」
「……うん」
「そうだ、」
彼は丸い目を輝かせる。
「この暖炉、どうやって火を点けるのか、わかりますか?」
そういって、彼は翳した手をひらひらと動かしてみせる。
「さっぱり」
私は首を振った。
「じゃあ、僕の真似をしてください。まずはこうやって両手を翳して、それから目を瞑って」
私は言われたとおりにした。
目の前が真っ暗になる。当たり前のこと。しとしとと、意識が揺れているのがわかる。
「それで、どうすればいいの?」
「そのままでいいですよ、僕を信じて下さい」
「でも、」
「いいんです、少し待ってくださいね」
私は黙って、そのままじっとする。青年が何をしているのかが気になった。
無言が辺りを包み込み始めて、世界がじんわり形を失くしていく。私は、息を呑む。
肩から、背中から、時の流れが引いていく。黒い影が、どこか意識の奥底で蠢く。
今どこに居て、どうしているのかがよくわからなくなる。何も見えないというのがどういうことなのかがよくわかる。閉ざされた暗闇の中で、小さな少女の姿がひらりと光った。だけどそれもすぐに見えなくなった。余韻を残して、森の奥の霧のように消えていく。
すぐ隣で、青年の息遣いが微かに聞こえてくる。なんとなく、口呼吸をしているとわかった。小さな穴からストローのように空気を吸い込んで、ふうと吐き出して、そういった落ち着きが空気感として、肌を通して伝わってくる。私はそれに耳を傾けてみる。
するとすぐ目の前で、ぽうっと何かが生まれた。
暖かい明かりの波が伝わってくる。それは信号となって、瞼の裏でオレンジ色になって、ぼんわりと溶け出した。
翳した両手には安心が訪れて、そのまま足元へと優しく撫でおろしてくれる。
私は目を開こうとして、少し躊躇した。胸の奥で張り詰めていたものが、代わりに温もりとなって広がっていくから。あまりにも心が喜びを覚えて、安らぎを感じて、ここから離れたくないと叫ぶから、私はやっぱり目を開けることが出来なかった。
隣では青年の気配が衣擦れを起こす。
目を閉じていてもなんとなく、彼の姿が見える気がした。透明なものが煙みたいにのびのびと青年を形どって、なんだか、笑っているみたい。
もちろん、実際に彼がどうしているのかはわからない。
目を開けているのか、閉じているのか、手は翳したままなのか、本当に笑っているのか、また、どこか悲しみを感じているのか。ただ、青年の白い肌が頭に浮かぶ。
「もう、目を開けていいですよ」
彼は、笑っていた、そう聞こえた。
言葉尻が優しく、細く伸びた。その先で、パチパチと赤い音が鳴る。
「わかってるよ」
口元がにんまり緩む。私は目を閉じているのが怖くないと思った。
「でも、そうされているとなんだか僕が、」
ゆっくりと目を開いて、青年の顔を見る。
「子供じゃないんだから」
私は微笑んだ。
青年は答えずただ口角を緩め、全身で、もう何も言う必要はないと言っているみたいだった。
翳したままの手のひらから、暖気が、少し熱いくらいに思える。
青年は静かに目を輝かせている。丸い瞳で炎の色を受け取って、反射させて、灯しているみたいだと思った。
「これ、どうやったかわかりますか?」
「ううん、ちっとも」
「実は、ただ念じただけなんです」
「念じる?」
私は言葉をなぞる。
「そうです、さっきみたいに両手を翳して、目を瞑って、暖炉さんへ念じただけです」
「なに、暖炉さんって、」
言いながら、暖炉さん、という響きが心地良く思えた。
「なんだか変なんです、言ってみれば、生きているみたいなんです」
青年は私の目を見る。やっぱり瞳の中で明かりがちらついている。
「まるで、本当に生きている、会話をしている、そういう風に思わせてくる」
彼は安心しているといった風で、パチパチとなる炎へ目を落とした。口元を緩ませて、充実感を滲ませる。
「目を瞑って、こうやって手の先から念じるみたいに、火をお願いします、いつもありがとうございます、心でそういうと、暖炉さんの気配が、ふわっと、漂うんです。まるで、今起きましたよ、って言っているみたいに」
彼は暖炉の方を向いてぼんやりと、だけどちらりと私を窺う。
「僕、自分が言っていることが変だって、そう思うんですけど、だけどそう感じるから、仕方ないじゃないですか」
「わたし、まだなんにも言ってないよ」
「ああ、そっか」
青年はまた下を向いた。火の明かりが彼の鼻のあたりを暖かく染めている。
「なんか、可愛いなあ」私は彼をばんやりと眺めた。
「はは、やめてくださいよ」
青年は首を左右に回して、それからすたすたと歩き出した。すぐ先に扉があって、厨房のような場所へと続いている、ちょうど入口から向かって対角にあった。
彼は扉をくぐっていく。
「あの、こっちがキッチンです。冷蔵庫や、ガス台や、まあ、いろいろあります」
音が反響して縮まって聴こえる青年の声が、扉の向こうから頼りなくクルクルとやってくる。まるでバランスを失った蝶々みたいで、そこには戸惑いが滲んで見えた。
「はあい」
私は彼に届くように声を上げた。
足元で自分の影が薄っすらとちらついている。
炎へ翳したままの手を、グー、パーと動かす。
暖炉の前から離れるのが名残惜しかった。
パチパチと薪が鳴る音が天井へと昇っていく。暖かい空気が、もんわりと降りてくる。私はしばらく炎の揺らめきを見つめた。予測できない動きを繰り返して、影が踊っている。ちらちらと赤色が舌を出して、何かの生き物みたいに見える。
少しすると、青年はカップを二つ手に扉から出てきた。
カップは紺色で、深い夜みたいな色だった。
「コーヒー、一応ミルクと砂糖を」
青年はバランスを取るように腰を曲げ、カップをテーブルへと運ぶ。一度すぐ手前に置いて、そのままするりと椅子の前へと滑らせていく。
それから振り返って、顔色を窺うように瞬く。
私はカップを持って歩いている時の慎重な、少し前かがみな青年のすり足がどことなく可笑しくて、その光景がしばらく頭の中をグルグルと回った。じわじわこみ上げてくる笑みを抑えるのが難しかった。
青年は私の様子を見て、少し困惑したみたいに眉を落としていた。首を傾げているよう
にも見えた。
青年は黙って椅子を引いて、一人で腰を落ち着けた。
私はもう一度、暖炉へと手を翳した。それから彼の向かい側の席へ座った。
青年は満足そうに、丸い目をコーヒーへと沈ませている。
両手を添えて、細心に、とっくりと口元へカップを運んでいる。まるでホットココアを
飲む小学生みたいだと思った。私は真似をするように両手でカップを包み、それから口元へと運ぶ。表面から浮かび上がる湯気が、もんわりと鼻のあたりをくすぐる。
ちらりと青年へ目を向けると、彼はまだ視線を落とし、一度カップをテーブルへと置い
た。それからもう一度持ち上げてちびりと口をつけると、またテーブルへと置く。
その間、視線はずっとコーヒーへと向いたままだった。中身は少しずつ減っているはず
なのに、彼はずっと同じ容量の、同じ温度の、変わらないものを見ているみたいだった。そう感じさせるような固定された視線で、一定の呼吸をしていた。
私は天井を見上げる、のっぺりと黒く沈んでいる。
彼はここにいるようで、ここにはいないのだと思った。
考え事をしているのか、何も考えていないからなのか、どちらだかはよくわからない。
急に一人きりになった気がして、私はカップを置いた。
「ねえ、」
声を掛けると、青年は瞳だけちらりと私を見る。その間もカップを手で包んだままちびちびと飲んでいる。
「今、何を考えているの?」
青年は不思議そうな顔をした。